(4)
見知らぬベッドで目を覚ましたユイカは、断片的に記憶を呼び起こした。
油の滴る焼き鳥の味と麦酒の苦味。マリエーテを無理やり膝の上に乗せて撫でまくり、頬ずりし、思い切り抱きしめたこと。それまで“よいお姉さん”を演じようと我慢していたのに、すべてが無駄になった。
それから、意識が暗転。
誰かに背負われるような感触。
「……ううっ」
服はそのままだが、長靴はベッドの横に揃えられている。
自分で脱いだ記憶はないので、おそらく脱がされたのだろう。
――やってしまった。
これほどの失態は、迷宮内でも経験したことはない。
だいたいなんなのだ、あの苦い飲み物は。
どんな魔物の精神攻撃にも抵抗する自信があったのに、たった一杯でわけがわからなくなってしまった。
思ったほど不味くはなかったが……。
「とにかく、あやまるしかないな」
悲壮な心持ちで寝室を出ると、そこは明るいリビングだった。
すでに朝日は昇っている。
王都からの旅の疲れが残っていたのか、ずいぶん気持ちよく寝過ごしてしまったようだ。
「おはようございます、ユイカ」
エプロン姿の青年がにっこりと微笑んで挨拶してきた。
「お、おはよう……」
名前はロウ。昨日、雇うことを決めたばかりのシェルパだ。
詳しいことは知らないが、シェルパとしてはかなり優秀で、冒険者レベルは五以上。手際がよく、話が早い。たった半日ほどで物資の調達を済ませてしまった。
小麦色をしたおさげの髪とこげ茶色の瞳を持つ、ひと当たりの良さそうな青年である。
ひょろりとした体格で、とてもシェルパには見えないが、冒険者レベルが基本能力を補っているはず。実績もあることだし、気にしないことにした。
年の離れた妹とふたり暮らしで、かなりの兄馬鹿のようだ。しかし、あれほど可愛らしい妹なのだから、仕方のないことだろう。
台の上に乗って鍋の中をかき回していた少女が、へらを青年に渡し、駆け寄ってきた。
「おはようございます」
両手を前に揃えてぺこりとお辞儀する。
あまりの可憐さに、一瞬くらりとした。
「おはよう、マリン」
「もう、だいじょうぶ?」
心配そうに見上げてくる少女の髪を、優しく撫でる。
少女の名前はマリエーテ。ロウの妹である。
薄い茶色の髪は女の子にしては短めで、撫でていると癖になりそうな感触だ。
「昨日は、すまなかった。その……いやな思いをさせた」
「きのう?」
マリエーテは少し考え込んだが、思い当たる節はないようだ。
「気にする必要はありませんよ。マリンは嫌だったらすぐに逃げます。あなたの膝の上でおとなしくしてたのは、そういうことです」
「そ、そうか……」
ロウの言葉に励まされて、ユイカは安堵した。
「さあ、朝食ができました。テーブルにどうぞ」
「いや、それは――」
さすがに朝食までごちそうしてもらうのは気が引ける。そう思い遠慮しようとしたが、マリエーテの表情を見て諦めることにした。
「お姉ちゃんの分も、作ったの!」
喜んでもらえると、期待に満ちた顔。
自分のために、頑張って朝食を作ってくれたのだ。たとえ勇者であろうとも、この状況で断れるわけがない。
「分かった。ずうずうしいが、いただこう」
朝食は、ささやかだが温かみのあるメニューだった。
焼きたてのパンと炙って溶かしたチーズ。野菜と卵のスープ。搾りたてのミルク。軽く燻したベーコンを焼いたもの――これは自家製とのことで、香りがよく、絶品だった。
「もしよろしければ、迷宮探索用に準備しますよ。別料金になりますが」
「頼んだ」
即決である。
ロウとマリエーテは早起きして、朝市に出かけたそうだ。
「よい葉野菜がなくて、サラダは作れませんでしたが」
「ミルクはね、わたしがしぼったの」
朝市にはヤギを連れてくる店もあり、直接ミルクを搾れるのだという。
「ほう、面白そうだな」
「朝市には、いろいろなしょーひんが、いっぱい売ってるの」
朝市は七日に一度開かれるという。
他に購入したものといえば、虫除けの粉と胃腸を整える薬。
春が終わり、初夏を迎えようという季節だった。
「庭の草も伸びてきたし、そろそろ草刈りもしないとな」
「うん。お手伝いする」
他人の家の生活を目の当たりにして、ユイカは戸惑った。
仲の良いふたりの兄妹は、この地にしっかりと根をおろし、季節とともに生活している。両親はいないそうだが、互いに支え合いながら生きている。
その会話のやりとりは、ユイカにとって新鮮でまぶしいものだった。
一年の半分を地下迷宮で過ごす自分には、縁のないもの。
決して、手に入れられないもの。
「途中まで、送ります」
朝食が終わると、宿の近くまで送ってもらうことになった。まだこの町の地理が分からないので、遠慮するわけにもいかない。
手を繋いでいたマリエーテが少しずつ無口になり、元気がなくなっていく。
お別れのときを知っているからだ。
「お姉ちゃん。また、遊びにきてね」
「ああ、わかった」
ユイカは腰をかがめて、少女を抱きしめた。
この次に会うときには、素敵なプレゼントを用意しよう。金に糸目はつけない――などと、密かに決心しながら。
穏やかな気持ちで兄妹と別れたユイカは、自分の宿に戻ると急に不機嫌になった。
「――な、なんですってぇ!」
ベリィの目が釣り上がった。
「酒を飲んで酔っ払って、シェ、シェルパの家に、泊まったぁ?」
「大きな声を出すな。他の客に聞こえるぞ」
個室ロビーの中、テーブルを囲んでいた仲間たちは、そろって沈黙した。
昨日、シェルパを確認してくるといって出かけたユイカは、その日、宿に戻ってこなかったのである。
見知らぬ町で道に迷ったのか、それとも何か事件に巻き込まれたのか。仲間たちは心配し、宿の中にある個室ロビーに集まって今後の対応を考えていた。
しかし、ひょっこり現れたユイカは、空いている椅子に腰をかけると、上機嫌な様子でとんでもない事情を説明したのである。
「男と買い物デートをして、あ、朝帰り……」
「なんだそれは。確かに帰ってきたのは朝だが」
「な、何もされなったでしょうね?」
「どういう意味だ?」
ベリィはふわりとした金髪を持つ小柄な女性である。スピードと攻撃力を重視した軽戦士と呼ばれる職種であり、パーティでは先陣をきる役割を担う。怖いもの知らずの彼女だったが、やや苦手とする岩石系魔物と対峙でもしたかのように歯軋りした。
「襲われなかったのかってこと!」
「襲われる? 誰に?」
「その、ロウっていうシェルパによ! 酔っ払ってたんでしょ? 貞操は守ったんでしょうね?」
その意味を理解すると、ユイカは眉根を寄せ、真面目な顔で断言した。
「それは、愛し合う男女の営みだろう。酔っ払って気軽にするものではない」
「あ~もう、このお姫さまは!」
頭をかきむしるベリィを、遊撃手ヌークが諌めた。
浅黒い肌を持つ三十台前半の男で、髪と眉毛がなく、表情が読み取れない。
「黒姫さまをおひとりで行かせた、我々にも責任がある」
「そうじゃな」
同意したのは、しわがれた声の男だった。
「おまえさんも食べ歩きをするといって、浮かれておったろう」
「――っさいわね、じじい」
じじいと呼ばれるほどの年には見えなかった。せいぜい三十の手前くらいである。しかしこの男は、三属性以上の魔法ギフトを習得した賢者と呼ばれる職種であり、実年齢は齢六十を越えているという噂だった。
その名は、マジカン。
記録によれば、異なるパーティで三度勇者に番付された伝説級の冒険者である。
とにかく、理知的だが常識に疎いユイカに対し、ベリィが男女のあれこれについて説教し、ヌークが軽はずみな行動はせぬよう忠告した。
「そのロウとかいうシェルパ、クビにしようよ」
「ちょっと待て」
ベリィの提案に、ユイカが目を細めた。
「ロウは何もわるいことはしていない。よいポーションを売る店を紹介してくれたし、手際よく買い物を済ませてくれた」
「そんなの、冒険者ギルドに任せればいいじゃない」
「町に着いただけで大勢で取り囲み、ちくいち褒め称えてくるやからだぞ。息の詰まるような買い物はごめんだ」
「町長の晩餐会も、すっぽかしたからの」
「出席すると約束した覚えはない」
マジカンの茶々をばっさりと切り捨てて、ユイカは立ち上がった。
強い意志を宿す切れ長の目は釣り上がり、口元は不機嫌そうに結ばれていた。
「とにかく、シェルパはロウで決まりだ。こちらの要件をすべて満たしているし、案内人ギルド長の推薦もある。断る理由はない」
“宵闇の剣”のリーダの決定である。
さすがに面と向かって反対する者はいなかったが、沈黙したベリィの瞳には、そのシェルパの実力を見て、少しでも落ち度があればすぐにクビにしてやろうという、どす黒い嫉妬の炎が渦巻いていた。