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(7)

 翌日の朝。

 治療院から、初々しいひと組の恋人たちが、言い争いをしながら出てきた。


「どうして、教えてくれなかった!」


 威嚇する野生の獣のように、黒髪の美女が牙を剥く。


「せっかくユイカが頑張ってくれたから、その、嬉しくて……」

「う~~~~~~っ」


 涙目になって唸り声を上げるが、それでも繋いでいる手は放さない。

 昨夜、治療院の個室でふたりは初めて結ばれたわけだが、その行為の間中、ユイカは子猫のものまねをして、「みーみ、にゃんにゃん」とロウに甘えまくったのだ。

 そしてふと、疑問に思った。

 世の中の女性たちは皆、本当にこういうことをしているのだろうかと。

 気恥ずかしさに包まれた朝のベッドで問いかけてみると、ロウは少し考えてから、こう答えたのである。


『あんまり、一般的じゃないかも』


 子猫は一変し、黒豹になった。

 昨夜の自分の行為を思い返すたびに、頭の中が沸騰し、叫びたくなる。


「でもまあ、可愛かったから、いい――」

「よくない! ちっともよくないぞ!」


 一生分の恥をかいたような気がする。

 こんなことは誰にも言えないし、日記にもかけない。この秘密は、墓の中までもっていくしかない。もちろん自分だけでなく、相手側ダーリンも強制だ。

 全身から漏れ出す神気に気圧されたのか、ロウはやや挙動不審になり、言い訳がましいことを口にした。


「誰かに迷惑をかけたわけじゃないし、そう――お互いに恥かしい秘密を共有し合うことで、情が深まることもあります。俺だって、ユイカのドレスを脱がせられなかったわけですから、おあいこですよ、おあい……」


 ――ぎゅっ。


「いたたっ! ユ、ユイカ――手っ!」

「恥かしさの、度合いが違う!」


 とはいえ、いくら噛みついたところで過去の記憶が消えてなくなるわけもなく、次はダーリンにも恥かしいことをしてもらおうと心に決めて、ユイカは矛先を収めることにした。

 一応、本気で怒ってはいるのだが、ほとんどが照れ隠しの八つ当たりである。

 そもそも昨夜の自分の行動は、あからさまで、見え透いたものだった。

 普段は嫌がって滅多に身につけることのないドレスを着て、香水までつけて、夜の病室に単身突入。さらには自らベッドに潜り込んだ。

 どうぞもらってくださいと言わんばかりの状況設定シチュエーションある。

 正直、頭に血が上り、冷静を欠いていた部分はあったと思う。

 タイロス迷宮の一回目の潜行ダイブでは、植物系魔物の毒を受けたユイカが死にかけ、二回目の潜行では、“迷宮改変コラップス”ではぐれたロウが絶体絶命の窮地に立たされた。今こうしてふたりが一緒にいられるのは、ほとんど奇跡に近い幸運だろう。今後予定されている三回目の潜行についても、無事に帰還できる保障などない。

 だから、後悔だけはしたくないと思ったのだ。

 そして、満身創痍になりながらも深階層の魔物たちの攻撃を防ぎ続け、自らの命を繋ぎとめたロウ。冷静沈着で抜け目のない普段の様子とは異なる、荒々しい闘争心を秘めた冒険者としての姿を目にしたとき、ユイカの心は震え、たとえようもない感動を覚えた。

 有り体に言えば、惚れ直してしまったのである。

 出会ってからほんのひと月足らずでこのような気持ちになり、半ば罠をかけるような形で、身体を許し合う関係になるとは……。恋愛に関して自分がこれほど積極的な人間だったのかと呆れてしまう一方で、運命の相手を見つけたという、確信めいた思いもあった。

 ロウには守るべき家族がいるし、ユイカには迷宮を攻略するという目的がある。互いの大切なものを犠牲にするような付き合い方はできないだろうが、与えられた範囲の中で、出来る限り頑張っていこう。


 とりあえず今は、この手を離さない。


 心に固く誓ったユイカだったが、大通りの一角にある家の前に来たところで、自らロウの手を振りほどき、全力疾走することになる。

 玄関先にしゃがみ込んでいる小さな影。

 マリエーテが、泣いていた。






 “僕ら光の勇者”シリーズは、十代の冒険者を題材にした、王都でも大人気の絵本である。版画による多色刷りで、文字も大きく読みやすい。

 ユイカにプレゼントされたこの絵本を、マリエーテは宝物のように大切にしていた。主役となる三人の冒険者だけでなく、年上の優しいシェルパが登場するところが気に入ったのだろう。兄が迷宮に潜っているときの寂しさを紛らわせてくれたのも、この絵本だった。

 しかし、マリエーテが胸に抱きかかえている“僕ら光の勇者”の第一巻は、無残な姿に変わり果てていた。

 背表紙がはがされ、ページがばらばらになり、折れ曲がっている。大切な表紙についているのは靴の底のような跡。


「ごめんなさい、ごめんなさい……」

「あ、謝らなくていい。マリンはわるくない!」


 魔物たちに包囲されたときよりも慌てながら、ユイカが少女をなだめていると、玄関からふたりの少年が現れた。


「まだ泣いてんのかよ?」

「や~い、泣き虫マリン――げっ」


 そばかす顔が、よく似ている。

 ユイカの切れ長の目が、すっと細まる。


「やべっ、逃げろ!」


 ロウとユイカの姿を目にするや否や、少年たちは全力で逃げ出した。


「……あのふたりが、やったのか?」


 しゃくり上げるように泣きながら、マリエーテは肯定した。

 部屋の隅で邪魔にならないように本を読んでいたマリエーテは、親戚のムラウの息子であるバルとミッチに本を取り上げられたという。

 相手が十代の男の子ふたりでは、四歳の女の子が抵抗できるはずもない。少年たちはマリエーテをからかい、本を破り、そして踏みつけたのだ。


「……おや。ずいぶんと、騒がしいじゃないか」


 騒ぎを聞きつけてやってきたのは、中年の女性だった。

 突き放すような目で周囲の状況を確認しつつ、ロウに手を差し出す。


「なんだい? 子供の言うことなんて、どこまで本当か分かりゃしないよ? まさかこのあたしに、言いがかりをつける気かい?」

「いえ、そうではありません」


 そう言ってロウは、財布から銀貨を数枚取り出すと、女性の手の平に乗せた。


「ただ、バルとミッチが、泣いているマリエーテをからかっていたのは事実のようです。せめてあのふたりに、マリエーテにかかわらないよう、ムラウさんから伝えていただけますか?」

「……ふんっ」


 中年の女性は神経質そうに口元を歪めると、やや乱暴に玄関の扉を閉めた。

 ユイカはその扉を、次いでロウを睨みつけた。

 世界一可愛らしいマリエーテが泣かされたのだ。徹底的に原因を追求し、今後二度と同じことが起こらないよう、然るべき処置をとるべきではないか。


「話は、家に帰ってからにしましょう」


 ロウはマリエーテに「ただいま」の挨拶をすると、背中を向けてしゃがみ込んだ。


「さ、マリン。家に帰ろ」

「――っ」


 マリエーテは兄の背中に飛びつき、両手と両足を使ってひしと抱きつく。


「……帰る」


 ユイカの怒りは収まらない。ロウの家のリビングに入るや否や「ダーリンは手ぬるい!」と、詰め寄った。


「まあ、ソファーに座ってください。今、お茶をいれますから」


 兄の無事に安心しつつも意気消沈しているマリエーテを隣に座らせ、まるで恋人を守るかのように肩を抱き寄せる。それから、お湯を沸かしているロウの背中に向かって、怒りをぶつけた。

 こんな幼い女の子をいじめるとは、見下げ果てた少年たちだ。このままではろくな大人にならない。本人のためにも、自分たちがやったことを自覚させ、マリンが受けた同等以上の辛さを味合わせるべきだ。

 具体的には、神気で脅しつけてから、拳で――


「上級冒険者が一般人の子供にそんなことをしたら、おおごとになりますよ」


 レベルの分だけ基本能力ステータスに補正がつき、ギフトまで所有可能な冒険者には、法律によって厳しい制限がかけられている。下手に怪我をさせて、ムラウによって訴えられた場合、莫大な賠償金が発生するだろう。

 ロウがトレイにティーカップを乗せて戻ってくる。テーブルの上にティーカップを並べてから、破損した絵本の汚れを丁寧に拭き取り、パズルのように組み合わせた。


「ページは揃っているし、本屋さんに持っていけば、直るよ」

「……ほんとう?」

「うん。少し時間がかかるかもしれないけれど」


 大きな目に涙を浮かべながら、マリエーテが安心したように微笑む。その様子を見て、ユイカは少しだけ冷静になった。


「ダーリン。マリンをいつもあの家に預けてるのか?」

「ええ、そうです」


 子供たちだけではなく、母親らしい中年の女性の態度も酷いものだった。他人の子供に対する責任感というものが、まるで感じられない。あの目つき――ロウとはまったく違う、冷徹な守銭奴の目だった。


「先ほど渡した金額であれば、マリンをもっとましな託児所に預けられるだろう。すぐにでも探しに行くべきではないか?」


 その提案に対するロウの答えは、単純かつ、複雑な要素を含んだものだった。


「ムラウさんは、親戚です」


 迷宮内でロウにもしものことが起きた場合、マリエーテはムラウの家に預けられることになるという。

 王都とは違い、片田舎の町に孤児院などという施設は存在しない。身寄りのない子供は、最悪、ひと買いに売られるか、飢え死にする可能性もある。

 しかし、下位とはいえ中流階級のムラウには、世間体がある。

 親戚の――しかも血の繋がりのある子供を虐待したり、ひと買いに売ったとなれば、周囲の目は厳しくなるだろう。

 ゆえに、マリエーテの最低限の安全は保障される。


「そう簡単に切り捨てることはできません」

「……」


 ユイカは言葉を失った。 

 話の内容についても驚いたが、ロウはこの理屈を、マリエーテにも包み隠さず聞かせたからである。

 そして、今さらながらに気づいた。

 ロウの生命とマリエーテの生活を危険に晒しているのが、他ならぬ自分であることを。

 マリエーテの預け先について、偉そうに何かを言えるような立場ではない。

 今こうしてマリエーテの肩を抱いていることすら、度し難い偽善ではないか。


「ユイカが気にする必要はありません」


 察しのよいロウは、ごく気軽な口調で言った。


「俺は納得して、今の仕事を引き受けたのですから。対価として、十分な報酬はいただいています」

「し、しかし。私たちは――」


 冒険者とシェルパの関係だけではない。


「いえ。これは、俺の家の事情です」


 ロウはきっぱりと言い切った。


「マリンに他の環境を与えることができない、俺の責任です」


 心臓に釘を打たれたような、重い衝撃を受けた。

 突き放された――いや、突き放してくれたのだろう。


「でも、心配はいりませんよ。もうすぐ目標額に達成しますから」


 ロウがお金を溜めていることをユイカは知っていたが、その目的については聞いたことがなかった。


「恥かしながら。うちの父親は、酒飲みでして……」


 ロウの父親は、冒険者でもシェルパでもなく、職人――大工だったらしい。しかし、酒好きがたたり、身体を壊しがちだったという。酔った勢いでマリエーテをつくったはいいが、高齢出産に耐えかねた母親は、マリエーテを生んですぐに死んでしまった。

 その後、父親はますます酒に溺れるようになり、「これは長くない」と思ったロウは、幼い妹を自分で育てようと決心したという。

 実際、酒の飲み過ぎで手先に震えが出ていた父親は、大工の仕事などできなくなっており、半年ほど前に病死している。

 ロウは冒険者よりも死傷率が低く、一般的な職業よりは高収入なシェルパとなり、長期間の潜行ダイブを避けつつ、金を稼ぐことにした。

 低階層や中階層に留まっていれば、比較的安全かつ、ほどほどの生活が保障されたかもしれない。しかし、上級シェルパとなり、より高額な報酬を求めたのにはわけがあった。 


「……移住する?」

「はい。もう少し大きな街へ出ようかと考えています」


 初めて、ロウは自分の願いを口にした。


「マリエーテを、学校に通わせたいんです」


 タイロスの町に学校はない。ここは冒険者の町であり、定住者の数が少なく、学校の需要もないからだ。となれば、迷宮に依存する田舎町ではなく、地方の中核を担う程度の人口を持つ都市に移住するしかない。

 新しい土地、新しい家、そして、高額な学費と生活費。冒険者としての基本能力ステータス補正とギフトがあるとはいえ、肉体労働の仕事でどこまで支えられるかは不明である。

 だからロウは、貯蓄の目標額を立てた。


「ユイカの依頼のおかげで、次の潜行ダイブの報酬を加えると――目標額を達成する予定です。この家を整理して移住先を決めるには、まだ時間がかかるでしょうが、少なくとも、情の薄い親戚に頼る必要はなくなるでしょう」


 つまり、つぎの潜行ダイブを最後にシェルパを引退して、別の職業に就くということだ。

 ロウの話を聞いていたユイカは、思わず口を挟んでいた。


「お金の問題なら――」


 そこで、はっと口を閉ざす。

 確かに自分とロウは恋人同士になった。しかしそれは、無条件で相手に寄りかかれるような関係ではない。ロウは確かにお金に関してはシビアな考えを持っているが、だからといって、恋人からの施しを許容するとは思えなかった。

 沈黙するユイカに向かって浮かべた男の微笑みが、その想像を肯定していた。


 ――自分の責任で決断し、行動する。


 おそらくロウは、小さな妹を守ると決めてから、ずっとそうやって生きてきたのだ。

 ユイカは初めて、ロウの人間としての本質に触れたような気がした。

 そして、この男が想定する未来に自分の存在が含まれていないことに、強い憤りを感じた。

 先ほどロウは、「家の事情」と言った。

 恋人は、正式には身内ではないという意味だ。

 それが、許せない。

 自分のことを気遣ってくれたのかもしれないが、それは――自分の想いに対する侮辱に他ならない。


「……」


 ユイカはおもむろに立ち上がると、ロウを睨みつけた。


「私は――」


 断固たる決意を持って。


「ダーリンに、結婚を申し込む!」


 この男が抱える責任の中に、割り込む。

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― 新着の感想 ―
[一言] 突然な話だけど相当な覚悟だよな 他者の事情に踏み入って背負うのは超難しい
[一言] この男が抱える責任の中に、割り込む。 これを言える人間が、恋愛が、この世にどれだけあることか
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