(2)
「……ああ、サイアク」
おそらく、光苔の粒子が飛び交っているのだろう。視界は淡い紫色の霧のようなものに包まれていた。
伏せるように倒れ込んでいたベリィは、まだ回復していない精神に活を入れ、無理やり身体を起こし、立ち上がった。
先ほどまでは広間にいたはずだが、ここはどこかの通路のようだ。
すでに迷宮内の振動は収まっている。
天井や壁、そして床の光苔は、半分ほどが剥がれ落ち、視界は暗い。
「怪我はありませんか、ベリィ?」
そして同じ空間にいるのは、大きな荷物を背負ったおさげ髪の男だけ。
こんな最悪な状況だというのに取り乱すことなく、まるで仮面を被ったような嘘くさい笑みを浮かべながら、手を差し伸べてくる。
本当に、ムカツク男だ。
「他のみんなは?」
その手を無視して、ベリィはロウに聞いた。
「ここにいるのは、俺たちふたりと一体だけです」
「一体?」
「あなたの後ろにいますよ」
振り返ると、そこには片腕を失った骸骨騎士が立っていて、びっくりしてしまった。
役立たずの“ナイ助”だ。
“幻操針”で使役した魔物たちに、ユイカは一度にひとつだけ命令を与えることができる。そして、二つ目の命令を与えると、前の命令は打ち消される。
たとえば今回、ベリィが活用した火蜥蜴については、「ベリィの命令を聞け」という命令がなされていた。しかし、この骸骨騎士に与えられた最後の命令は、死霊魔王への攻撃だったはず。
つまり“ナイ助”は、今もなお役立たずの木偶の坊なのだ。
ここにいるのがあの火蜥蜴だったらとベリィは考えたが、すぐに首を振った。火蜥蜴は“火砲”のギフトを使いすぎて、魔力を使い果たしていた。どのみち戦力にはならなかったに違いない。
一応と思いながら、ひょろりとした体格のロウを確認して、ベリィはため息をつく。
持久力馬鹿のシェルパでは、使い物にならない。
戦えるのは、自分のみ。
近くにユイカたち他の仲間がいれば、助かる可能性はあるかもしれない。しかし、一度でも魔物に出会ってしまえば、そこですべてが終わるだろう。
ここはタイロス迷宮の地下五十階層。
適正レベルは、十六。
一対一でベリィが倒せる魔物はほとんど存在せず、しかも魔物たちは、単独で徘徊しているとは限らないのだ。
くっと奥歯を噛み締めて、ベリィは呻き声を上げた。
「何で、こんな目に――せっかく死霊魔王を、倒したのに!」
「迷宮改変が発生する時期は、予想がつきませんからね。運がわるかったとしか言いようがありません」
「そんなの、知ってるわよ!」
冒険者として登録する際に講習で習う迷宮学の基礎である。
迷宮が迷宮核を守るために引き起こすといわれる超常現象――迷宮改変。
年に一度くらいの割合で、どこかの階層の構造が変わるらしい。
冒険者たちが迷宮改変に遭遇する可能性は低い。その日、そのとき、その階層を探索していなくてはならないからだ。
迷宮改変に遭遇し、なおかつ生還した冒険者となると、その報告事例はほとんどないはず。あったとしても、浅階層か中階層までだ。
「……姫を、探しにいく」
「ここで、ユイカたちを待ちましょう」
意見が真っ二つに分かれた。
ベリィは目の前に壁があるならば、ぶち壊しても進むタイプだ。
悩んだら――とにかく行動する。
「あんたは勝手にすればいい。私は、いく」
ひょっとしたら、この通路のすぐ奥でユイカたちが待っているかもしれない。
それに、こんな臆病者と一緒に死ぬのは、ごめんだ。
ベリィはひとり通路の奥へと向かおうとしたが、その背中に場違いなくらいのんびりとした声がかけられた。
「水も食糧もなしに、どうやって地上に戻るつもりですか?」
「……」
「それは、ユイカも分かっているはずです。たとえ彼女が上階層に繋がる螺旋道を発見したとしても、地上には戻れません。必ず俺を――この荷物を探そうとすることでしょう。それ以外に、地上へ戻る手段はないのですから」
捜索者が存在する場合、遭難者はその場を動かないのが原則である。互いの位置すら把握できていない状況で双方が動くことに、意味はないからだ。
「迷宮改変が発生する直前、ユイカとヌークさん、マジカンさんの三人は、近い距離にいました。俺とベリィが一緒にいるように、三人もまた同じ場所にいるかもしれません。それに――」
ロウは巨大な体格を持つ骸骨の魔物に目をやった。
「この骸骨騎士は、今のところ大人しくしています。ユイカが生きていて、なおかつ意識を保っている証拠です」
その理屈を聞いて、少しだけベリィは気を落ち着かせた。
認めるのは悔しいが、確かにロウの言うとおりだった。
「ヌークさんには“索敵”のギフトがありますからね。俺たちよりも安全に動けるはずです。ここは、みんなを信じて待ちましょう」
「……」
感情に任せて飛び出してもよかったが、自分の身体や精神も回復していないことだし、少しくらい休憩してもいいだろうと、ベリィは妥協することにした。
通路の壁に背を預けるようにして、座り込む。
ロウは荷物を地面に降ろすと、回復用のポーションをいくつか取り出し、ベリィに差し出した。それから、骸骨騎士の方へと歩み寄った。
迷宮改変を受けた際に、左腕と甲羅形盾を失ったようだ。しかし、右腕は健在で、鉄板のような幅広剣を握っている。
ロウは骸骨騎士から無理やり剣を奪うと、残った腕の関節に叩きつけ、破壊した。
「な、何やってんのよ!」
「もし途中でユイカが気を失った場合、こいつは敵になりますから。まあ、両手が無くなれば、攻撃されても対処できます」
そして骸骨騎士の幅広剣は、ロウの武器となる。
「必要筋力値は……両手持ちで三十五、ってところか。幸いなことに、呪いのギフトは封緘されていないようですね」
魔物が扱う武器である。人間用には作られていない。
“宵闇の剣”の中で一番の筋力を誇るヌークでも、その値は三十二だったはず。ロウの言う必要筋力値が確かな数字ならば、上級冒険者でも扱えない重量である。
そんな意味のない武器で何をするのかと思えば、ロウはベリィの近くの壁に突き刺した。
「ちょっとあんた、何やってんのよ」
頭がおかしくなったのだろうか。
「これは噂で聞いたのですが、迷宮改変の直後は、壁や地面が柔らかくなるそうです」
まるでぬかるんだ土のように、幅広剣はざっくりと突き刺ささっている。
そのままロウは幅広剣をスコップのように使って、壁を掘り始めた。
形は縦長の半円で、大きさは大人がひとり余裕で通れるくらい。奥行きは浅く、十歩も歩けば突き当り。
あれだけの質量がある剣を使って、一気に掘り上げてしまった。
わけが分からない。
意味がわからない。
「これでよし」
ロウは荷物を洞穴の奥に置くと、ベリィの前に腰を下ろした。
「もし魔物たちがこの通路を通ったら――」
ロウはこともなげに宣言した。
「ふたりで戦わざるを得ないでしょう」
事前に“宵闇の剣”が出したシェルパの条件は、冒険者レベル五以上。
「ですから、俺たちは互いの基本能力とギフトを公開し合うべきだと思います」
たとえ臨時であれ、パーティを組むもの同士であれば当然のことだった。
ベリィは生理的な抵抗感を覚えたが、生還率を上げるには仕方がないと思い直す。
しかしそれでも、何となく嫌だ。
心の中で葛藤していると、ロウが勝手に話し出した。
「俺の冒険者レベルは、七。職種は重戦士です」
思っていたよりも、レベルが高い。
そして、意外な職種だった。
ギフトは“持久力回復”のパッシブギフトのみ。ただし、その効果は五。
「その他のレベルアップボーナスは、すべて筋力の向上に使っています」
「――へ?」
冒険者たちがレベルアップすると、基本能力――筋力、体力、瞬発力、持久力、魔力の五項目に対して均等に補正がつく。さらに、ギフトの抽選か基本能力の向上かの選択が可能となる。
ほとんどの冒険者たちが選択するのは、ギフトの抽選だ。
中には意味のないアクティブギフトや能力が下がるパッシブギフトもあるが、強力なギフト――たとえば、魔法ギフトなどを得ることができれば、冒険者としての実力を、一気に高めることができるからだ。
基本能力の向上を選んだ場合、筋力、体力、瞬発力、持久力、魔力のうちひとつだけ、その値を一上げることができる。その影響は微々たるもの。レベルアップボーナスを使わずとも、厳しい訓練や鍛錬を行えば、手に入れられる力でもある。ゆえに、誰も選ばない。
ロウは最初のレベルアップで“持久力回復”のパッシブギフトを得、その後のレベルアップボーナスをすべて筋力に振ったのだという。
そして現在、冒険者レベル七のロウの筋力は、三十一。
冒険者レベル十二のヌークと、ほぼ同等の値。
完全なる脳筋型だ。
「では、ベリィの情報も教えてください」
「……」
「生き残りたいならば、少しでもましなパーティ戦略を組む必要がありますよね?」
聞き分けのない子供に言い聞かせるように、ロウは笑顔で説得する。
「ユイカと、再会したくないのですか?」
「ああ、もうっ。分かったわよ!」
ベリィは折れることにした。




