(2)
少し前まで、燃えるような熱と凍えるような寒さが同居する不自然な状態が、延々と続いていた。
削られていく命を必死に繋ぎとめるだけの、絶望的な戦い。
しかし、孤独ではなかった。薄れゆく意識の中でユイカが感じていたのは、上下に揺れる震動と、自分のものではない激しい呼吸と鼓動の音だった。
しかし今は、何も聞こえないし、何も感じない。
いつの間にか、痛みも苦しさも消えている。
意識があるということは、生き残ったのだろうか。
いや、死後の世界というものが実在するのならば、あるいは……。
朦朧とする意識の中で、不意にとある場面が呼び起こされた。
鼻を摘まれて、顎先を上に傾けられる。
そして、青年の顔が迫ってくる。
当然のことながら物理的な接触が発生し、どろりとした感触が喉を通り過ぎる。
初めての接吻は、泥臭い薬の味――これは思い出してはいけない。
早く忘れなければと、ユイカは念じた。
もやもやと場面が展開する。
今度は、薬を飲まされたあとのことだ。
何故ここまでしてくれるのかという自分の問いかけに対し、青年はさも当然のように答えた。
『……理由は、ありませんよ』
ないわけが、ないだろう。
人間の意識的な行動には、必ず何らかの理由があるはずだ。
それを知りたい。
いや、答えはすでに分かっていた。
すでに彼の口から聞いている。
それでも、もう一度確認するべきだと思った。
『知りたいですか?』
まあ、なんというか、できれば教えて欲しい。
無理にとは言わないが……。
じりじりしながら待っていると、小麦色のおさげの髪とこげ茶色の瞳を持つ青年は、どこかで見かけたような笑顔を作って、さらりと言ってのけたのである。
『それは、別料金です』
「――なんだ、それは!」
機嫌を損ねたように眉根を寄せて、ユイカは思わず口に出していた。
「なんじゃいっ!」
こちらも不機嫌そうな怒鳴り声を返したのは、ベッドのそばに立っていた老人である。
まるで骸骨のように痩せていて、頭は禿げ上がり、額から右の頬にかけて大きな刀傷があった。右目には木の板を丸くくりぬいた形の眼帯。白衣らしきものを着ているが、しわだらけで汚れていた。
ユイカは粗末なベッドに寝かされていた。
やや倦怠感は残っているものの、身体の調子は元に戻っている。
「……ここは?」
「見てのとおり、治療院じゃ」
身体を起こして周囲を確認すると、そこはごちゃごちゃとした小物が無造作に散らばっている、薄暗い部屋だった。物置小屋だと言われたほうがまだしも納得がいっただろう。
「気がついたなら、早く帰れよ」
ぶっきらぼうに言い放って、禿頭の老人は隣の部屋へと去っていった。
治療院ということは、あの老人は医士ということだろうか。
ともかく、命が助かったことに安堵していると、老人が去ったのとは別の出入口からマジカンがやってきた。
「ほっ、黒姫よ、無事なようじゃな」
「マジカン。状況説明を――」
「死にかけたというに、せっかちなやつじゃな」
やれやれと呟きながら、マジカンが簡潔に説明する。
地下四十八階層の迷宮泉でユイカが毒に倒れてから、“宵闇の剣”はロウの案内で近道のある地下十四階層までの道を駆け抜けたという。ユイカの記憶では、休憩中に二回ほど薬を飲まされたはずだが、実際にはもっと多く、ところどころで薬草を採取し、その場で調合して飲まされたらしい。
「ベリィのやつが数えておったが、ちゅーした回数は七回じゃ」
「……」
とりあえず無視する。
「ベリィとヌークは?」
「ふむ。近道の前までは、後ろにいたんじゃがな」
ロウのスピードについてこれず、シェルパたちの言う“足砕きの階段”で、置き去りにされたらしい。
「……それで?」
「うん?」
きょろきょろと周囲を見渡しながら、ユイカが聞いた。
「そのシェルパは、どこへいった?」
「もう帰ったぞい」
予想外の回答だった。
「今回の成果品は、すべて冒険者ギルドに預けておくと言っておった。まったく恐ろしいギフトじゃの。あれだけの荷物とお前さんを抱えて、四十八階層を駆け上がったというに、けろりとしておった。ほぼ不眠不休ぞ?」
だが、ユイカが考えたことは、まったく別のことだった。
命を助けてもらったことは、とても感謝している。
感謝してもしきれない。
しかしどうして、自分が目覚めたときにそばにいないのだろうか。
様々な感情がないまぜになった心を持て余しつつ、ユイカは長靴を履き、近くの壁に立てかけてあった愛剣を腰にさした。
「……すまんの、黒姫よ」
「なにがだ?」
「娘の不注意で、命を落としかけたことじゃ」
「別に、気にしていない」
未踏破階層では、ちょっとした油断がパーティの生死を分ける。なぜ深階層に砲弾蔓が生息しているのかと疑問には思ったのだが、それを口に出し、行動に移せなかった自分にも過失がある。ベリィのみ責めを負うべきものではない。今後に活かせばいいことだ。一番最初に気付いたのがシェルパだったというのは、確かに反省点のひとつではあるが。
「もう治療費は払ったのか?」
「魔法一発で金貨一枚じゃ。足元を見おって」
憤慨しながら、マジカンが隣の部屋にいる医者に聞こえるような大声を出した。
何でもここの医者は元冒険者で、水属性の魔法の使い手らしい。状態異常回復の魔法で、ユイカは全快したのだという。
「宿までの道は?」
「心配はいらん。シェルパの小僧が地図を描いてくれたからの」
「こういうところは、気が利くのに――」
「……?」
もやもやとした気持ちを抱えながら、ユイカは隣室で酒を飲んでいた老人に礼を述べたが、「さっさと帰れ」と怒鳴られてしまった。
地図を頼りに宿に戻ると、個室ロビーにはベリィとヌークが戻っていて、床の上でへたり込んでいた。しかし、ユイカの姿を確認するや否や、ふたりは弾かれたように立ち上がり、駆け寄ってきた。
「ひ、姫っ!」
「黒姫さま、よくぞご無事で!」
互いに無事を喜んだものの、ベリィは涙と鼻水まで流して大泣きし、抱きついたまま離れようとしない。
「わ、わたしのぜいで、ご、ごべんなざい……」
「気にしなくていい。私も不注意だった」
慰めつつ、ユイカはベリィの背中を軽く叩いてやる。
「ひ、姫ぇ~」
落ち着いたところで、お湯を沸かしてもらい、汗と汚れを流してから食事を取る。
その日は何も考えずぐっすりと眠った。
翌日もまだ疲れが残っていたが、朝食のあとに個室ロビーに集まって、紅茶を用意してもらい、今回の迷宮探索の総括を行うことになった。
話題はやはり、その場にいない青年のことに集中した。
「あのロウという男、何者でしょうか。“持久力回復”のパッシブギフトが、あれほどのものとは」
冒険者レベルが上がると、基本能力――筋力、体力、瞬発力、持久力、魔力の五項目に対して均等に補正がつく。レベル十二の冒険者であり、かつ日ごろの鍛錬も怠っていないヌークからすれば、自分がシェルパに持久力で遅れをとったことが信じられないようだ。
マジカンがにやりと笑う。
「あやつは特別よ。なにせ、効果が五じゃからの」
「……!」
紅茶を飲む手を止めて目を見開いたのは、ユイカである。
「パッシブギフトの効果は、三が最高ではなかったのか?」
「そういわれとるのう」
冒険者暦四十年以上のマジカンにしても、初めての事例らしい。
「おそらく、冒険者ギルドにも報告しとらんのだろう」
「冒険者レベルと、基本能力は?」
聞いたのはヌークである。
「知りたければ、自分で聞けばよかろう? シェルパとしては、醜悪鬼並みの持久力があることがわかれば、十分だろうて」
「それは、そうですが」
ユイカはティーカップをテーブルに置くと、両手を組んだ。
「マジカンの言うとおりだ。ロウは優秀なシェルパであり、薬学の知識もあるようだ。それ以上のことを詮索する必要はない」
「ううっ……」
ベリィが唸るような声を上げた。
「もう、雇い入れることに反対する理由はないな?」
「で、でもあいつ――姫に対して、馴れ馴れしいっていうか、絶対に狙ってるって!」
「狙う? 何をだ?」
「あなたをよ! す、好きになったとか言ってたでしょ!」
「……」
ユイカは紅茶をひと口。
「黒姫さま」
居住まいを正して、ヌークが進言した。
「“宵闇の剣”は大衆からの注目度も高く、中でも黒姫さまは特別な存在です。よからぬ風評が立った場合、“宵闇の剣”の活動そのものに支障をもたらす可能性があります。確かにロウは優秀かもしれませんが、地方の迷宮で働く一介のシェルパに過ぎません。そのあたりの区別は、きちんとつけるべきでしょう」
ベリィがぶんぶん首を縦に降った。
「姫もさ、勘違いされてつきまとわれたら、迷惑でしょう?」
「……」
俯いたまま、ユイカはティーカップの波紋に目を落としている。
ふと顔を上げて彼女が下した決定は、ベリィの期待を裏切るものであった。
「命を助けてもらった上に、成果品をすべて回収することができたんだ。まずはこちらから出向いて、礼を述べるのが筋ではないか?」
しごくまっとうな言葉に、誰も反対することはできなかった。