(3)
――魔牛闘士。
タイロス迷宮に限らず、数多くの迷宮の深階層に出現する著名な魔物である。もちろん、その実力も折り紙つきだ。
牛頭人身の怪物で、その体格は成人男性よりもふた周りほど大きい。筋力は約三倍、持久力は約四倍。気性が荒く、獰猛で、両手持ちの武器を好む。
一方で、防具を身につけることは少ないが、全身がゴムのような分厚い筋肉と針のような体毛で覆われているため、物理攻撃三属性の中では、特に“打”の耐性が高い。
攻守ともにそろった難敵だが、魔法を使えるほど知能が高くないことが、救いといえば救いだろう。
「――来たわ」
その存在をいち早く察知したのは、ベリィだった。
指定した地点の物音を自分の耳に届けるという風属性の魔法“囁”を、通路の両端に使っていたのである。
迷宮改変が発生し、ユイカたちとはぐれてから、約四半日が経過しようとしていた。
「……ベリィ。魔法を」
「腕が千切れても、知らないわよ」
自分が生き残れる可能性も少ないが、レベル七の中級冒険者に過ぎないこの男の場合はさらに厳しいだろうと、ベリィは予測する。
そう、これは――手向けの花のようなものだ。
やがて、通路の奥から一体の魔牛闘士が現れた。
迷宮改変で傷を負ったのか、頭から伸びる湾曲した角が、一本折れている。しかしその他は無傷のようで、全身の筋肉ははちきれんばかりに膨れ上がり、凶悪な力が開放される瞬間を、今か今かと待ちわびているかのようだった。
理性よりも本能が上回る魔物は、警戒などしない。こちらの姿を認識するや否や、唸り声を上げて突進してきた。
同時に、ベリィも叫んでいた。
「絶対に、死なない!」
必ず生き残る。
そして、ユイカに再会する。
心の中ではそう決めていたが、この戦いを切り抜けられる確率は、おそらく一割以下だろうと、頭の中の冷静な部分は認識していた。
ベリィの持つ双刀は、切れ味優先の武器。必要筋力は、八と七。アクティブギフト“旋風”を使わない限り、ろくなダメージを与えられないだろう。
しかもアクティブギフトは、発動後にわずかな隙ができる。
まともにぶつかれば、返す刀で――この場合は斧だが――一撃で致命傷を受けるに違いない。
「プギャァアアアアア!」
魔牛闘士は戦斧を担ぎ上げると、上にも下にも避けられない横薙ぎの斬撃を放ってきた。
ベリィはバックステップで後退する。
追撃。
さらに下がる。
リーチは向こうが上。そして回転力もある。
とても懐に飛び込めそうにない。
一撃ごとに冷や汗をかきながら後退していくと、いつの間にか、長外套の男が隣にいた。
呆れたことに、このシェルパは逃げ出しもせず、まるでかかしのようにその場に突っ立っていたのだ。
あ、こいつ終わったなと、ベリィは思った。
仲間との連携なしに、このレベルの魔物とまともに渡り合える冒険者などいない。それほどまでに、深階層の魔物と人間とは基本能力に差があるのだ。
必要筋力四十の戦斧を迎え撃つは、必要筋力三十五の幅広剣。
上段からの斜め切り落としに、ロウはかろうじて反応した。
刃物というよりは、金属の塊がぶつかり合う鈍い音がして、ロウの身体が横にずれる。たたらを踏んで、何とか踏みとどまる。
続いて、第二撃。
しっかりと腰を落として、今度は受け止めた。
背後にいたベリィが思わず目を剥く。
第三撃、そして第四撃。
「……う、うそ」
反応速度はやや遅れがちだが、皮製の長外套を身にまとったシェルパは、圧倒的な力の奔流を見事に受けきってみせた。
質量差と、筋力の差。
どう考えても理屈に合わない。
『アイディアが、ひとつだけ』
パーティ戦略を立てる際、ロウはベリィに生き残るための可能性を語った。
『ベリィの魔法は、俺のギフトとよいコンボになる可能性があります。魔物が単体であるならば、相手によっては――ぎりぎり倒せるかもしれません』
その魔法とは、“風凪”だった。
身体の瞬発力を向上させる支援魔法で、足にかければ移動速度が上がり、腕にかければ手数が増す。
戦いの前に、ベリィはロウの左右の腕に二回ずつ、“風凪”を重ねがけしたのだ。
これでロウは、上級冒険者並みの筋力と、怪力鬼並の持久力、そして常人離れした瞬発力を兼ね備えたことになる。
それでもなお、魔牛闘士と渡り合えるだけの実力はないはずだった。
そもそもロウの筋力は、本人の自己申告によれば三十一にすぎない。幅広剣の必要筋力三十五を満たしておらず、本来であれば、まともに使いこなせるはずがないのだ。
武器の必要筋力を満たしていなくても、短時間素振りをすることくらいはできる。もちろん実践では役に立たず、すぐに筋肉が疲労し、腕が動かなくなってしまう。必要筋力とは、その武器を使いこなすために必要な最低限の筋力という意味なのだ。
しかしロウには、“持久力回復”というパッシブギフトがある。
そのことに気づき、ベリィは瞠目した。
ひょっとするとこの男は……腕の持久力を回復させながら、必要筋力以上の武器を、全力で振り回し続けることができるのではないか。
さすがに瞬発力がなくては防御が間に合わず、あっさりと倒されていただろうが、そこをベリィの“風凪”が補っている。
だとすれば、あまりにも無茶苦茶な、戦闘能力の底上げである。
こんな状態が、長く続くはずがない。
いずれ、破綻がくる。
魔牛闘士の戦斧が受け流され、体勢を崩した瞬間を狙って、ベリィはロウの背後から飛び出し、アクティブギフトを叩き込んだ。
「“旋風”!」
丸太のような魔物の腕の筋肉が抉れる。
ベリィの攻撃力では、膨大な体力を誇る深階層の魔物をまともに倒すことはできない。しかし、腕の一本でも奪えば、戦況は有利なものとなるだろう。
怒り狂ったように魔牛闘士が戦斧を振り回す。まともに受け止めれば、武器ごともっていかれるだろう。バックステップして、距離をとる。
そして再び、ロウが壁となる。
鉄の塊がぶつかり合い、火花を散らす。
さすがに反撃する余裕はないようだ。魔牛闘士の攻撃を受けるたびに、ロウの身体は宙に浮き、たたらを踏む。
それでもなお、致命的な一撃を避け続ける。
「フゴォオオオオオッ!」
魔牛闘士が吼えた。
確実に自分より弱い相手なのに、圧倒できない。あきらかに苛立っているようで、攻撃も単調に、そして大振りになる。
隙をみて、再びベリィが飛び出す。
――重戦士。
正直、ベリィはこの職種を軽んじていた。
浅階層や中階層であれば、魔物たちの攻撃力も低く、重い鎧兜や盾で防ぐことができるかもしれない。
しかし深階層ともなると、途端に苦しくなる。
相手側の攻撃力とこちら側の防御力が、著しく不均衡になるからだ。
盾で防いでも弾き飛ばされる。直接鎧で受けたならば、衝撃が伝わって内臓を壊す。
であるならば、もっと軽い鎧を身につけて、回避率を上げたほうがよい。
うろちょろと逃げ回り、隙を見て相手の懐に飛び込みつつ、アクティブギフトを叩き込み、相手の体力を少しずつ削っていく。
これが上級冒険者の、戦士系とよばれる者たちの戦い方なのだ。
十合、二十合。
何故防げる。
どうして、立っていられる。
三十合、四十合。
さらに信じられないことが重なった。
ベリィの与えた腕の傷の影響か、それとも疲労が蓄積したのか、魔牛闘士の攻撃速度が、少しずつ鈍くなっていったのだ。
膨大な持久力を誇る疲れ知らずの魔牛闘士が、何と、先に根を上げ始めたのである。
そしてこのとき、ベリィは奇妙な連帯感を感じていた。
ヌークとのクラッチとは、また違った感覚。
長外套の影に隠れ、隙を窺っては攻撃する。
頼りないはずの細いシルエットは、揺るぎない。しっかりと両足を踏みしめ、腰を落とし、まるで鉄の木にでもなったかのよう。
百合、百十合。
延々と続く戦いの果てに――
魔牛闘士の巨体が傾ぎ、どうと倒れた。
「うそ……でしょ? 生き、残った?」
とどめを刺したベリィは、興奮のあまり表情を取り繕うことも忘れて、満面の笑みでロウの方を振り返った。
「信じられない――やったわ!」
ロウもまた笑顔らしきものを浮かべていたが、口元のあたりが引きつっており、肩で大きく息をしながら一歩も動けないでいる。
両腕の袖の部分が黒く染まり、ぽたりぽたりと血が滴り落ちていた。
魔牛闘士の攻撃は、一度も受けていない。両腕にかかる負荷に耐えかねて、細かい血管が破裂したのである。
ベリィの支援魔法“風薙”は、特定の部分の瞬発力を上げる代わりに、筋肉に大きな負担がかかる。しかも重ねがけなど、実践ではベリィ自身も使ったことはない。
軽い武器ならばいざしらず、必要筋力が三十五もある幅広剣を振り回すのは、やはり無理があったのだ。
「ちょっとロウ、だいじょうぶ?」
「……」
のはずがない。
前回の探索で、巨大な荷物とユイカを抱えながら四十八階層を一気に駆け上がった男が、たった一度の戦闘で声すら出せずにいるのだ。
「治療するから、その外套、脱ぎなさい」
両手を幅広剣から無理やり引き離し、外套のボタンを外す。背中側に回って外套を引き下ろすと、想定外の重量に驚いた。
全身板金鎧――いや、それ以上の重さである。
「何これ。鉄板でも入ってんの?」
「いえ、“重銀”です……むぐっ」
ヒールポーションを口に突っ込み、一気飲みさせてから、怪我の様子を診る。ロウの腕は青紫色に変色しており、まるで乾ききった大地のように細かな裂傷が入っていた。
その惨状に顔をしかめつつ、ベリィはヒールポーションを直接腕にかけ、さらにヒール軟膏を塗りたくる。
ようやく落ち着いたのか、ロウが説明した。
「タイロス迷宮の浅階層――十三階層から十五階層にかけて、銀皿という希少魔物が出現します」
実際に遭遇したことはないが、噂で聞いたり、魔物図鑑で見たことはあった。
縁の部分にぎざぎざがついた皿のような魔物で、空中を素早く飛び回る。出現数には決まりがあり、必ず九体で現れるという。
その銀皿を倒したとき、ごくまれに残る希少品が、“重銀”という小さな金属塊だった。
銀という名前がついているが、石灰のような色をしており、磨いても光沢は出ず、貴金属としての価値はない。
その代わり、特殊な性質を持つ。
属性を問わず、攻撃魔法に対して強い耐性があるのだ。
市場にほとんど流通していないわけは、希少魔物が落とす希少成果品のため、供給量が少ないということもあるが、それ以前に需要がまったくないからである。
“重銀”はどれだけ熱を加えても溶けることがない。小さな金属塊として出現するのに、鋳塊に精製することができないのだ。
さらには、鉛や金と比べても、圧倒的に重い。
装備品の質量はギフトの成功確率に大きな影響を及ぼす。“重銀”を身につけた状態で魔法を行使すれば、ほぼ確実に崩陣するし、下手をするとアクティブギフトまで空砲する。
供給量が少なく、加工が難しく、重い。
“重銀”は、不器用な重戦士にすら見向きもされない、とても残念な成果品なのである。
「ですが、パッシブギフトであれば影響はありませんし、俺にとって重量はそれほど問題にはなりません」
“重銀”に目をつけた冒険者時代のロウは、特定の階層――十三階層に潜行し、銀皿を狩り続けたのだという。
集めた“重銀”はハンマーで叩き、板状に変形させて、長外套に縫いつけた。
全身板金鎧よりも重い、耐魔法防具の完成である。
「完成させるだけで三年もかかりましたし、すぐに冒険者を引退したので、活躍する機会はありませんでしたが」
どうしてそんなものを作ったのかと聞くと、面白そうだったからとの答え。
「ああ、そういうの、あるよね」
一流と呼ばれる冒険者たちは、ひと癖もふた癖もある者が多い。冒険者としての岐路に立たされる場面で、平気でおかしな選択をして、周囲の忠告を省みず、突っ走ってしまう。
そんな変人たちと同じ匂いを、ベリィはロウから感じていた。
「でも、まるっきり無駄だったわけではありません」
“重銀”入りの長外套と、幅広剣の重量があったからこそ、魔牛闘士の攻撃を受け止めることができた。
そうでなければ、最初の一撃で吹き飛ばされていただろう。
「実は昔、冒険者ギルドの受付をしている娘に、そんな無駄なことをするなと叱られたことがありまして。これでようやく、言い返すことができます」
「あんた、意外と馬鹿ね」
ロウがにやりと笑い、ベリィは呆れたようにため息をついた。
魔牛闘士を協力して倒したことで、ふたりの関係はわずかながら改善の兆しをみせていた。
傷を休めるために休憩をとり、食事をして、再び待機状態に入る。
緊迫した空気を和らげるように、地上に帰還したときにやりたいことなどを、少しだけ話し合う。
こんな状況でなければありえなかったはずの、穏やかなひととき。
しかしそれは、ただの錯覚に過ぎなかった。
半日後、ふたりがいる通路に二体の石像鬼が現れ――しかもそれは、絶望的な戦いの、ほんの始まりに過ぎなかったのである。




