母と見合いと俺
「やあ、伊東君。清々しい朝だね、今日も一日勉学に励もうという気にさせられるよ!」
「…………お前、食中毒か? 病院にでも行くか?」
二月十四日、バレンタインデー当日。駅に向かうと、先に着いていた宮代がわざわざベンチから立ち上がり、訳の分からん挨拶をしてきた。キモいと言わなかっただけ褒めて欲しい。
しかし俺の反応はいまいちお気に召さなかったらしく、ベンチに座り直すと文句を言ってきた。
「お前、今日何の日か分かってんだろ?」
「バレンタインだな」
ついさっきベタベタしてる地元の高校の制服を着たカップルとすれ違った所だ、間違えようはずもない。柄も偏差値もよろしくないことで有名なだけあって、言っちゃあ悪いがあんまりおつむは良くなさそうだった。人前で堂々いちゃつけるあたり、さっきのカップルは羞恥心も薄そうだ。
「あー、それ俺も見たわ。さっすが銀山って感じだったな。まあうちの兄貴も銀山だけど、あいつはあいつで系統違いのアホだし、結局そういうの集まるんだろうなー」
こいつも大概口さがない。
「ま、そんなんどうでもいいんだよ。伊東、お前、今年もらえるあては?」
「晴と母さんだけだな」
晴からは土曜日にクッキーを食べさせてもらったし、母からは今日枕元に市販の板チョコが置かれていた。手作りで無かっただけほっとしたが、手作りクッキーと板チョコの落差にはさすがにへこんだ。俺のバレンタインはこれで終了だろうから、かなり虚しい。
そう言うと、宮代は何故かふてくされる。朝からめんどくさい奴だ。
「何だよ」
「いーよなー、女ばっかの家でよぉ。うちなんて兄ちゃんのもらってきたやつ兄貴と分けるんだぜ? しかも兄貴も毎年一個はもらってくると来た!」
知らない人には分かりにくいだろうが、宮代には二人兄がいて、七つ離れた一番上の兄・涼さんを「兄ちゃん」と呼び慕い、二つ離れた二番目の兄・慎さんを「兄貴」と呼び喧嘩ばかり繰り返している。さっきのバカップルと同じ高校に通っていたのは慎さんの方だ。俺もよく遊んでもらっていたから知っているが、慎さん、びっくりするほど頭が悪い。その代わり運動神経は抜群にいいから、小学生の頃から中学生数人を一人で相手しても勝っていた。そんな普通にしていればいい兄ちゃん、しかし気が短く喧嘩っ早い、あの狂犬のような慎さんですら一個はもらえるのかと思うと、確かに宮代が嘆くのも分からないでもない。
それにしても、なかなか虚しいことをする兄弟だ。互いに傷口に塩を塗り込み合っている、しかも毎年。宮代もそれは分かっているのか、げんなりした顔で続ける。
「俺だってさぁ、たまには自分だけの奴が欲しいわけだよ。こんな切ないサイクルから抜け出したいんだよ。あのアホ兄貴より絶対俺の方がまともなのに、何で一個ももらえねぇんだよぉぉぉ」
「朝からうっさいな。おばさんからは?」
「無い、人生で一度たりとてくれたこと無い。くれないのって何年か前に聞いたら『チョコって要するに女の子からの人気投票でしょ? 何で息子に同情票入れなきゃいけないの』って真顔で言うんだぜ? 期待するだけ無駄」
「……さっすが」
宮代家は紅一点である母が一番強い。おじさんは涼さんともども穏やかな性格をしていて、基本おばさんに逆らおうなんて考えないから波風立たない。問題は次男坊と末っ子だ。この二人が喧嘩したら大体涼さんが止めに入るが、それでも止めきれない場合はおばさんが出てくる。そして不思議なことに、宮代はもちろん、慎さんまでもが素直にその仲裁に従うのである。一度だけその現場に出くわしたことがあるが、淡々と叱る、というより言い含めるおばさんの目は息子を見ているにしてはあり得ないほど冷め切っていて、単なる客人であるはずの俺までもちょっと怖くなった。こんな風に身内でも容赦なく切り捨てるおばさんには、確かにチョコなんて期待するだけ無駄だろう。宮代がため息とともに呟いた。
「そんなこと言っときながら親父にはあげるんだから、もう俺何を信じていいのか分かんねぇよ……」
「……いや、夫婦なんだからいいだろ、そこは」
夫婦の絆でも信じてればいいと思う。
さっき清々しい朝とか抜かしていた口から重苦しいため息を垂れ流す宮代から目を逸らし、隣に腰掛ける。電車は後十分ほどで来るし若いんだから立ってればいいと自分でも思うが、宮代の話を聞いていたらそんな元気も無くなった。
本命どころか義理さえ怪しい男二人、揃ってため息をついていると、それでも諦め悪く辺りを見回していた宮代が突然立ち上がった。
「宮代?」
何かあったかと宮代の視線の先に目を向けて――今すぐ逃げ出したくなった。
「三島さん!」
嬉しそうに、宮代が俺達と同じ高校の制服を着た小柄な同級生に声をかける。突然名前を呼ばれた彼女は宮代の姿を見、そして傍らに座る俺の姿を見て、顔を強張らせた。彼女、三島朱莉こそが俺がかつて傷つけてしまった片想いの相手である。仲直りだけでもと言いつつ、やっぱりうまくいったら彼女と付き合いたいとは、ちょっとだけ思っている。……お互いこんな反応してちゃあ、夢のまた夢なんだろうけど。
宮代だけが俺達の間にある気まずい空気を無視して、三島さんに挨拶する。
「おはよう、三島さん! 爽やかな朝だね!!」
まだ言うか。
「お、おはよう、宮代君……」
申し訳程度に「伊東君も」と付け加えられて、俺も返さないわけにはいかず「おはよう」と小さく会釈した。しかし三島さんはもう俺の方を見てはいない。空へと目をやり、そして宮代に視線を戻す。
「今日、曇りだよ?」
ついでに言うと、午後からは雪の予報だ。
「いーのいーの! 気持ちさえ晴れやかならね!」
おい、さっきまで重っ苦しいため息ついてただろお前。俺はお前の巻き添え食らったんだぞ。
モテない男のハイテンションは続く。
「いやあ、朝からバイト馬鹿の顔しか見れないもんだと思ってたから、三島さんに会えて良かったなぁ! やっぱ見るなら可愛い女の子だなぁ、うん!」
「今すぐマフラーで目隠ししてやろうか」
本当に軽いな、こいつ。三島さんが可愛いってとこだけ同意してやるけど、それ以外は許さねぇ。
その可愛い彼女は、本来恥ずかしがり屋なので顔を真っ赤にしている。高校に入って一か月後、中学で彼女を暗くてどんくさい女としていじめていた連中がそろって仰天するような劇的変化を遂げたのに、中身は今でも引っ込み思案なままのようだ。俺の周りでも彼女の事を可愛いという奴は多いから、言われ慣れててもよさそうなのに。
この反応、もしかしたらまだ彼氏なんていないのかもしれない。むしろそうであってほしい。彼女が可愛いことなんて俺は中二の時から知っていた、他の男なんかに取られたくない。彼女が可愛いからってだけで近付いた男じゃあ知り得ないことだって、俺は知っている。例えば彼女が数学オタクなこと、好きなだけあってとても教え方が上手いこと、友達と馬鹿ばっかりやってた中学生は絶対に読まなかったであろう本の魅力を知り尽くしていること、彼女の笑顔にはこっちまで幸せな気持ちにさせられること――俺は、あの図書室で、彼女にたくさん教えてもらった、彼女のことを知ったんだ。……たった一度の過ちが、それらを無意味なものに変えた。
「ところでさ、今日ってバレンタインじゃん? 三島さん、誰かに本命あげたりすんの? それって彼氏だったりする?」
宮代は俺が三島さんを好きなのを知っている。軽い調子で確かめるのは、宮代自身の好奇心だけではないだろう。その証拠に、質問攻めにしながら宮代は俺の方をちらっと見た。
親友が放った質問は、しかしいい結果は生まなかった。
「……うん、あげる人、いるよ」
俺にとって絶望的な言葉を吐き出す直前、三島さんの目が一瞬だけ俺に向けられた。すぐに逸らされた後、三島さんはタイミング良く滑り込んできた電車に乗り込んでしまう。その後をすぐに追いかける気にはなれなかった。
何で、何で俺を見たんだよ。あの時君を拒絶した俺へのあてつけか? だとしたらおめでとう、君が思った以上の効果が出てるよ。良かったね。
「伊東」
見れば宮代がバツの悪そうな顔をしていた。違うよ、宮代は悪くない。勇気の出ない俺に代わって聞いてくれたんだ、むしろお礼を言いたいくらいだ。今はすんなり出てこないけど。
「悪い、行くか」
そう言って、とりあえず謝られるのは阻止した。家族の次に長い時間を過ごしている親友には、それだけで通じる。電車に揺られ、珍しく酔いそうになりながら今日という日を呪った。
* * *
「寒……」
昼を過ぎたあたりから、頭が痛い。朝のことを考えていたからだろうか、ストレスってすごいなと妙なところに関心してしまう。ニット帽でもかぶりたい気分だ。
何となく身が入らないままに学校とバイトを終え俺が帰るのと、母が誰かに連れられて帰ってきたのはほぼ同時だった。日付が変わる前だというのに、奇特な人もいたものだ。散々ぱら飲んで迷惑をかけるのだし、そうなったら最悪ほっといてくれてもいいと思う。近付くと、その奇特な人は見覚えのある人物だった。
「あ、堀尾さん」
「あはは……こんばんは」
ちょっと困ったように笑ったのは、母の小学校時代の同級生だという堀尾さんだ。父とも仲が良かったらしく、昔からお菓子片手に訪ねてくるおじさんというのが俺と晴から見たイメージで、晴が人見知りせず接することのできる数少ない例外でもある。ちなみに独身。
「どうしたんですか、それ」
「ああ、うん……」
「うふふー、私がバレンタインのお菓子忘れちゃったから一緒に来てもらったのよぅ。ほらぁ、入ってよとーもくん」
「と、ともくんは止めようよ、伊東さん」
「なぁに他人行儀に。昔みたいに由季ちゃんでいいのにー」
堀尾さんに抱えられて、うにゃうにゃ訳の分からんことを言う母。近寄ってみると案の定、酒臭い。
「仕事終わったら飲みに行こうって話だったから行ったはいいんだけど、飲みすぎちゃったみたいで」
「すいません、いつも……。ほら母さん、俺につかまれって。堀尾さん困ってる」
「夕君、僕は大丈夫だから。伊東さん、とりあえず中入ろう?」
半分軟体動物と化した母をどうにか運び込み居間のソファに座らせて、帰るという堀尾さんにも座ってもらう。母には水、堀尾さんにはそんなに飲んでいないらしいのでコーヒーを淹れた。
「ありがとう」
「いえ、迷惑かけてすいません」
「夕ー、おつまみ作って。あと私が作ったチョコ探してきて!」
まだ飲む気か。
「ほらほら伊東さん、」
「由季ちゃん! 呼ばないとここでともくんの恥ずかしい話するわよ」
「わ、分かったよ」
恥ずかしい話とやらがちょっと気になったが、堀尾さんが昔の呼び方で母を呼ぶので、その先は聞けなかった。チョコを探しつつ、二人の話に耳を傾ける。もちろん、つまみを作ってやる気はない。
「由季ちゃん、明日も仕事だし、夕君も学校あるんだから。もう寝よう、僕も帰るし」
「えー泊まってきなさいよー。どうせ今からだと終電無いんだから」
「いや、同じ町内だからタクシーで済むよ。迷惑だし、チョコも見つからないようなら今度でいいし、ね?」
「堀尾さん、見つかりましたよ」
袋詰めのチョコを発見したので堀尾さんに手渡す。俺や晴が勘違いするとでも思ったのか、冷蔵庫の上の物置スペースに置かれていた。一体俺達のこと何歳だと思ってるんだか。
「ありがとう。じゃあ僕はこれで」
「俺も、泊まってった方がいいと思いますよ。それかタクシー呼びますし、来るまでうちで休んでってください。堀尾さんも飲んだんでしょ?」
「……うん、まあ、ちょっと」
「ほら。どっちにします? 泊まるのと帰るのと」
「うーん……」
ややあって、「じゃあ、久しぶりにお言葉に甘えようかな」という答えが返ってきた。
「おい母さん、起きろって」
「えー、やー」
「ちびっこじゃないんだから、せめてまともに話せよ」
堀尾さんには先に風呂に入ってもらった。さすがにそこまでは、と渋られたが、強引に押し切って入ってもらい、その間に母を起こす。身内以外にあんまり見られない方がいいのだ、この起こし方は。母の耳元に、起動スイッチ代わりの言葉をそっと囁く。
「母さん、母さんが寝てる間に父さんが晴連れてっちゃったぞ」
「何ふざけたことしてんのよこの×××が!! ブチ殺すぞ!!!!」
よし、起きた。
「はい、そのまま晴がいることを起こさないように確かめてベッドに直行。風呂は明日の朝、オーケー?」
「晴ー」
半べそかきながら俺がついた嘘が本当では無いことを確かめに、ふらふらと二階に上がっていく。昔から酒を飲みすぎるきらいのあった母を、今でこそ運べるが、そんな腕力の無かった頃に起こして自らベッドに向かわせるために思いついた手段だ。さすがに発見した時は母の口から飛び出す暴言に腰を抜かしたが、今では慣れたものである。欠片も怖くない。
「夕君、お風呂どうぞー」
「早いですね」
危ねぇ、見られるところだった。
「いやあ、さすがに人の家で長風呂はねぇ……。あれ、伊東さんは?」
「どうにかベッドに向かいました」
そっかそっかとにこやかに笑う堀尾さんと母は、実は昔付き合ってたんじゃないかと俺は思っている。だってなぁ、仲良すぎるだろ。未だに二人だけで飲みに行くんだぜ? まあ、本人達に確かめたことはないが。
「じゃあ僕はソファをお借りして……」
「布団敷いときますんで、いっつも通り客間使ってください」
「……夕君年々しっかりしてくるよねぇ。伊東さんが『可愛くない』って愚痴るの、よく分かるよ」
「男がこの年になって可愛くてどうするんですか」
ああでも、堀尾さん四十八になるのによく母さんに可愛いって言われてたな。俺の比じゃなかった。
「うーん、何から何まで、すみません……」
「いいんですよ、いっつも迷惑かけてますから」
「そんなにたいしたことはしてないけどね」
一緒に客間へ行き、布団を敷く。やると言ってくれたが、堀尾さんは酔っ払いを連れ帰ってくれた大事な客だ、丁重に扱わねば。
「ありがとう。それじゃあ、夕君もお風呂入ってきなよ。学生さんはそろそろ寝なきゃね」
「はい。……あ、堀尾さん、一つだけいいですか?」
「ん?」
「母さんのチョコ、俺に一つください」
言っておくが、母の手作りが欲しいんじゃないぞ。むしろ、母の手作りだからこそ、毒見役がいる。その役目を負うのが俺、というだけだ。
俺がそんな使命を帯びているとは夢にも思っていないだろう堀尾さんが、微笑ましいものを見るような生暖かい笑みとともに、チョコを一つくれた。なんてことはない、普通のトリュフだが、これが口の中で爆弾になるかもしれないと思うと無駄に緊張してしまう。しかし身内以外に犠牲は出せない。俺がやるしかないのだ。
覚悟を決めて口に放り込む。来るなら来い、と思っていたが、広がったのは控えめな甘さとチョコの香り、そしてちょっとよく分からない何かの味。最後が気になったが、腹痛を引き起こしたりトラウマを植え付けたりするほどの破壊力は無いから、これならまともと呼んでいいだろう。
「美味しかった?」
「はい、まともに食べれました」
お分かりいただけるだろうか、噛み合っているようで噛み合っていないこの会話。堀尾さんは分からなかったようである。危うく爆弾を食べさせられるところだったかもしれないとは、永遠に知らないままだろう。
とにかく安全確認は終わった。これ以上互いの睡眠時間を削る必要は無い。未だ暖かい目で俺を見る堀尾さんに「おやすみなさい」と言って、風呂に向かおうとした時だった。
「えっ」
足がもつれ、次の瞬間には床に倒れ込んでいた。予想していなかったから、もろに鼻を打ち悶絶する。幸いにして鼻血は出なかったようだが、何が起きたのか分からなくて怖い。
「大丈夫!?」
「な、何とか……」
したたかに打ちつけた鼻以外無事だが、何で足なんかもつれたりしたんだろう。
「あれ、夕君、顔赤いよ? 風邪?」
「え、いや、そんなことは……」
寒がりなので、外に出る時はマフラーと手袋とコートは絶対身に着けるし、酷い時はニット帽、さらには耳あてまで着ける。周りから白い目で見られるほど防寒しているのに、そう簡単に風邪を引くとは思えない。
すると何かに気付いた様子の堀尾さんが母のくれたチョコを一つ口にし、すぐに顔を青ざめさせた。
「……お酒、めちゃくちゃ入ってる……」
ああ、最後の何かの味、酒だったのか。もちろん飲んだことは無いので、分からなかったみたいだ。
つまるところ、俺はそれで酔ったということだ。チョコに入ってる酒の量なんて、めちゃくちゃ入ってたとしてもたかがしれたものだろうに、これは将来酒は飲めないな。
危ないからということで、堀尾さんの肩を借り二階の部屋へと上がる。風呂は仕方ないので朝に入ることにした。
「すいません、俺まで迷惑かけちゃって……」
本当、とんでもない親子だ。
「いいよ。夕君普段いい子なんだから、少しくらい」
ぼすっとベッドに倒れ込んだ俺の頭に、何故か堀尾さんの手が乗せられた。
「堀尾さん?」
「ああ、気にしないで。撫でたくて撫でてるだけだから」
よく涼さんや慎さんには撫でられたり頭をわしゃわしゃされていた。でも親子ほど年の離れた人に撫でられたのなんて、いつ以来だろう。思いのほか気持ちのいいそれに、気付けば俺は眠ってしまっていた。
二月十五日、午後二時二十三分。
俺が目を覚ました時間だ。携帯の液晶画面を二度見と言わず四度見してから、いろいろなものを諦めた。今から電車に飛び乗ったとして、学校に着くのはどうやっても三時半を回ってからになる。風呂にも入っていないから外に出るのも憚られるし、今日はひきこもろう。幸いにして今日はバイトは無い。予備校の方は仕方ないから、宮代に頼るしかない。それにしても、どうして晴は起こしてくれなかったんだろうか。その代わりなのか何なのか、俺の額には何故か人肌に温もったタオルが乗せられていた。頭の痛みは昨日よりさらに酷くなっている。
制服を着たままだったのでとりあえず部屋着に着替え、洗濯物を持って下の階に降りる。そのままどことなくだるい体を引きずって、腹ごしらえをしようと居間に行くと、テーブルの上にはスポーツ飲料とメモがあった。メモには二通りの字が書きつけてある。まず一通り目。
『朝顔が赤かったから熱測ってみたら、三十八度一分あったわよ。あれだけ防寒してて風邪ひくとか馬鹿ねぇ。学校には連絡しといたから、しっかり休みなさい』
母である。毎回酔っぱらって人の御厄介になる軟体動物には言われたくねぇよと思ったが、かといって返す言葉が思いつかなかったのも事実だ。体がだるい理由がよく分かっただけ良しとしよう。結局昨日足がもつれたのは熱のせいなのか、やっぱり酒に酔ったからなのか答えが出ないままでスッキリしないが、酒が飲める年になってから試してみるしかない。
さて、二通り目である。女子中学生らしい、丸っこい字を読む。
『今日からお兄ちゃんの熱が下がるまで、全部お世話するからね。ご飯もお兄ちゃん食べにくいだろうから食べさせてあげる! 楽しみにしててね!!』
絶対自分で食べよう。この年で妹にあーんされるとか、なんて拷問だよ。
他にも甲斐甲斐しく世話を焼いてくるんだろう妹を可愛いと思う反面、怖いとも思うのはやっぱり晴が重度のブラコンなせいだと思う。もうちょっとこう、兄離れしてくれないだろうか。母離れはできてるのに。……されたらされたで寂しいから、無理強いはしないが。
家族からのメモに目を通し、自分の体調がよく分かったところで、同時に横のスポーツ飲料の意味も把握できた。ちょうど喉も渇いていたし、せっかくだからとそのペットボトルを持ったところで、その側面にあった、母のものでも妹のものでもない筆跡が目に入る。
『昨日はありがとう。いつもお疲れ様』
なんで母はこの人を選ばなかったんだろうなと思いながら、久しぶりの水分補給をした。
「はい、お兄ちゃん。あーん」
「自分で食べる」
「……、あーん!!」
「自分で食べるって」
意地でも食べさせたいらしい晴の手から、お粥の入った器とスプーンを奪い取り食べる。晴お手製の卵粥は、そこら辺のインスタントなんか足元にも及ばないほどおいしい。そう褒めてやると、へそを曲げていたのも少しはマシになったらしい。早々と食べ終えた俺の食器を持って下り、すぐに戻ってきたかと思うとその手にはコンビニでも買えるゼリーが二つ。
「どっち食べる?」
片方はみかん、片方は桃だ。兄妹揃って桃が好きだから、俺達のどちらかが風邪を引いた時は大体桃のゼリーを二つ買ってきて一緒に食べるのに、今日は気分じゃなかったんだろうか。遠慮なく俺が桃を選ぶと、晴は「やっぱりそうだよね」と呟き、みかんゼリーに手をつける。
「何、やっぱりって。というか珍しいな、桃じゃないのか?」
「これね、孝文君がくれたの。お兄ちゃんが風邪引いたって言ったらお見舞いにって」
「ああ、なるほど」
未だ続いている密着の中で好きな果物の話はしたことがない。しかし自分の好みを優先させたのは、事情を知らなかったとはいえちょっとまずかったか。
「晴、交換。まだ食べてないから風邪も移んないだろうし」
「え、いいの?」
「だってそれ、俺にくれたんだろ? 俺が食べなきゃ悪いじゃん」
俺の言い分にそれ以上何も言わず、数口食べられたみかんゼリーと桃ゼリーを交換する。そこまでは良かった、そこまでは。
「……あの、晴? 何でそんなに見てくんの?」
「え、見てないよ? ほら、そんなことより食べてって」
嘘つけ、俺の手元に視線刺さりまくってるぞ。たとえでもなんでもなく穴が開きそうなんだけど。
変態が何を望んでいるかは気付かないふりをして、一口食べる。横で嬉しい悲鳴を上げた妹のことは見なかったことにした。怖いし。
ついでに話題も変える。
「順調そうで何よりだな、お前ら」
兄の恋はそれ以前に友情にすらなってないというのに。ゼリーを差し入れてくれたということは今日もよろしくやっていたということだろう、ああ、腹が立つ。
「そうかなぁ。でも私はお兄ちゃんが一番だからね! 誤解しないでね!?」
「それはそれでどうなの」
普通彼氏との仲をからかわれたら、もうちょっと別の反応するんじゃないのか。必死に誤解されないようにするとか、時々本当にこいつら付き合ってんのかなって思うんだが。藤本君もこんなんよく相手にしてるよな。母といい晴といい、うちの女性陣は何かがおかしい。腹が立つが、破局させてやろうとまでは今のところ思わないのは、きっとこのせいだ。逆はどうなんだろうかと、出来心で聞いてみる。
「なあ、晴。俺に彼女できたらどう思う?」
「破局させる!」
「……せめて、せめて躊躇ってくれよ」
予想してたけどな。やっぱりちょっと兄離れしてほしい。
「じゃあ、母さんに再婚考えてるような相手がいたら?」
「分かんない。だって、私お父さんのこと全然覚えてないもん。お父さんがいなくてもいいかなって思うけど、やっぱりいた方がいいものなのかな?」
そういや、晴は父が出て行ったときまだ三歳だったのだ。ほとんど覚えてなくても仕方ない。昔は母さんのお姉さん、つまり俺達のおばさんがよく見合い話を持ってきては母があっさり蹴るか、晴が相手に懐かなくてダメになっていた。……そういや、おばさん最近何も言ってこないな。
「別にお兄ちゃんが気にしなくても、お母さんそういう人はちゃんと自分で見つけてくると思うよ?」
「さっさと見つけてくれりゃいいんだけどな。俺も安心するし」
あんな人でも、俺達を女手一つで育ててくれた母だ。早いとこ楽にさせてやりたい。そして悲しいかな、俺が就職するより手っ取り早いのは再婚することなのだ。
「でも、お母さんに気になる人っているのかな?」
「……堀尾さん、どう思う?」
俺の中では最有力候補と思っているのだが、同じ女として、母と堀尾さんがお似合いかどうか聞いてみる。
「堀尾さん? いい人だよねぇ。優しいし」
「だろ? 絶対あの人、母さんのこと好きだと思うんだけどな」
「お兄ちゃんの見立てがあってるかは知らないけど、堀尾さんがお父さんだったらいいなぁとは思うよ」
人見知りの晴にも認められてるんだから、やっぱり堀尾さんは本命中の本命だろう。俄然俺の中のお節介焼きがやる気を出す。
「なあ晴、あの二人、くっつけてみないか?」
* * *
二月末になってから作戦はようやく決行された。
「……えーと」
「何これ?」
戸惑う大人二人に俺と晴は顔を見合わせ笑う。いい具合に驚いてくれて、してやったりと思わずにはいられなかったからだ。晴がすっと胸の前で腕をクロスさせ、開会を宣言する。
「ファイッ!」
「違う、晴それ違う」
なぜかゴングを鳴らしてしまった妹に代わり、発案者である俺が説明することとなった。
「俺達主催の見合いだよ」
「お見合い?」
「そ、見合い。そろそろ考えてみてもいいと思うしさ、結婚」
「え、いや、ちょっと」
面白いくらいに狼狽える堀尾さんに対して、母は意外なほど冷静だった。
「あんた、こんなことしてる暇あったら勉強しなさいよ」
割と痛いところを突いてくるが、珍しくテンションが上がっている俺にはさほど効果が無い。
「やってるよ、心配しなくても大丈夫だって。それじゃ、ごゆっくり」
「あ、ちょっと!」
それ以上は何も答えず、二人で晴の部屋に向かう。行く末が気になって勉強にも身が入らないから、何らかの結果が出るまでトランプをして過ごすことになっているのだ。ババぬきではつまらないから、まずはジジぬきをする。
「うまくいくといいね」
「うん。そうすりゃ俺もちょっと楽になるし」
金銭面では妥協する気はないが、もし俺がいなくても母や晴を任せられる人がいるというのはやっぱり気が楽だ。それに晴の授業参観や学校行事に母さんが行けない場合、俺でなくても済むのだ。いや、行くのが嫌とかじゃないけど。小学生の頃から慎さんや宮代と遊んでいて、主に慎さんが窓ガラスを割ったりする場面に遭遇することが多かったから先生には徹底的にマークされていたので、ちょっと顔を出しづらいのだ。中学を卒業してもうすぐ丸二年になるが、当時の俺達を知る先生はまだまだいる。何より、俺たちが一年の頃からの担任の先生が未だ異動する気配を見せないどころか、現在晴の担任だったりするので、この一年間中学校に行く度「元気か?」とヘッドロックをかけられてちょっと困っていたりもする。
「でもお母さんちょっと乗り気じゃなかったね。何でだろ?」
「いきなりこんなことされたからじゃないか? ま、なるようになるだろ。あの二人ももういい年なんだし」
「……お兄ちゃん、おじさんくさい」
強烈な一撃とともに、晴があがった。
ジジぬきにも飽きて、七並べもそろそろマンネリ化し始めた頃、ようやく母が俺達を呼びに来た。見合いはうまくいっただろうかと変に緊張してしまう。
居間に入り、それぞれの定位置に座る。堀尾さんはかつて父の定位置だった場所に座っている。ここが堀尾さんの定位置へと変わるのか、母の表情からも堀尾さんの表情からも読み取れない。
「まず結論から言うけど、再婚は無し。この話はご破算よ」
「……え?」
うまく言葉が出てこない。何でそんなことになったんだろう。絶対にお似合いだろうし、俺達だって応援してることは俺達がこの席を整えたことからも分かるだろうに。
「訳分かんないって顔しないの。第一に再婚っていっても、まだあの人と離婚してないわよ」
「……十年も経ったんだし、もうどうにかできるんじゃねぇの?」
「知らないわよ。それにね、あの人と離婚してからじゃないと再婚なんてする気になれないの。ともくんにはそう言って待ってもらうことにしたわ」
堀尾さんを見ると、若干寂しそうに笑いながら、しかし頷いた。堀尾さんが納得していないなんてことではないらしい。それでも、俺が納得できない。
「でも、いつ帰って来るか分かんないじゃん。第一に帰ってくる保証ないし。堀尾さん可哀想だろ」
「いいのよ」
母が暗い笑みを浮かべた。
「私、帰ってきたあの人に離婚届突きつけるのが夢なの」
「……うわ」
「うわって何よ」
残念ながら、「うわ」以上の感想は思い浮かばない。納得いかなそうな顔をしながらも、母は続けた。
「それに、うちには小さいお父さんがあの日からいたんだもの。小さいお父さんが本当に誰かのお父さんになるまで、別にしなくたっていいのよ」
返す言葉がまた思いつかなくなった。堀尾さんが重ねて言う。
「僕がいなくても、この家には夕君がいれば大丈夫だって話になったんだよ。むしろ僕が入って行ったら邪魔になりそうなくらい、この家は今のままで十分幸せだと思うよ」
「はい、幸せです」
隣に座る晴が、俺の腕にしがみつく。
「堀尾さんがいても邪魔じゃないけど、今のままで十分」
「ほら、あんたがお節介なのよ、夕」
「……そりゃ、俺もそうかなとは思ったけど、ずけずけ言わなくてもいいじゃん……」
小さいお父さん、そう言われて面映ゆいのをごまかすように拗ねてみるが、母は一向に気にしない。
「ま、ちゃんと話す機会ができたのは良かったわ。そういうことだから、夕は大学、晴は高校にまず行ってちょうだいね」
「はーい」
解散、と母の号令でそれぞれ動き出す。といってももうすぐ夕飯になるので、堀尾さんも交えて食べる予定だ。今日は晴と、恐ろしいかな、母がやってくれるらしいので、男二人は座ったままだ。……晴がいるから大丈夫だとは思うが、ちょっと台所が気になる。
「夕君」
「はい?」
「ありがとうね。僕もすっきりしたよ」
「……やっぱり、母さんのこと好きなんですよね? あれで本当に良かったんですか」
「うん、いいんだよ」
いやにすっきりした顔だ。俺は三島さんに彼氏がいると聞いて、ああ幸せなんだなとは思えなかった。横恋慕なんてできないが、あわよくばという思いを捨てる気にもなれない。大人ってすごいなとしみじみ思う。
「無理せず頑張ってね、お父さん」
「……はい」
お父さんなんて柄じゃないが、少しは家族の役に立っているというのは、ちょっと嬉しかった。