(6)
回復魔法をあてにし過ぎるなという、冒険者たちの格言がある。
消毒薬を使わずに傷口を塞ぐと、病魔に犯される原因にもなるし、大量の血を失った場合は、増血薬を飲まなければ回復しない。また、骨折した場合も注意が必要で、きちんと接骨しないと、元の状態に戻らない可能性がある。
ゆえに、迷宮内で負傷したときには、回復魔法だけに頼らず、ポーションや薬品類、そして迷宮泉での休憩等を併用することが肝要なのだ。
しかし、ロウとベリィは重症で、物資も魔力も不足していた。
このまま時間が経過すれば、命にもかかわる怪我だった。
ゆえに、地下五十階層の迷宮泉でふたりの応急処置を行うや否や、ユイカは迷宮探索の終了を決断した。
「一刻も早く地上に帰還する。ダーリン、無理をさせてすまないが、道案内を頼めるか?」
かろうじて意識は取り戻したものの、貧血状態のロウは青白い顔で了承した。
ユイカは死霊魔王に命令し、総勢五十体の骸骨兵士たちに隊列を組ませた。パーティメンバーを中央部に配置し、一気に迷宮を駆け上がる作戦である。
骸骨兵士には筋肉がなく、関節も固い。触り心地も乗り心地も最悪だが、ロウとベリィは骸骨兵士に背負われることになった。
魔物と遭遇した場合、骸骨兵士の分隊を突撃させ、本体は進み続ける。どうしても逃げ切れないときには、死霊魔王の攻撃魔法で一掃する。
死霊魔王の魔力は桁違いに高く、さらに“魔力回復”のパッシブギフトを所有しており、闇属性の強力な攻撃魔法をいくらでも行使することができた。
その性能にはマジカンでさえも舌を巻いたが、何故かヌークだけは「この魔物は、ひとの気持ちが分かる」と、別の方向で絶賛していた。
帰還途中、中階層と浅階層で何組かの冒険者パーティとすれ違った。深階層の魔物たちが発する魔気に触れた彼らは、揃って腰を抜かし、失禁しながら死を覚悟したという。
これは笑い話では済まなかった。
「死霊魔王が骸骨軍団を従えて、地上に攻めてくる!」
後日、そんな噂がタイロスの町に流れて、ちょっとした騒ぎになったのである。
最終的には冒険者ギルドと“宵闇の剣”の連名にて、掲示板に正しい情報が公表されることになるのだが……それはまた、別の話。
場違いなくらい豪華なベッドの上で、ロウはやるせないため息をついた。
奇跡的な生還を果たしてから、二日目の夜。迷宮から戻ったら真っ先に迎えにいくというマリエーテとの約束を、いまだ果たせていない。
ロウがいるのは、迷宮の入口近くに建てられている冒険者専用の治療院だ。設備は整っているし、建物内は清潔で明るい。回復系の魔法ギフトを持っている元冒険者の医士も常駐していて、料金はお高いが、とこぞの治療院とは違いぼったくられる心配はない。
その最上階にある、要人専用の個室、らしい。
治療内容も豪華で、ポーションの原液を贅沢に使った“極楽風呂”に放り込まれ、大量の増血薬を飲まされ、回復魔法を嫌というほど浴びせられた。
治療費用のことを考えると、身の竦む思いである。
入院初日の時点で、ロウの体調はほぼ完全な状態にまで回復していた。ロウは自己判断で担当医士に退院の許可を求めたが、あっさりと却下された。
医士曰く、ロウの立場はただの患者であり、治療院にとっての顧客は“宵闇の剣”である。そのリーダーから「完治するまでは、絶対に退院させないこと」という厳命が出ているらしい。
身体の心配をしてくれるのはありがたいのだが、こちらにも事情というものがある。
「明日は、絶対に退院しないとな」
心の中で幼い妹に謝りつつ、今日はもう寝ようかとランプに手を伸ばしたそのとき、病室の扉がノックされた。
「……ダーリン、まだ起きているか?」
「やあ、ユイカ」
二日ぶりの再会。そして、待ちに待った相手でもある。
退院の件をぜひともお願いしようとして、ロウは気づいた。
ずいぶんと、様子が違う。
「今日は、いつもの服装ではないんですね」
病室に入ってきたユイカは、すらりとした純白のドレスを身につけていた。スカート姿は初めてお目にかかる。黒色の男装も凛々しく、似合いすぎるくらい似合っていたのだが、こちらは上品な――ちょっと気が強そうな嬢さまといった感じだ。
「晩餐会用として、ベリィが用意してくれた服だ。これまで使う機会がなかったので、着てみた。どうかな?」
「とてもよく似合ってますよ」
しかし、病院に見舞いにくるには場違いな格好である。
そういった常識は通用しないのか、ロウの感想に微笑を浮かべつつ、ユイカはベッドに腰をかけ、半身になった。
「すまなかった、ダーリン」
「……?」
「逢えなくて、寂しかっただろう?」
――私に。
省略された言葉を察して、ロウは反射的に頷いた。
正直、入院中に考えていたことは、マリエーテのことが八、ユイカのことが一、そして潜行報告書のことが一くらいの割合である。
しかし、心の動揺を表に出すほど未熟ではないし、それくらいの反応ができなくては、この独創的な女性とは付き合っていけない。
「寝不足は、解消されましたか?」
「一日半、爆睡したからな。ベリィの治療に同行して、それからここに来た」
「ベリィの様子は?」
「ふふっ。ぎゃーぎゃー泣き喚いていたぞ」
その場面を思い出したかのように、ユイカはにやりと笑った。
ロウとともに死線を潜り抜けた金髪の女冒険者は、石像鬼の体当たりを受けて、両腕と左足を骨折する重症を負ったのである。
骨折を早期に治療する場合、上級の回復魔法が必要であり、ベリィは別の治療院に移送されて、そこで治療を受けていたのだ。
処置は問題なく終わったが、患部を強引に伸ばしたり捻ったりしたので、あまりの激痛にベリィは悲鳴を上げたという。
「少し熱が出たようだが、医士の話では二、三日くらいで退院できるらしい」
「そうですか。それはよかった」
「ベリィはダーリンに感謝していたぞ。おかげで命拾いしたと。何でも、あの穴を掘ったのは、ダーリンらしいな」
迷宮改変の後、ロウは柔らかくなった通路の壁に浅い洞穴を掘ったのである。地下五十階層の魔物の強さは圧倒的。一体でもまともに相手をすることはできないのに、複数の相手に囲まれたら間違いなく蹂躙される。だからロウは、一対一で戦える背水の陣――行き止まりの洞穴を準備したのだ。
「それと、謝りたいとも言っていた」
出会ってからこれまでの態度について、らしい。
「ずいぶんと、風向きが変わりましたねぇ」
「……今さら、だがな」
しかし、仕事仲間との関係改善は歓迎すべきことだろう。
「虫のいい話かもしれないが、もしベリィが会いにきたら……彼女の謝罪を受け入れてくれるか?」
「ええ、もちろんです」
ふたつ返事で頷くと、心持ち安堵したかのようにユイカは微笑み、沈黙した。
やや俯き、口の中で何事か呟いて、それからロウを見つめる。
はっと気づいたように視線を外し、再び俯く。
どうにも挙動不審である。
「その……そっちにいっても、よいだろうか?」
すでにユイカは、手を伸ばせば届くくらいの距離にいる。そっちとはどこだろうかと、ロウは馬鹿正直に考えてしまった。
「……だめか?」
「え、いえ――どうぞ」
意を決したかのように、ユイカはベッドの中に潜り込んでくる。
――高そうなドレスに、シワが。
予想外の行動に驚いていると、ユイカはもぞもぞとロウの隣に来て、こほんと咳払いをした。
「そ、それで。ダーリンの具合はどうなんだ?」
ほのかに漂ってくるのは、花のような香り。
ランプの光の加減もあるだろうが、白磁のような肌は朱色を帯びて、特に黒髪から出ている耳のあたりが顕著だった。
本当に綺麗なひとだなと、今さらながらにロウは思った。
優美な曲線を描く眉。けぶるような睫に覆われた切れ長の眼。すっきりと整った鼻と色づきのよい唇。そして、繊細な形をした耳からつながる頬や顎の線。
横顔が美しいひとは本当の美人だと言われることがあるが、なるほどその通りかもしれないと納得してしまう。
どこの部品を見ても、全体の調和を見ても、完璧である。まるで古の名工の手による女神の彫像のようだ。
こんな女性が、よりにもよって自分の恋人であるという事実が、どこか笑ってしまうほどおかしい。
「もう、完治してますよ」
シーツから両手を出して、ロウは拳を握ってみせた。
退院へのアピールも兼ねて、強がりを口にする。
「魔牛闘士くらいなら、倒せるかもしれません」
「……」
だから明日には退院を――とは続けられなかった。
ユイカがきゅっと口元を結び、俯いてしまったからである。
「……ユイカ?」
黒髪黒目の美しい冒険者は、重々しい口調で告げた。
「……冒険者になって、初めてだ」
震える声で告白した。
「初めて、心底――怖いと思った」
ロウとベリィと分断され、そして半日過ぎても合流できなかったとき、ユイカはこれまで経験したことのない恐怖にとらわれたという。半ば自暴自棄になり、これほど苦しいのならば、いっそのこと心を殺してしまいたいとすら願った。
「だから、あの通路で、戦いの音を聞いたとき。私は――期待しては駄目だと思った」
ロウの生存を期待してもし裏切られたら、立ち直れない。
本能的にそう判断してしまったのである。
「お笑いぐさだ。私が一番、ダーリンのことを信じなくてはならないのに。ダーリンは私を信じて、ずっとずっと――命を繋ぎとめてくれていたのに。私は、もうダーリンには会えないのだと、それどころか、会えなかったその先のことまで――考えていたんだ」
まるで自身の罪を糾弾する咎人のように、ユイカは謝罪した。
「――ごめんなさい」
ああ、この娘は、呆れるほどに馬鹿正直で、完璧主義者だ。
だからこそ、こんなにも精神が強く――美しい。
ロウはユイカの肩を抱いて、優しく引き寄せた。
それから、正直に自分の考えを伝えた。
「俺は……盲目的な愛なんて、求めていません」
与えられた状況の中で、最善を尽くす。
常に考えをめぐらせ、身体を動かす。
思考を停止させて、いるかどうかも分からない愛の神に判断を委ねるような真似は、可能性の破棄でしかない。
「それに、思考の結果と心の信頼は、別ものです」
だから、今のままのユイカでいい。
「今のユイカが、好きなんです」
「……」
ユイカは顔をやや傾けるようにしてロウを見上げた。その顔は、ほとんど泣き出しそうだった。
もちろん、悲しみのせいではない。
「ダーリン……」
たまらなくなったように、唇を重ねてくる。
子供の挨拶のように軽い接触を何度か繰り返してから、ロウは舌を潜り込ませた。
びくりと反応し、睫を振るわせたユイカだったが、わずかな逡巡の後、すべてを委ねたかのように力を抜いた。
ロウの指が耳や頬に触れるたびに、ユイカが敏感に反応する。
息を継ぐのを忘れるほど夢中になり、互いの感触や温もりを確かめ合う。
やがてふたりは、名残惜しそうに離れた。
「……」
ユイカは少し口を開いたまま、呼吸を乱していた。意志の強いはずの瞳は涙に濡れて、熱に浮かされたようにぼんやりしている。
一方のロウは、相手を安心させるような微笑みを投げかけつつ……。
――まずい。ドレスの脱がせ方が、分からない。
内心、冷や汗をかいていた。
これまでロウは、パーティなどという贅沢な催し物に参加するような女性と知り合いになったことはなかった。
当然のことながらドレスなど脱がせたことはないし、しかもおそらく――ユイカが身につけているのは、王都で流行している最新のデザインのもの。それが結び目なのか飾りなのかさえ、判断がつかない。
ユイカの身体をまさぐりながら、ボタンを見つけようか。
いや、そもそもボタンがないタイプなのかもしれない。
ある程度まさぐって、それでも分からなければ、正直に聞こうか。
いやいや、それではドレスにシワが――
深刻だがくだらないことで悩んでいると、ユイカの指がロウの顎のあたりを軽く引っかいた。
「……タエが、言っていた」
ユイカの会話の中にときおり出てくる、メイドの名前である。
四十過ぎの中年の女性で、夫婦仲が熱々で、恋愛について多くの真理――あくまでも一般的ではなく、主観的な――を、ユイカに吹き込んだ人物である。
「こういうとき、女性は……子猫のように、甘えるだけでいいと」
耳と頬を真っ赤に染めながら、ユイカは頬ずりをしてくる。
確かに、子猫っぽい。
「だから、ダーリン」
やや上目遣いで、子猫は言った。
「優しくするにゃん」
「……」
一度、タエというメイドと話をする必要があるのかもしれない。




