(8)
巨大な背負袋を担ぎつつ、ロウは周囲を見渡した。
地下五十階層の迷宮泉は、他のものと比べるとやや小規模で、その広さはロウの自宅と庭を合わせたくらい。泉の水は冷たく、不気味なほど澄み切っている。
迷宮改変が起きた後ということもあり、地面や壁、天井に生えている光苔は薄暗く、所々ひび割れ、剥がれ落ちたままだ。しかもその色は、不安感を掻き立てるような、淡い紫色。迷宮内の安全地帯でなければ、決して長居したいとは思わないだろう。
タイロス迷宮の最下層は、五十二、三階層と予想されていた。
となれば、この迷宮泉が最後の拠点となる可能性もある。すでに上階層へと向かった遠征パーティは、四十八階層の迷宮泉を拠点とするとのことで、今後、彼らの助力を当てにすることはできない。
ロウとしても、“宵闇の剣”と一連托生の運命であった。
「少し寂しくなったが、これからが本番だ。気合を入れていくぞ」
ユイカがメンバー全員に視線を送り、最後にロウに向かって頷いた。
迷宮探索は八日目に入っている。過去二回の探索では、寝不足で目の下にくまを作っていたユイカだったが、今回は十分睡眠をとれたこともあり、精神的な余裕が見てとれる。
それは「遠征チームに参加するべき」というロウの助言を受け入れた結果であり、そのことに対して、彼女は感謝している。
言葉に出さずとも、ロウにはその心情が伝わった。
「黒姫さま。前回の探索から、約半月が過ぎています。死霊魔王が再出現しているかもしれません」
ヌークが注意を促した。
階層主については、決まった階層に同じ魔物が現れるものと、そうでないものがある。
それぞれ固定階層主とはぐれ階層主と呼ばれているが、死霊魔王がどちらに属しているにしろ、再出現する可能性は低い。
迷宮の構造が変わると、魔素の流れも変わり、階層主が出現する条件がリセットされるからだ。
おそらくそのことを承知した上で、ユイカは不敵に笑ってみせた。
「まあ、“リツ”に会えるなら、それはそれでかまわないさ」
死霊魔王は迷宮主に選ばれるほどの魔物である。総力戦になることは間違いないが、“幻操針”で使役できたならば、これほど頼りになる仲間もいない。実際、迷宮改変の後に地下五十階層を駆け回ったときも、その後地上へ帰還したときも、圧倒的な強さで他の魔物たちを寄せ付けなかった。
『……へぇ。死霊魔王を倒したのか。それ、あいつが着てた服だろう? 道理で探しても見つからないはずだ』
ゆらりと、空気が揺らめいた。
一瞬遅れて、四人の冒険者たちが臨戦態勢に入り、武器を構える。
これまで何も存在しなかった場所に、一体の魔物がいた。
通路の入口ではない。迷宮泉のほとりに、ぽつねんと立っている。
「ま、魔物?」
双刀を構えながら、ベリィが呻く。
「ヌーク! “索敵”はどうした?」
ユイカの怒声に、ヌークもまた叫び返す。
「わかりません! まったく――感じなかった!」
「こやつ、魔気を帯びておらんぞ」
いつになく厳しい表情で、マジカンが杖をかかげる。
魔物は背丈も体格も人間並み。色も長さもばらばらの髪が無造作に生えており、顔には髑髏を模した銀色の仮面をつけていた。
身に着けているのは、色も素材もそろっていない古ぼけた半袖の上着と脚衣。そして灰色の長靴。まるで作業着のような格好である。背中には籠のようなものを背負っており、中から無数の剣の柄が飛び出ていた。
首や手などから覗いている皮膚の色は、濃い紫色。
魔物の正体は分からない。
『まあ、そう慌てるなよ、人間。お前たちのことは、よく知っている』
男性とも女性ともつかぬ抑揚のない声。死霊魔王と同じように、何重にも反響しているようにも聞こえる。
カチャカチャと謎のステップを踏むと同時に、髑髏仮面は消えた。
『――死にたくない』
再び出現したのは、マジカンの真後ろ。
いつの間にかナイフを持っており、それをマジカンの首筋に当てている。
『そうだろ?』
「じじぃ!」
ベリィが双刀をクロスさせて前のめりになるが、飛び出せない。その瞬間、父親の命が失われることは、明らかだったのである。
『他のことも知っているぞ』
空気を切り裂くような殺気に囲まれながら、髑髏仮面は淡々とした口調で語り出した。
『冒険者ギルドの受付嬢のパミラサンは、むしゃぶりつきたくなるくらい、いいオンナだ。胸と尻がデカイ。是非ともお相手願いたいね。それと、イネムリテイのクシヤキは、絶品だ。エールと一緒にクウと、ウマイ。そうだろ?』
あまりにも唐突な話に、ユイカですら唖然としてしまう。
『うん? なんだ、こいつら』
髑髏仮面は、現在ユイカが使役している十体ほどの魔物に顔を向けた。命令が与えられていないため、棒立ちの状態である。
『……へぇ。人間に支配されてんのか。いきなり三枚も突破されたから何事かと思えば、なるほどねぇ。……まあいいや。ここまで来たらもうすぐそこだし、なんというか、時間の問題だからな……』
納得したように頷きながら、ぶつぶつと呟いている。
「お前は、何者だ?」
警戒心と悔恨と焦燥、敵意――様々な感情を押し殺しながら、ユイカが問う。
『俺か? よくぞ聞いてくれた』
名前はない。お前たちのいう下級魔族だと、髑髏仮面は言った。
与えられた役割は、新しく生まれた魔物たちに、武器や防具を配ること。
そして、人間たちに興味がある。
上位の魔物たちは、生まれたときに言語に関するある程度の知識を持つが、会話となると難しい。そもそも必要がないからである。
しかし自分は、人間たちに興味があったから、“学習”した。
『まあ、ここじゃ俺と主、そして死霊魔王くらいのもんだ。……とはいえ、主には、気軽に声をかけることはできないし、俺の話し相手はもっぱら死霊魔王だった。あいつは無口でいいやつさ。それに、相槌がうまい。俺の話を嫌がりもせず、ずっと聞いてくれる。最近見かけないから探していたんだが、まさか人間にやられるとはな。ああ、分かった。これが――』
魔物は突然、『コンチクショウ!』と叫んだ。
そして再び、抑揚のない声に戻る。
『……ってやつだ。そうだろ?』
ロウは驚愕で目を丸くしていた。
意味のある言葉を発することができる魔物については、魔物図鑑でも報告されていた。実際、前回戦った死霊魔王も、ユイカが使役していた骸骨騎士に対して、自分に従うよう命令していたはずだ。
しかしまさか魔物と意思疎通ができ、その生態にかかわる情報が入手できるとは思わなかった。
魔物は、下級魔族だという。
その言葉を信じるならば、深階層で迷宮内を巡回する四人組の警備兵と同類である。
人間たちに、興味があるという。
よく観察すれば、髑髏仮面が身につけている服にはボタンやちょっとした装飾があった。
そして、色も長さもばらばらの髪。
もしかするとあれらは、迷宮内で命を落とした冒険者たちの成果品ではないのか。
先ほどの髑髏仮面の会話も、情報という面においては齟齬があった。
冒険者ギルドの受付譲のパミラは、スーラの前担当者で、四年前に引退している。もう初老に差し掛かる太った女性で、むしゃぶりつきたくなるという表現は似つかわしくない。また、居眠り亭は健在だが、十年くらい前に代替わりしてから、串焼きの味が落ちたと言われている。
この魔物が持っている地上の情報は、おそらく――古い。
人間に対して興味があるのならば、その辺りを指摘し、好奇心をかきたてて、交渉の材料にできないだろうか。
頭の片隅でそんなことを考えていたロウだったが、残念ながら期待通りにはいかなかった。
人質となったマジカンが、有無を言わさず先手を打ったのである。
「黒姫よ、わしごとやれ!」
『……うん?』
「こやつは、ギフトを持っておらん。基本能力も下級悪魔と同程度。鎧も身につけておらん。やれ!」
『おかしいな。人間は、死にたくないんだろ?』
ユイカが刺突剣を構え直す。
「姫、お願い! やめて!」
「……くっ」
「できぬなら、わしがやるぞい」
首筋に刃物を当てられたまま、マジカンは杖で魔方陣を描いていく。
完成させられるとは思っていないのだろう。
これは、殺されるための行為なのだ。
『……やれやれ』
髑髏仮面はマジカンを突き飛ばすと、ナイフを籠の中に放り込んだ。
『わるいが、仕事場以外での戦闘は禁じられてるんだ。それに、配達の途中だしな』
「――“跳兎”!」
その隙を見逃さず、ユイカが突進する。
だが、一歩とどかない。
カチャカチャと謎のステップを踏むと、髑髏仮面は消えて無くなった。




