ばあちゃんと遺産と俺
我が家の隣に住む老夫婦とは、父と母が結婚して越してきてからの付き合いらしい。現在はばあちゃんしかいない、じいちゃんは三年前に亡くなっている。この二人には俺も小さい頃から大変お世話になった。もちろん今でも家族同然の付き合いが続いている。特に俺とばあちゃんはいわゆる茶飲み友達で、回覧板を持って行ったついでに二、三時間話し込むなんてのはざらだ。最近は受験勉強のためにもう少し早めに切り上げるようにしているが、その話をすると「夕ちゃんももう大学生になっちゃうのねぇ」と寂しそうに言われたことがある。
大丈夫だよ、ばあちゃん。俺は遠くに行くつもりなんてさらさら無いから。そう言うとばあちゃんは微笑んでくれたが、その裏にある事情は知らない。実のところ、家に女二人残すのも心配だが、たがの外れた変態と大事なネジがほとんど緩んでしまっている母がばあちゃんに迷惑をかけそうで気が気でないというのが、俺の進路選択における重視すべき項目の一つだったりした。ランキングしたら、たぶん「金の稼げそうな職に就けそう」の次に来る。血こそ繋がっていないが、俺にとっては実の祖父母よりもずっと大事な人である。迷惑はかけられない。
今日は晴が藤本君と出かけていて珍しく俺一人で留守番していた。当然、回覧板も俺が持っていくことになる。昨日出張先の長崎から帰ってきた母のお土産であるカステラも持って、勉強の疲れを癒そうと隣家に向かったが、普段あるはずのないものを見て、今日は話し込めないことを悟った。何かというと、車である。俺の知る限り、じいちゃんもばあちゃんも車には乗らない。免許は返したと言っていた。「年だからねぇ」と言うばあちゃん達の買い物は、たまに俺達が一緒に行ったりして負担を減らしてあげている。近所付き合いはこうして続いていくのだ。
とにかく、車は来客があることに他ならない。カステラは仕方ない、あげるだけにしよう。お客がいるならお茶菓子として食べてもらえばいい。玄関に立ってインターホンを鳴らそうとした瞬間、戸が開いた。慌てたように出てきたのは母よりも年上だろう、恐らく五十代の男女だった。驚いたがとりあえず二人に会釈をした俺に、家の中から塩が投げつけられた。
「このっ親不孝者め!」
あまり聞くことのない怒鳴り声は、ばあちゃんのものだ。塩がたっぷり入った容器を持って、やっぱりめったに見ることのない鬼の形相で見据えるのは、先程の男女だ。塩まみれの俺は、両者の間で所在無く立っている他ない。
「母さん、その人は俺じゃないだろ!」
男の方はどうやらばあちゃんの息子らしい。その指摘に、吊り上っていたばあちゃんの目が垂れ下がり、いつも通りの優しい顔になった。
「夕ちゃん!? ごめんねぇ、そこのバカ息子と間違えちゃって……!」
「あ、うん。大丈夫だよ、ばあちゃん」
実際、塩を投げつけられたことに対する驚き以外とりたてて困ることはない。着ているのも部屋着代わりのジャージだ。しかし、俺のことを気遣ってくれるばあちゃんをここまで怒らせるとは。一体何をしたんだろうかと息子さんの方を見たら、息子さんはばあちゃんと俺を、なぜか憎々しげに睨んでいた。
「じゃあ、俺達これで帰るから」
奥さんと思しき人を促し、息子さんが去っていく。去り際に吐き捨てた「やっぱりもうろくしてるじゃないか」という言葉がばあちゃんの耳に入ってない事を祈った。
思いがけなく実現したお茶の時間は、どことなく居心地が悪かった。塩をばあちゃんちの風呂場で落とさせてもらってる間に、ばあちゃんが俺が持ってきたカステラを切り分け、お茶と共に持ってきてくれた。二月に風邪を引いて倒れたのはばあちゃんも知っているから、立ち話もなんだしと家にあげてくれた。ばあちゃんは、とにかく申し訳なさそうな顔をして謝る。息子夫婦と何を話したか知らないが、腹の立つ事があっただろう後に押しかけている俺の方が申し訳ない。
「ごめんねぇ、見苦しいところ見せちゃって」
「別に気にしてないよ」
塩ぶっかけられたのは驚いたけど。
ごめんねぇ、と重ねて謝るばあちゃんに、とりあえずカステラを勧めた。ばあちゃんにあげる分とは別に俺達用もあったので晴と食べたが、かなり美味しくて二人で全て食べてしまい、後で「私も食べたかったのに!」と母に怒られた。このように、誰かがどこかへ旅行なりした場合、お土産は家族の分とばあちゃんちにあげる分を買ってくる習慣が我が家にはある。家族ぐるみの付き合いというよりも、俺達にとってはもはやばあちゃんも死んだじいちゃんも家族の一員なのだ。
しかし、そこまで思っていても先程のことを確かめたりはしない。そこは茶飲み友達として弁えるべきところである。いくら仲が良くたって、どこまでも踏み込んでいいということにはならない。
そこからはしばらく当たり障りのない話をしていた。主に俺の勉強の進み具合の話で、愚痴も吐き出せるので気分転換としてはちょうどいい。この前の模試では同じ大学の法学部を目指す宮代はA判定、理学部志望の俺はB判定と負けてしまっていたので、そのことも話すと、慰めてもらえた。担任のぷーさんには「もう少し頑張れ」と言われている。A判定でも点数次第では褒めないことがある人なので厳しい言葉には慣れている。だが、あと三点でA判定だったことを考えると、ぷーさんの言葉がひどく重いものに感じられてちょっと疲れてしまっていたのでありがたい。
「夕ちゃんは他の大学は考えてないのかい? 県外に出て一人暮らしとか、夕ちゃんぐらいの年だったら憧れるだろうに」
「ああ、うん。考えてないよ。やっぱりさ、女二人残すのは心配じゃん? しかも下宿とかしたら余計に金かかるし。俺で節約しといて、残った分は晴に回してやりたいんだよ」
今でもバイトはしているし、奨学金ももらっている。大学に入ってからもそれらは継続する気だが、今より金が要り様になる事に変わりはない。俺ではなく晴に金をかけてやってほしいというのは、俺なりの晴への愛情のつもりである。……あとまあ、裏事情もあるしな。
「夕ちゃんは家族思いだねぇ」
ぽつりとばあちゃんが呟いた。その言葉に、「親不孝者」と叫ぶばあちゃんの声が蘇る。
「うちの息子、見たろう?」
何も言わず頷いた。去り際の捨て台詞といい、実の母を睨むその目といい、良い印象はあんまり無い人である。
「一人息子だからって甘やかしすぎたんだろうねぇ。おじいさんが死んだときには焼香だけあげに来るような有様だったんだけど、久々に訪ねてきたと思ったら、何の話をしに来たと思う?」
改心してじいちゃんの墓参りに来たとか、一人暮らしのばあちゃんを気遣って一緒に住もうと提案しに来たわけではないと思う。挨拶もそこそこに帰って行ったあの夫婦を見るに、息子さんだけでなくお嫁さんとも折り合いは悪そうだった。
俺が首をひねっているのを見て、ばあちゃんは微笑んだ後、ひどく複雑な表情を浮かべた。
「私が死んだ後の、お金の話をしに来たんだよ」
頭を金槌で殴られたような気がした。
「ばあちゃん、どっか悪いの?」
俺の見る限り、足腰は年齢相応に弱っているが、それでもまだまだ元気なおばあちゃんである。自分のことは自分でできるし、風邪だって滅多に引かない。引いていたら看病しに行くので、俺達が知らないはずもない。
「大丈夫、どこも悪くないよ」
ばあちゃんの答えにほっとした。じいちゃんの時は脳梗塞で、本当にぽっくり逝ってしまったので心の準備もできず、ただ呆然とその死を受け入れる他無かったが、ばあちゃんにはぜひとも大往生してほしい。もちろん、一番いいのはいつまでも元気でいてくれることである。俺や晴が社会人になるところも、できれば晴の花嫁姿だって見てやってほしい。……そこはいろいろ複雑だが。とにかく、俺達が実の祖父母同然に想うのと同じくらい、ばあちゃんも俺達を実の孫のように可愛がってくれている。だから、じいちゃんが死んだ時もこれが一番悔やまれた。せめて、俺が高校生になったところくらい見てほしかった。
色々思い返しているうち、俺の方が複雑な顔をしていたのだと思う。ばあちゃんが俺の考えなんてお見通しだといった感じで声をかけてくれる。
「大丈夫、私はおじいさんの分まで夕ちゃんや晴ちゃんのこと見守るからね」
俺はばあちゃんのこの言葉が素直に嬉しいし、もしばあちゃんが死ぬようなことがあったら人目も憚らず泣くだろう。血の繋がってない俺にさえできること、感じることを、息子さんは思わないんだろうか。
「……もし私が死んだら、私のものは全部夕ちゃんにあげるからね」
息子さんへの憤りを覚えていた俺は、危うくその言葉を聞き逃しそうになった。今、ばあちゃんは何を言った?
「ば、ばあちゃん?」
「大したものは何も残っちゃいないけど、この家も、残ったお金もあげる。家は売ってもいいし、夕ちゃんや晴ちゃんが結婚したらここに住んだっていい。こんな古い家でいいならだけどね」
「……ばあちゃん、この話は止めよう。ばあちゃんが死んだらなんて、俺、考えたくないよ」
きっとばあちゃんは、息子さんが訪ねてきてあんな話をしたせいで不安定になってるだけだ。
俺の言葉に、ばあちゃんはあっさり頷いた。
「そうだね、縁起でもなかったね。止めようか」
そこからはまた他愛もない話になった。晴に彼氏ができたこと、その彼氏がちょっと変わってるけど意外と二人はうまくいっていて腹が立つことを話すと、ばあちゃんの目が微笑ましげに細められる。しかしどんなに楽しく話しても、先程のばあちゃんの本気の目は、俺の脳裏に焼きついて離れてくれなかった。
* * *
事が起きたのはそれから二週間ほど経った頃だった。卒業式も終わり、期末試験が迫っていた俺の元に電話がかかってきた。
「お兄ちゃん、電話ー」
「電話? 誰から?」
携帯は持っているから、友人でないのは確かだろう。俺の家の方へ電話をかけてくるのは学校の先生か母、例外的に宮代くらいである。宮代がかけてくる時は大体嫌がらせを仕掛けてくるときなのでめんどくさい。学校の先生、つまるところ担任の先生になるわけだが、最近はぷーさんの御厄介になるようなことはしていない……はずだ。母は遅くなる時にその旨を俺の邪魔にならないようにと、家の電話で晴に伝えるだけだ、最も害がないし、そもそも俺に代わる必要が無い。とにかく、現在かけてくるような奴に心当たりはなかった。
「小松さんだって」
名前を聞いても、全く分からない。俺の知り合いにこの名字の人はいない。
首を傾げながら、とりあえず電話に出てみた。
「お電話代わりました」
答えたのは、やっぱり知らない声だった。
『初めまして、小松誠と申します。母がいつもお世話になっているようで』
「? はあ……」
ますますもって心当たりがない。誰のことだろうか。
電話口の向こうでも俺が戸惑っているのが分かったのか、さらに情報を与えてくれる。
『君の家の隣に住むのは、うちの母です』
「あ……」
そうだ。いつもばあちゃんと呼んでいるからすぐには気付けなかったが、確かばあちゃんの名字は小松だった。
それと同時に、決して友好的とは言えない声が蘇る。あの息子さんが、一体俺に何の用があるんだろうか。
「何のご用でしょうか?」
知らず知らず、声が尖る。
『母のことで少し君と話したいことがあるんです。今週の日曜日にでもどうかな?』
「……夕方までなら」
本来バイトしているはずだったが、先輩が他の日に入れなくなり俺と交代してくれと言われたので、休みになっている。せっかくの休みをこんな事で潰してしまうのは惜しかったが、早く切り上げればいいだろう。
日曜日に最寄駅で会うことを約束し、電話は切れた。
最寄駅までは、大体いつも自転車で行く。今日、日曜日も晴れていたので自転車だ。勝手知ったる駐輪場に自転車を置いて、改札はくぐらずにぼーっと突っ立っていると、しばらくして声をかけられた。
「伊東夕君ですか?」
姿までは覚えていなかったが、声は覚えていた。あの時よりは、刺が取れている。
「はい。小松さん、ですよね?」
尋ねると、向こうも少しほっとしたように相好を崩した。お互い、ばあちゃんの家の前で偶然鉢合わせただけでこうして会うことになるとは思ってもみなかったから、人違いをしなくて済んでほっとしたのは小松さんだけではない。
立ち話もなんだから、と連れていかれたのは少し歩いたところにあるカフェである。中学の時はよく友達と、彼女ができたらここに行くのだとか、ひどく切ない妄想を繰り広げていた。中学生の思うおしゃれなデートは、少なくとも俺達の中では、落ち着いた、普段勇気を出しても入れるか分からないようなカフェに行くことだったのである。今はさすがに思ってないが。
「好きなものを頼んでいいよ。呼び出したのは俺だから、勘定は気にしなくていい」
「あ、ありがとうございます」
お言葉に甘えて、オレンジジュースを頼んだ。コーヒーも紅茶も、俺はあまり好きではないため、これを知る人間にはよく笑われる。宮代とか。自分でも、これは中学生より酷いんじゃないかと思うが、別におしゃれなデートをする相手にはしばらく恵まれそうにないので構わない。……負け惜しみじゃあないぞ、念のため。ちなみに小松さんはコーヒーである。
「伊東君は母と仲が良いそうだね」
注文を聞いた店員さんが下がるや否や、小松さんがそう切り出した。
「はい。親が忙しくて帰ってくるのが遅かったので、小さい頃からよく預かってもらってました」
「妹さんもだよね? お母さんも大変だね、お父さんが出て行かれてから、一人で君達を育てなくちゃいけなかったんだから」
違和感どころの話ではなかった。晴のことは知っていてもおかしくないだろう。こないだ電話の対応をしたのは、他でもない晴なのだから。
でもなんで、なんで父のことまで知っている?
「なんで、知ってるんですか?」
タイミングよく注文したものが運ばれてきたので、一口飲んだ。小松さんもコーヒーに口をつけた後、若干、本当に若干、申し訳なさそうにしながら答えた。
「君のことは興信所を使って調べさせてもらったよ」
『興信所』が何かは、俺は知らないが、とにかく勝手に俺のことを調べたということだ。特に父のことはあまり人に知られたい話題ではないから、不愉快極まりない。
「どうしてそんなことするんですか」
大分険しくなった俺の声も意に介さず、小松さんは傍らに置いていたカバンから紙を取り出した。
「母の遺言状だ」
日付は約二週間前、ばあちゃんと話した二日後になっている。ばあちゃん名義の不吉なそれには、とんでもないことが書いてあった。
『すべての財産を伊東夕に譲る』
「私が死んだら、全部夕ちゃんにあげるからね」――ばあちゃんの声が蘇る。やっぱり、あれは冗談ではなかったのだ。
どうしていいか分からず呆然とするしかない俺に、小松さんが言う。
「君も随分と図々しいね。確かに君の家は金に困ってるだろうけど、だからといって、血の繋がらない他人の、なけなしの遺産をもらおうだなんて」
頭に血が上った。じいちゃんが死んだ時もろくに顔を出さなかったような人に、図々しいなんて言われたくはない。
しかしこのままだと怒鳴りそうだったので、口を閉ざした。俺のこの沈黙をどう受け取ったのか、小松さんが畳み掛けてくる。
「とにかく、この遺言状は無効だ。母には俺から言っておく。君も、今後あまり母に関わらないでくれ」
残っていたコーヒーを一息に飲み干し、小松さんは伝票を取って出口へと向かう。言いたい放題言われた怒りが収まらず、ジュースの氷が溶けきるまで一人座っていた。
予備校の授業は夕方からだったが、あの後さっさと予備校に行って、俺は自習室に座り込んでいた。話が早く終わって心置きなく勉強できる――はずだったが、そうもいかなかった。遺言状、そして小松さんの言葉が浮かんでは消え、俺の集中力を削いでいく。
「伊東、早いな」
「宮代……」
いつもならバイトがあるため授業開始ぎりぎりに駆け込んでくることが多い俺が、先に自習室にいるのに驚いたのだろう。宮代は珍しいものを見る目で俺を見ながら、向かいに座った。
「何かあった?」
「別に」
言いたくないことがある時は、お互いこれだけで通じる。家族以外でこれが通じるのは、宮代だけだ。
「それ以上踏み込むな」という俺の意思表示に、宮代はあっさり応じてくれた。
「何かあったら言えよ」
その言葉に少しだけ楽になり、目の前の問題にようやく集中できるようになった。
* * *
翌日月曜日、学校に行こうと自転車を出すと、隣からばあちゃんが出てきた。どうやら俺を待っていたようで、ちょいちょいと手招きしている。早めに家を出るようにしているから時間はあったので、それに応じた。
「ばあちゃん、おはよう」
「おはよう。……夕ちゃん、昨日うちの息子と会ったんだって?」
「……うん。ばあちゃんの遺言見せられた」
あの後、小松さんは遺言状の書き換えを迫ったらしい。「赤の他人ではなく、血の繋がった俺達が母さんの遺産をもらうのは当たり前だろう」――そう言ったんだそうである。
「血の繋がった他人のくせにねぇ……」
俺が母や妹に言われたら、と想像しただけで恐ろしくなる言葉だ。しかし、気付いてしまった。「血の繋がった他人」は俺の近くにもいた。父だ。ばあちゃんから見た小松さんは俺にとっての父だと思うと、ばあちゃんの気持ちもよく分かる。確かに、もう何物も与えてやりたくない。
「ばあちゃん、俺、とりあえず学校行ってくるよ」
「ああ、そうだね。呼び止めちゃってごめんね。気を付けて行ってらっしゃい」
「うん、行ってきます」
何か、他人の俺でもなく、あの人達にも遺産が渡らない方法を考えよう。