(17)
「……ふう」
と、ロウは大きく息を吐いた。
全身の筋肉が、強張っている。
左手には、巨大剣の感覚。
右手には迷宮核の感覚……はない。
「うん?」
目の前に、薄茶色の髪をした少女がいた。
年齢は――十代の半ばくらいだろうか。
どこかあどけなさが残る可愛らしい顔つきで、髪には少し癖がある。
細身の体格だが、年齢のわりにかなり胸が大きい。
少女は上品そうな部屋着を身につけていたが、その手には杖が握られていた。
さらによく観察すると、その背中に隠れるようにして、十歳くらいの子供がいた。
こちらは艶やかな黒髪を短く切りそろえている。
「お兄、ちゃん……」
薄茶色の髪をした少女が、ぽつりと呟いた。
その声。
おどおどしたような、それでいて少し鼻にかかったような、無条件で甘えさせたくなるような――
そもそも、ここはどこだろうかと、ロウは周囲の様子を見渡した。
自分は迷宮の最下層にいたはずだが、ここはどこかの屋敷の部屋の中のようである。調度品は豪華だ。暖炉まである。
壁はレンガ造りで、机やクローゼットらしき家具は、すべて黒檀。家主の趣味なのか、落ち着いた色調で統一されている。
どうやら迷宮から助けられたらしいことは間違いなかった。
「お兄ちゃん!」
大きな瞳から、涙が溢れる。
たまりかねたように、少女が抱きついてきた。
ここでひとつ、確認しなくてはならないことがあると、ロウは自問した。
自分を「お兄ちゃん」と呼ぶ存在は、ひとりしかいない。
マリエーテだ。
声も似ている。面影もある。
髪の色と瞳の色も同じ。
「というか、マリンか?」
胸の中にいる少女は、びくんと身体を震わせた。
下から見上げるようなその姿には、既視感があった。
ずいぶんとまた、可愛らしく成長したものだ。
少女はこくりと頷く。
「……あ~」
自分はいったい、どれほどの時間、気を失っていたのだろうか。
後頭部をかきながら、質問してみる。
「えっと、マリン? いくつになった?」
「十五歳です」
ということは、十一年が経過したということか。
自分はとうに三十路を過ぎたことになる。
不安にかられて手のひらや甲を観察してみたが、特に年齢を感じるようなことはなかった。
――と、それよりもまず。
「ただいま、マリン」
頭を撫でてやると、再び少女の目から涙が溢れ、堪えきれない嗚咽を漏らしながら、ぎゅっと抱きついてきた。
今が十一年後だとしても、相変わらず泣き虫のようだ。
マリエーテが突撃してきたことで、後ろにいた子供が所在なさげに立ち尽くすことになった。
短く切りそろえられた黒髪に、黒い瞳。肌は雪石のように白いが、頬が薄く色づいている。
顔の形はきれいな卵型。切れ長の目は睫が長く、鼻筋もすっと通っていて、唇はふっくらとしている。それぞれのパーツも、全体のバランスも含めて、信じられないくらい造形が整っており、将来が楽しみな女の子だと思った。
マリエーテが泣き止むのを待ってから、ロウは聞いてみることにした。
「この子は?」
「……!」
子供は、あからさまに動揺した。
あ、とかう、とか不明瞭な声を上げながらも、こちらから視線を外せないようだ。
今さらながらに、ロウは気づいた。
今の自分は髑髏の仮面と黒いオーラを漂わせている漆黒の長外套を身につけている。
ベリィ曰く、どこの死神よ、とのことらしい。
こんな格好では、怖がらせてしまうだけだろう。
ロウは仮面を外して、安心させるようににこりと微笑んだ。
子供はびくりと身体を震わせて、こちらをじっと見つめた。
「……あぅ」
頬を真っ赤に染めて、両手を口元に当てている。
見ているだけで可愛らしいが、やはり、そうとう緊張しているようだ。
黒髪黒目で、これだけの美少女というと、まず最初に思い浮かぶのが、ユイカである。彼女の妹がいたとするならば、こういう感じではなかろうか。
いや、違う。
ユイカには妹どころか、両親や親戚すらいなかったはずだ。
それに、マリエーテが本当にマリエーテで、彼女の言葉が正しいのだとするならば、ここは自分が知っている時世ではない。
あれから十一年の年月が過ぎているとするならば、この子は――
「ひょっとすると」
奇跡的に……。
「俺とユイカの、子供かな?」
「すごい、お兄ちゃん!」
がばりとマリエーテが顔を上げて、大きな瞳をきらきらさせた。
「分かるの?」
「当たり前だよ」
内心の動揺を、笑顔で覆い隠す。状況からの推理と、間違っていたとしても謝ればよいという開き直りの結果であった。
黒髪黒目の子供もまた、ぱっと表情を変えた。
すごく嬉しいのだけれど、はずかしい、そんな心情が手に取るように分かった。
「ほら、ミュー。きちんと自己紹介しなさい」
ロウから離れたマリエーテが、自己紹介を促した。
知らないお客さまがきたら、両手を前にそろえて、頭を下げて、きちんと自己紹介をしなくてはならない。
ロウがマリエーテに教え込んだ礼儀作法は、そのまま受け継がれているようだ。
「は、はじめまして、父さま。ミユリと申します。十歳です」
鈴を転がしたような、可憐な声だった。
ロウも立ち上がり、お辞儀をした。
「はじめまして、ロウです。君の、お父さんだよ」
まったくもって自覚はなかったが、子供を失望させるわけにはいかない。
ミユリと名乗った子供は、一歩一歩近づいてくると、上目遣いにこちらを見つめてきた。
この仕草には、見覚えがあった。
何かを言いたいときの、あるいは察するべしというときの、ユイカの仕草だ。
――これか?
頭をかるく撫でてみる。
ミユリは頬を赤らめながら、にこりと笑う。
推察するに、この子は父親の顔も知らずに、ずっと寂しい思いをしてきたのだろう。そして今日、はじめて父親と対面することになり、不安だったに違いない。精神の負担を払拭するためにも、ここはこちらの気持ちをしっかりと伝えるべきだと思った。
ロウは腰を屈めると、その華奢な肩に手を置いて、じっと見つめた。
「ミユリ。君のような可愛い娘ができて、嬉しいよ」
「……」
笑顔が、微妙な表情に変化する。
「もう、お兄ちゃん。ミューは男の子だよ?」
「……へ?」
娘ではなく、息子?
確かに、男の子用の服を着ているが……。
ミユリは恥かしそうに頬を赤らめ、もじもじした。
あらためて見直してみれば――やはり、女の子にしか見えない。
「そうか。ごめんな、ミユリ」
「い、いえ……。僕、よく間違えられますから」
とりあえず自己紹介が終わったところで、現状の確認を行うことにした。
「マリン。再会したばかりでわるいけれど、簡単に状況を説明してほしい。君の感覚からいうと十一年前に、俺はタイロス迷宮の最下層にいたはずだ。ここは、どこなんだ?」
「王都だよ」
マリエーテは窓のカーテンを引いた。
そこには思わず圧倒されるようなレンガ造りの街並みが、延々と続いていた。遥か遠方には巨大な壁が霞んで見える。城壁だろうか。
「そして、ここはユイカお姉ちゃんの家。今は、私とミューの家でもあるの」
マリエーテの表情が少し憂いを帯びたように感じたのは、気のせいだろうか。
「マリンはユイカに引き取られて、王都に来た。そういうことだな?」
「……うん」
では、グンジがあの遺言を、ユイカに伝えてくれたということだろうか。
ロウは心から安堵した。どうやら自分は、迷宮核を消滅させることに成功したらしい。“宵闇の剣”は地上に帰還して、その後ユイカはマリエーテを引き取ってくれたのだ。
となれば、次の疑問である。
「俺は、どうなった?」
いまいち不明瞭な問いかけに、マリエーテが答えた。
タイロス迷宮の最下層で、ロウは石化した状態で発見されたという。それは状態変化ではなく、身体の通常状態の書き換えだった。
ユイカの指示で、ロウの身体は引揚作業され、王都へと運ばれたらしい。
「身体の通常状態の書き換えは、“状態回復”の魔法でも直せないはずだけど」
「うん。私の魔法で元に戻したの」
ロウを救う手段を探すために、マリエーテは冒険者になったという。養成学校を卒業したばかりだが、冒険者レベルはすでに四。そして、二種類の魔法ギフトをもつ魔導師でもあった。
「マリン姉さまは、すごいんです。ちまたでは、“時間の魔女”って呼ばれてるんですよ。養成学校でも、すでに伝説になっていて……」
「も、もう。やめてよ、ミュー」
“時間の魔女”――時属性の魔法か。
それは、古い書物の中でのみその存在を知られている魔法だった。
「石化した俺の時間を、巻き戻したのか?」
「……な、なんで分かったの、お兄ちゃん?」
マリエーテの魔法ギフトは“逆さ時計”というらしい。球形の魔方陣を形成すると、その内部にあるものの時間を巻き戻すことができる。
ただし、対象は石や土、金属といった無機物のみであり、生物には効果がない。
つまり、たとえば死亡した人間を生き返らせることは、できないというわけだ。
「私がこの魔法を習得したのは、三年前なの。それから毎日、ずっと――お兄ちゃんに“逆さ時計”をかけ続けたわ。マナポーションも使って、毎日、ずっと」
一度に巻き戻せる時間は、約三日間。
そして今日、ようやく十一年前のあの日に届いたのだという。
「そうか。俺は――マリンに助けられたのか」
守るべき対象だった妹の成長に、ロウはじんわりとした喜びを噛み締めていた。
「ありがとう、マリン」
もう一度マリンと、そしてミユリも抱きついてくる。
ふたりの頭を撫でながら、ロウは次の疑問を口にした。
「それで、ユイカは今、どこにいる?」
「……」
マリエーテがびくんと硬直した。
俯き加減のまま身体を放し、両手を胸の前に当てる。
「お願い、お兄ちゃん」
顔を上げると、涙に濡れた目で懇願してきた。
「ユイカお姉ちゃんを、助けて!」




