(16)
“宵闇の剣”の迷宮攻略は、失敗に終わった。
何故ならば、タイロス迷宮の最深部にあったはずの迷宮核が、失われてしまったからである。
タイロス竜の姿が消え去ったことと関係があることは間違いないが、真実を確認することはできなかった。
“宵闇の剣”の中で最後まで意識を保っていたのはユイカであり、他のメンバーたちも状況は分からない。
唯一、真実を知っていたであろうロウは、身体の通常状態を“石”に書き換えられ、もの言わぬ石像となった。
魔素を生み出す迷宮核が失われると、新たな魔物は出現しなくなる。
地下五十三階層で休養をとった“宵闇の剣”は、石化したロウを残して、帰路に着くことになった。
誰も、ひと言も話さなかった。
地上に帰還すると、ユイカはひとりマリエーテに会いにいった。
逃げ出したくなる気持ちを押し殺しながら、ロウが迷宮内で怪我をしたと伝えた。
ロウが死亡したことなど、ユイカは認めなかったのである。
マリエーテは泣かなかった。
いつかこういう日が来るかもしれないことを、兄から何度も聞かされていたからだろう。ただ、何も言わず、俯いたまま、少女はじっと何かを堪えていた。
ベリィとヌークの怪我が癒えると、ユイカはひと手を集めて、再度タイロス迷宮に潜行しようと試みた。
ロウの引揚作業のためである。
しかし、タイロスの行政機関――町役場の職員が来て、迷宮への立ち入りを禁止する旨を伝えてきた。
「迷宮は町の財産であり、その管理責任は、我々が負うことが、法によって定められております」
というのが理由である。
迷宮核を失った廃迷宮には、新たなる薬草や鉱石類は生まれない。
しかし、すでにあるものが消失することもない。薬草は枯れてしまうこともあるが、鉱石類は残る。それらは、今後町が迎えるであろう試練を乗り越えるための貴重な財源となるのだ。
ゆえに、行政から冒険者ギルドに対して、迷宮内に残った魔物に対する討伐依頼を行う形となり、それ以外の理由で迷宮内に入ることは禁止されるのである。
淡々と口上を述べる職員を無視して、ユイカはタイロスの町役場へと向かった。
それから、冒険者ギルドと案内人ギルドも訪れ、翌日には三者の許可をとることに成功した。
タイロス町長バラモヌ、冒険者ギルド長のジョー、そして、元案内人ギルド長のギマ。
この三者とユイカの間で、どのような交渉が行われたのかは、公開されていない。
しかし、三つの組織が全面的に“宵闇の剣”の計画――ロウの引揚作業に協力することだけが、突然表明されたのである。
「迷宮道先案内人のロウ君は、町の英雄であり、誇りでもある。その偉業を称えるためにも、廃迷宮の奥で眠らせておくことはできない!」
力強くバラモヌが宣言したが、その声は若干震えており、どこか追い詰められているように感じた人々も多かったという。
さまざまな矛盾と葛藤を抱えながら、ロウの引揚作業は実行された。
石化しているため、重く、そして脆い。
誤って倒してしまえば、腕の一本くらいはすぐに欠けてしまうだろう。
慎重に慎重を重ねて、石化したロウが地上に引き上げられるまでに、約ひと月という時間がかかった。
変わり果てた兄の姿を見て、初めてマリエーテは泣き、もの言わぬ石像にすがりついた。
ユイカはただ、少女を抱きしめることしかできなかった。
わずかな希望を託して、闇医士であるカノープに水属性の状態異常回復魔法“浄化”をかけてもらったが、やはりロウは元に戻らなかった。
すっかり意気消沈し、宿の自室に引きこもってしまったユイカは、意外な人物の訪問とともに、驚くべき報告を受けることになる。
「これが、ロウの遺言だ」
客人は、案内人ギルド長のグンジだった。
ユイカも面識がある。
案内人ギルドの元エースで、ロウの師匠でもあり、ユイカにロウを推薦してくれた人物でもあった。
「最後の潜行の直前にロウが来て、遺言の差し替えをしたんだ」
その内容を、グンジがかいつまんで説明してくれた。
もともとロウの遺言は、自分の財産の半分を親戚であるムラウに渡し、残りの半分をグンジが管理するというものであった。
そして、マリエーテが十二歳になったときに、彼女にその財産を委譲する。
金に対して執着心が強いムラウに対しての、ロウの防衛策でもあったようだ。
しかし新しい遺言は、まったく違った内容が書き込まれているのである。
『もし自分が迷宮から帰還できず、婚約者であるユイカのみが帰還した場合、妹であるマリエーテを、彼女に託す』
ユイカが承認することが、前提条件であった。
そしてもし、ユイカが受け入れなかった場合は、元の遺言を適応させることになる。
「あいつはマリンのことを死ぬほど可愛がっていたし、心配もしていた。仲間である我々も、同じ気持ちだ。もしよかったら、ロウの望みを叶えて欲しい」
身体の通常状態が“石”に書き換えられたロウは、公的には死亡扱いとなることが決まっていた。
心情的には受け入れられなかったが、思考の結果は別物である。
ユイカは一瞬の迷いもなくロウの遺言を受け取ると、その足で、マリエーテがいるムラウの家へと向かった。
法的な手続きが終了するまでに、さらにひと月がかかった。
この間、“宵闇の剣”に関する事柄をすべてヌークに任せて、ユイカは少女の精神的なケアに、全力を注いだ。
片ときもマリエーテから離れなかったし、また、離れたくもなかった。
ロウを失って心のよりどころを失ったのは、自分も同じだったからである。
兄のいない寂しさに、マリエーテは夜のベッドで眠ることができないでいた。
そんなとき、ユイカは義妹であるマリエーテを力強く励ました。
方法については、今は見当もつかないが、必ずロウを助けてみせる。
何年かかっても、その方法を見つけてみせる。
そう、約束したのである。
ベッドの中でユイカにしがみつきながら、マリエーテは何度も頷いた。
タイロス迷宮が踏破された衝撃を、町の住人が徐々に受け入れ、ようやく現実的な動きを起し始めようとした頃、ユイカは王都に戻ることを決定した。
もちろん、マリエーテと共にである。
心労と疲労が溜まっていたのか、旅の途中、ユイカの体調は優れなかった。
あいにくと状態回復の魔法“闇雫”は、自分自身には使えない。
ユイカは馬車の中で横たわり、幼いマリエーテに心配されながら王都に帰還することになった。
ヌークの判断により、対外的には、“宵闇の剣”がタイロスの迷宮を踏破したことにすることが決定されていた。
事前に王都の大地母神の教団や冒険者ギルドには伝えられていたが、ユイカを初めとする“宵闇の剣”のメンバーたちの強い要望により、凱旋のパレードなどはすべてキャンセルされた。
自分たちはタイロス竜と戦って、負けた。
どうやらロウの行動によって命を助けられたようだが、彼の功績を横取りするような真似など、東の勇者を冠する冒険者パーティとしては、心情的に認めることなどできなかったのである。
王都に着くと、ユイカはメンバーたちと別れて、マリエーテとふたりで自宅へと向かった。
ユイカの住居は、王都の中でも王城に一番近い位置――上流階級に属する人々が住まう領域にあった。
教団の土地と建物ではあるが、見かけは周囲にある屋敷とそう変わらない。
立派な庭とレンガ造りの屋根が美しい豪邸である。
ユイカとマリエーテを迎えたのは、三人の使用人だった。
執事兼秘書であるシズ、そしてメイドのタエとプリエである。
「黒姫さま。お帰りなさいませ」
女執事の言葉と動作に合わせて、ふたりのメイドも頭を下げる。
「ああ、今帰った。それで、この子がな……」
ユイカと手をつないでいたマリエーテは、その手を放し、両手をそろえてぺこりとお辞儀した。
「マ、マリエーテです。四歳です」
「……」
緊張で、その声はわずかに震えている。
心配そうに見上げてくる少女の姿に、中年のタエと若いプリエはだらしなく口元を緩めた。
「お手紙でうかがっていましたが、こちらがマリエーテさまですか。何とまあ、可憐な……姫さまと違って、庇護欲をそそられるというか、何と申しますか」
「きゃぁ! 可愛い! ねえ、姫さま! ちょっとだけ抱きしめてもいいですか?」
「だめだ。マリンはひと見知りする子だからな。新しい生活に慣れるまでは、指一本触れさせんぞ!」
「タエ、プリエ、そして黒姫さま。どうか落ち着いて下さい。まずは、荷物をお部屋に運びましょう。お話は、リビングで紅茶でも飲みながらお聞きします」
ユイカは使用人たちに、タイロスの町で起こったすべてを伝えた。
シェルパのロウと出会い、恋に落ち、婚約したこと。
“宵闇の剣”全員の命が、おそらく彼によって救われたこと。
その過程で、ロウの身体の通常状態が“石”になったこと。
最後に、ロウの遺言で、妹であるマリエーテの身元を引き受けることになったこと。
「マリンは、まぎれもなく私の義妹だ。みなもそのつもりで接してもらいたい」
マリエーテの立場を確保したところで、気が抜けたのか、ユイカは体調を崩してベッドで寝込むことになった。
その後も、微熱が出たり倦怠感に襲われたり、吐き気がしたりと、不明瞭な症状が続いた。
「いかんな。知り合いの冒険者に、“浄化”の魔法でもかけてもらおうか」
ユイカの行為を止めたのは、熟練メイドのタエであった。
彼女は自身の経験から、その可能性に思い当たっていた。
「姫さま。治療院から医師をお呼びしましょう。まずは、診察することが第一です」
タエの想像は当たっていた。
ユイカは、ロウの子供を身ごもっていたのである。