(6)
「……あの、ユイカさん」
「ん、何かな、ダーリン」
「その呼び方、もう確定ですか?」
「当たり前だ」
石畳の道を手を繋いで歩きながら、ユイカは断言した。
もう少し甘い声で呼びかけてもらえるとよいのだが、ユイカの声は女性としてはやや低めで落ち着いた響きを宿している。しかも、あまり表情を動かさないため、どことなく不自然な感じがする。
「タエが、言ったのだ」
それはユイカの屋敷で働いているベテランのメイドで、すでに四十を越え、子供も成人しているくせに、夫婦間は新婚当時と変わらないくらい熱々なのだという。
「恋人同士というものは、会話をするときも、道を歩くときも、ただそばにいるときでさえも、相手を信じてすべてを委ね合うもの。そうすることで、互いに喜びや幸せを感じることができるそうだ。無から有を生み出すことはできない――というのは真っ赤な嘘で、ふたりの心が寄り添えば、無限の愛がとめどなく溢れてくる……らしい」
いまいち内容は理解できなかったが、とりあえずロウは頷いた。
「ここで大切なのが、互いの呼び方だ。タエは夫のことを、ダーリンと呼んでいた」
逆にタエが何と呼ばれていたのかというと、迂闊にも聞きそびれたらしい。
「何しろ、タエの惚気話を、私はほとんど聞き流していたからな。正直、うっとおしいとさえ思っていた」
その気持ちは分かるような気がすると、ロウは同意した。
「それに、まさか私に恋人ができるとは、夢にも思わなかった。まったく――こんなことになるのなら、もっとタエの話を真剣に聞いておくべきだったぞ」
ユイカは悔しそうに呻いたが 内心ロウはほっとしていた。
さすがに人前でユイカのことを「ハニー」と呼ぶだけの勇気はない。
出会ってまだ半月と経っていない恋人だが、どうやら彼女はかなり特殊な環境で育ったらしい。考え方は極めて理論的で、常に冷静沈着。しかし、知識や経験に極端な偏りが見受けられる。
「よし、ダーリン。次はひとつ、腕を組んでみるか」
だから、このような奇妙な言動が出たりする。
しかしロウは、それを欠点とは思わなかった。
千組の恋人がいれば、千通りの関係がある。他人にどう思われようが、本人同士が楽しければそれでいいわけだし、いろいろと試行錯誤しているらしいユイカの姿を見ているだけでも、口の端が浮いてくるような、そんなこそばゆいものが込み上げてくるのである。
すれ違う人々に好奇な目を向けられながら、ふたりは酒屋で度数の高い酒を買って、その足で治療院へ向かった。
路地裏にある小汚い建物で、滅多に客人もこない。相場以上の治療費をとられることを、地元の住民たちはよく知っているのだ。
「先生、ロウです」
返事はないが、ロウは勝手に中に入っていく。
院長室らしい部屋のソファーで、禿頭眼帯の老人――カノープがだらしなくいびきを立てていた。
ユイカの治療で得た金貨で買ったのだろう。普段は見かけないような高い酒瓶が、ソファーの下に何本も転がっている。
ロウは窓を開けて、酒臭い空気を入れ替えた。
「先生、起きてください」
何度か身体を揺らしてみたが、起きる気配は微塵もない。
「まいったな。ユイカ、もうしわけないけれど“闇床”を使ってもらえますか?」
「まあ、いいだろう」
すべての状態異常を回復させる闇魔法である。ユイカは指先を老人に向けて、歪な魔方陣を描く。
「――んがっ……ああん?」
ロウが再び身体を揺らすと、今度はあっさりと目を覚ました。
「……なんじゃ。ロウか」
上半身を起して、不思議そうに頭をかく。
「む、やけに頭がすっきりしておるな」
「そうですか?」
「やはり、高い酒は違うわい。悪酔いをせん」
満足そうに頷く老人に対して、ロウは「それはよかった」と、とぼけてみせる。
「そこにいるのは、この前の嬢ちゃんか?」
「その節は、お世話になりました」
「礼などええわい」
吐き捨てるように言って、カノープは立ち上がった。
さっそくロウが持参した酒を開けて、迎え酒――本人はそう思っている――を、うまそうに飲み始める。
「先生。例の毒消しはできましたか?」
「ああ、嬢ちゃんがくらったやつか。できてはおらんが、ちょっと待て」
カノープは面倒くさそうに机の引き出しから紙とインク、羽ペンを取り出して、さらさらと書き出した。
「ほれ、レシピじゃ。売れたらまた酒を買ってこいよ」
「ありがとうございます」
老人が手を振って追い払うような仕草をしたので、ロウはユイカとともに治療院を後にした。
路地裏を歩きながら、腑に落ちない表情のユイカに説明する。
タイロス迷宮の地下四十八階層。その迷宮泉に生息していた砲弾蔓の亜種――現在、爆弾蔓という名前で、魔物図鑑に登録予定である――は、爆発四散してしまったが、その毒の元となった刺を、ロウはいくつか回収していた。
それをカノープに渡して、解毒薬のレシピを作ってもらったのである。
「解毒薬など、簡単には作れないだろう?」
「先生は“解析”のギフトを持っているんです。毒の現物さえあれば、大抵の解毒剤は作れますよ」
「ほう、大したものだな」
いくつかのサンプルを調合して冒険者ギルドに売りにいくつもりだと、ロウは言った。
「あの毒は、まだ誰にも知られていませんからね。次の遠征までは、こちらの言い値で買いとってくれるはずです」
「私を救出しながら、そんなことまで考えていたのか?」
「……気に障りましたか?」
「いや、感心した」
ユイカは何かに挑むような目つきになった。
「さすがはダーリンだ。おかげで次にタイロス迷宮に潜行するときには、解毒剤を持って行くことができる」
やはり前回の失敗には、忸怩たる思いがあったのだろう。
すっかり上機嫌になったユイカとともに食材等の買出しをして、夕方ごろに家に帰ると、マリエーテがお出迎えをしてくれた。
「お姉ちゃん。いらっしゃいませ」
ぺこりとお辞儀する。
「また、お世話になる」
ユイカはお土産として、版画絵のついた童話の本をマリエーテに渡した。
銀貨数枚はするであろう高価なものである。マリエーテは童話が大好きなので、大きな目をきらきらと輝かせた。早く本を開きたいが、料理のお手伝いもしなくてはならない。深刻な葛藤に悩んでいるようだ。
「俺は夕食の準備をしますので、もしよければ、マリンに本を読んであげてくれませんか?」
「よし、まかせろ」
ユイカにとってはご褒美のようなものだったようだ。
嬉々としてリビングのソファーに座り、膝の上にマリエーテを乗せて、いっしょに本を読み始める。
かまどに火を入れながら、ロウは今後の予定を考えた。
“宵闇の剣”が次に迷宮に入るのは、四日後と決まっていた。
戦いの感覚が残っているうちに次の潜行を決行するというのが“宵闇の剣”の方針らしい。幸いなことに装備は破損しなかったので、消耗品の補充だけで済む。
次の迷宮探索は未到達階層の予定である。あらゆる危険と困難が予想されたが、家にいる間は、ロウは深く考えないよう心がけていた。そもそも、自ら選んだ仕事なのだから、先のことばかり気にしていたのでは、日々の生活に支障をきたしかねない。
だから、美味しい料理を作って、みんなで楽しく食べることに専念する。
食事中は仕事の話はせず、買い物やピクニックことで盛り上がった。食後はお茶を飲んで、果物を食べる。ロウの家としては実に贅沢な夕食になった。
甘いものを食べてお腹がいっぱいになったところで、マリエーテが目を擦りだした。
「お姉ちゃんと、いっしょにねる……」
さすがに二度目の朝帰りはまずい。
「マリン。お姉ちゃんは、帰らないといけないんだよ」
「ん~」
「ぐっ……」
ロウはマリンを諭したが、ユイカが苦しそうに顔をゆがめた。
「おい、ダーリン。帰りたくないぞ」
「駄目です」
前回、ユイカが酔いつぶれて家に泊まったことがあったが、その後会ったベリィは、ロウに対して殺意すら向けていたのだ。
「冒険者とシェルパは信頼関係が大切ですから。俺だって、他のみんなに不信感を持たれるわけにはいきません」
「……」
完全なる正論に、ユイカは反論することができない。
せめてマリエーテが眠るまではそばにいると言い張ったものの、残念ながらマリエーテはとても寝つきがいい。一緒にベッドに入ることすらできないままに、すやすやと眠入ってしまう。
「ユイカ。素敵な本をありがとうございました。マリンもずいぶん喜んでいたみたいです」
「……ん」
「宿まで、送りますから」
「いや。マリエーテをひとりにしないほうがいい。私は上級冒険者だ。誰が襲ってきたとしても撃退できる」
「分かりました。では、ユイカ。また明日」
「……」
玄関の戸口で、ユイカはじっとロウを睨みつけた。
これは、何か言いたいことがある顔である。
「タエが、言っていた」
「……」
「恋人同士は、朝や夜に、きちんとしたお別れの挨拶をしなくてはならないと」
では、また明日――では、きちんとしていないらしい。
ロウが一歩前に進み出ると、ユイカは少しだけ顔を上に向けた。
角度的には申し分ないのだが、じっと見つめられているので非常にやりづらい。
「あの、目を閉じてもらえると……」
「わ、分かっている」
かなり力んでいるようで、目を閉じても長い睫がぴくぴくと動いている。唇がぎゅっと結ばれているので、感触は硬そうだ。
しばらく観察していたいという悪戯心が生まれたが、あまり時間をかけすぎると怒られるかもしれない。
「お休みなさい、ユイカ」
「――」
そう言ってロウは、きちんとお別れの挨拶をした。