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母と洗濯機と俺

 目の前で茶碗が割れた。


 正確には割られたその茶碗は、先程出て行った父のものだ。割った母はといえば、怒っているような泣いているような顔でその破片を見ている。

 茶碗は我が家における自分の居場所を示すものといっても過言ではない。この茶碗で食べて仕事や学校に行き、帰ってきたらこの茶碗で食べる。幼心にも、もう母が父の茶碗を買い替えることはしないだろうと思えた。この時をもって、父の居場所は永遠に失われたのだ。

 父の茶碗の欠片を見つめたまま動かない母の後ろを通り、自分の茶碗を取る。この前ヒビが入っているからということで買い替えたばかりのそれは、俺の成長に伴って前のものより一回り大きくなっている。せっかくだからと父と似た意匠のものを選んだ。父の好きな、黄緑色のラインが入った茶碗。

『夕は父さんみたいになりたいんだもんなー』

 そう言って俺の頭を撫でる父に、その時は嬉しくて笑って答えた。今は、全く笑えない。

(俺は父さんみたいになんかなりたくない。母さんや晴を捨てるような人には)

 口には出さず呟いてから、父の茶碗の破片の上に俺も茶碗を落とした。音を立てて割れた俺の茶碗は、父のものと混ざり合ってどれがどれだか分からなくなってしまった。それで良かったのだ。これは、父との思い出や憧れとの決別のためにやったことなんだから。

「……夕」

 ようやく母が声を出した。

「明日にでも、新しいの買いに行こうね」

「うん」

 隣の部屋で昼寝をしていた晴が、大きな音が二度も聞こえたからか、起きて泣いているのが聞こえた。


               * * *


 大きな音がして目が覚めた。枕元に置いてあった携帯を見ると午前五時四分。弁当のおかずは昨日のうちに大方作っているので、あと三十分は寝れる。今は謎の音より睡眠が大事だ。

 寝直そうと布団に潜る俺の部屋の扉が開いた。

「夕ー」

 昨日も夜遅くに帰ってきた母である。何だろうかと再び布団から顔を覗かせた俺と目が合うと、母は顔の前で手を合わせた。

「ごめん、また洗濯機壊しちゃった」

 またかよ。


 母であり、現在我が家の大黒柱である伊東由季は、息子の俺の目から見ても変わっている。何と言うか、欠けてはならないネジが数本抜けているのだ。そのため人が見ればどうしてそうなったと言いたくなるような失敗を時々しでかすのが、俺と晴の悩みの種でもある。

 さて、洗濯機だ。まず言っておくが、別に機械全般が扱えないわけではない。とりあえずパソコンは使える、使えないと仕事にならない。携帯だって、スマホの最新モデルを取扱説明書無しで使いこなし、未だガラケーを使う俺にしきりに勧めてくる。そしてここからが不思議なところなのだが、母はパソコンやスマホよりもよっぽど単純な食器乾燥機や洗濯機などが扱えないのだ。母曰く「だってあれだけコースがいっぱいあると、全部試してみたくなるじゃない!」だそうである。なんと鬱陶しいチャレンジ精神だろうか。その結果俺や晴が困るので、本当に止めて欲しい。

 半分寝ながら階段を下り、洗濯機のもとへ向かう。ば……どれだけ機械音痴の人でも使えるはずの洗濯機は、哀れ動かなくなっていた。きっと無茶ぶりを要求されたんだろう我が家の洗濯担当に手を合わせてから、母に聞いた。

「母さん、この洗濯機いつ買ったか覚えてる?」

 母は晴と瓜二つの顔で暫く視線を彷徨わせていたが、俺が何も言わないので渋々答えた。

「……三年前」

 そう、三年前だった。三年というのは、破壊神がいる我が家ではよく保った方だ。が。

「一般的に、三年じゃ洗濯機は壊れないんだよ。機能的には古いかもしれないけどな」

 俺としては苦言を呈したつもりだった。しかし最短四ヶ月で食器乾燥機を壊した事のある母は、なぜか胸を張った。

「それだけ夕と晴が大事に使ってるってことね! お母さん嬉しいわ!!」

「極地使用の機械音痴が何言ってんだ」

 更生の余地がない母には、今日は弁当を作らないことにした。


 我が家には大事な決めごとをする時家族会議を開く習慣がある。議題は今回のような大きい出費についてや俺の進学先、はたまた兄妹喧嘩がこじれた時の決着方法から遠足のおやつは何にしたら効率良く買えるかというところまで多岐にわたる。本日の議題はもちろん、洗濯機の買い替えについて。今日中に買ってしまわなければ、木曜日に壊れて今日土曜日に至るまでの洗濯物が山になっている。学校は休みだが予備校がある俺は、宮代に今度ノートを見せてもらうことにして会議を優先させた。事情を伝えたところ、今回は補償無しで手打ちとなったのがありがたい。互いの家を行き来しているうち、それぞれの家族についても把握してしまっているのは俺も宮代も同じだ。

 で、肝心の会議はというと、実は俺の意見は通らないことが多い。せいぜい兄妹喧嘩が議題の時に可能性が出てくるだけである。これは単に俺が軽んじられているとかいうことではない。ではどういうことか。まず議決権を持っているのは俺と母、そして晴の三人だ。その中で俺は、母と晴とは意見が食い違うことが多い。三人中二人が結託してしまったら、よっぽど俺の意見が説得力溢れるものでない限り彼我の差を覆せないのだ。そして一介の高校生如きにそれほどのディベート力は、無い。

 今日もご多分に漏れず、俺は劣勢に立たされていた。ちなみに俺の主張はこうだ。

「最長でも三年しか保たせないような家に最新式とか無駄だろ。もう中古でいいじゃん」

 これに晴が猛然と食って掛かる。

「ダメだよ、新しいのって洗ってる間も静かなんだよ? 毎日使うんだし静かな方がいいって! それに時代はエコだよ、省エネだよ! そういうのちゃんと選ばなきゃ」

「そーよそーよ!」

 合いの手を入れたのは母だった。それはもう、嬉々として晴の案に乗るので、見ていて腹立つ……のを通り越してげんなりする。

「洗濯機すらまともに扱えないくせに煽んなよ……」

「そう、そこだよお兄ちゃん!」

 何が引っ掛かったのか知らないが、晴が力説モードに入る。どうせ俺の意見をズタボロにするんだろう。悲しいかな慣れている俺は、勝手にやってくれと晴の言葉を待った。

「お母さんに使わせないことを、この際会議で決めちゃえばいいんだよ!」

 ところが出てきたのは、俺ではなく母を攻撃するものだった。

「え、晴? ひ、酷くない?」

「酷くないよ。お母さんが私達のために洗濯とかしてくれようとするのは嬉しいけど、私もお兄ちゃんももうパパッとできちゃうもん。お兄ちゃんなんて、今すぐ専業主夫になれちゃうくらいなんだよ?」

 なんか俺にも飛び火した気がしないでもないが、そこは一旦置いておこう。そんな些細な事よりも、今は思いがけない晴の提案に乗ってしまわねば。

「そうだよ母さん。いい加減洗濯機と食器乾燥機とは相性悪いんだって自覚して諦めてくれよ。そりゃ母さんが家事の手伝いしてくれたら助かるけどさ、この際はっきり言っとく。かえって仕事増えて面倒だから」

「ゆ、夕まで……これじゃどっちが親だか分からないじゃない!」

 自分でも言いながらちょっと思った。でも家事に関してだけ言えば、ほとんど俺達が母の世話をしているようなもんである。老後はばっちり任せておけとさえ言えそうだ。

「じゃあ一旦決を採ります! 今後お母さんに洗濯機と食器乾燥機は使わせない、賛成の人!」

 晴と俺が手を挙げる。

「反対の人!」

 母が意地でも手伝いたいらしく、手を挙げた。しかし二対一で負けたことは誰の目にも明らかだ。形式上反対票も聞いたに過ぎない。

「二対一で可決されました、今後お母さんは洗濯機と食器乾燥機に触るの禁止!」

「あと掃除機と電子レンジと炊飯器もな」

「むっ息子が抜け目ない、可愛くないっ……!」

 やっぱり触る気だったか、気付いて良かった。というか、十七になった息子に可愛いとか当てはまると思ったら大間違いだ。

「じゃあお兄ちゃん、これで中古にする理由無くなったね! 物持ちいいのにしようね!」

「……………………そーですね」

 さっき結託したはずの妹にさっそく裏切られた俺の気持ち、是非に察してほしい。


               * * *


 家族会議が終わり、さっそく洗濯機を買いに近くの電気屋に向かった。

「ふっふー、どんなのがいーかなー」

 華麗に一人勝ちを決めた晴はとにかく嬉しそうに並べられた洗濯機を見ている。その後を妹に裏切られた兄、さらには息子と娘にコテンパンにされた母が続く。

「お金出すの私なのに……息子と娘が下剋上してきた……」

「下剋上じゃねぇよ、当然の帰結だよ」

 もしかして母は、自分がお金出すんだから扱い悪くてもいいだろうとか思ってるんじゃないだろうか。だとしたら、金の亡者としてはさらなる説教を繰り出さなければならない。

「あ、お兄ちゃんこれどう?」

「うん?」

 晴が指したものはあれだけ力説していた省エネ機能も静かな音も備えているものだった。さすがに店で動かすわけにはいかないので実際どれだけ静かなのかは分からないが、やたら推していているので、まあ信用してもいいだろう。

「うう、何で私には相談してくれないのよぅ……」

「接触禁止になった人に相談してどうすんだよ」

「何よぅ、お母さんを頼りなさいよぅ!」

 十七の息子と十三の娘の前で堂々拗ねて駄々をこね始める齢四十五のおばさ……母。何でこの人、外ではキャリアウーマンとして通ってんだろう。本当に分からない。

「お母さん拗ねてないで店員さん呼んできてよ」

 「立っている者は親でも使え」を容赦なく実行する晴。大体家族会議でぼろ負けした奴が晴のこの主義の犠牲になる。今日は使われずに済んで良かったなと、現在進行形でこき使われている母を見ながら思った。

「あ、伊東さん、いつもご贔屓にしていただいてありがとうございます! 今日は何を壊したんですか?」

 五年前には名札に若葉マークをつけていた店員が失礼な物言いと共に現れた。何かを壊す度この店を利用するのはまだ父がうちにいた頃からのことなので、この店の店員達には「かなり高い頻度で高額商品を買って行ってくれる客」と認識されているらしい。そろそろ三十路に近付いてきたであろう若い店員の前によく案内してくれたおっちゃんは、俺達が来るとできる限り高いものを買わせようとして両親と笑顔で戦っていた。それがこの店員、桜庭さんになってからは笑顔の応酬の代わりにかなりあけすけな会話を交わすようになった。

「今日は洗濯機壊したんですよ」

 ちょくちょく電池やら電球やらを買いに来る俺は気安く話せる。晴は呼んできてと言った割に、人見知りを発動して俺の背中に隠れているし、母は話しても使わないんだから意味がない。

「あーそれはまた……いつやったの?」

 桜庭さんも俺に対しては結構フレンドリーに話してくれる。こないだなど、話し込みすぎて店長に怒られる羽目になってしまって、ちょっと恨まれた。

「今週の木曜日です。もー洗濯物溜まっちゃって……今日買って車に積んで帰ります」

「いやぁ、主夫も大変だねぇ」

 いつ誰が家庭に入りたいっつった。

 つっこんだところで桜庭さんは調子に乗るだろう、何も無かったことにして尋ねる。

「桜庭さん、これ静かさを推してますけど、そんなに静かなんですか?」

「うん、ここに並んでる中では断トツ。省エネ機能もついてて、今売れ筋だよ」

「……でも高いですね、安くなりません?」

 俺が値切り交渉に入ったからだろう、向こうもちょっと本腰を入れたようだった。

「さすが主夫は違うねぇ、予算どのくらい?」

「その前に主夫呼びは止めませんか。……七万前後って話になったんですけど」

 我慢できなくなった俺の抗議をはははと空々しい笑いでかわすと、桜庭さんが悩み始める。

「これなぁ……そこまで下げると店長に怒られそうだなぁ……」

 ちなみに元の値段は十二万三千円である。乾燥機能もついてるので、まあそんなもんか。

「何かついでに買ってくれるなら説得できるかもだけど」

「今うち、他にいるもんないんですよね……」

「えーじゃあ折れなよ、主夫だってたまには負けるって」

「その親指へし折られたいんですか」

 ぐっ、じゃねぇよ。いい笑顔で親指立てるな桜庭さん。

 ともあれ値段交渉は早くも行き詰まってしまった。

「晴、もうちょっと安い奴にしないか? さすがにこれは値切れきれないって」

「……やだ、これの色すっごく可愛いんだもん」

 俺は気にしてなかったが、薄ピンク色もあるらしい。晴が好きな色だ。本当によく見ている。

「同じ色の奴、他には?」

「無かった。お兄ちゃん頑張ってよ、主夫でしょ?」

 くっ、本気であだ名が主夫になりそうで怖い。

「あ、じゃあこの際だし、パソコン買い替えましょうか」

「……は?」

「だからパソコンよ、パソコン。うちの古いでしょ、ついでだから一番新しいやつ、買っちゃいましょ」

 本当にこの人は金が湯水の如く湧いてるとか思ってないか? とにかく、臨時会議である。

「母さん、何言ってんの? 結局赤字じゃねぇか。パソコン今のでも十分動くだろ」

「でも、確かに動きは悪いよね。こないだネット見てたらフリーズしちゃったし」

「いやいや、まだ動く、まだあいつは頑張れる。画像検索したり動画見なかったら大丈夫だ」

 要するに、文書作成ソフトとかだけ使えという話だ。これには女性陣からブーイングが上がった。

「ネット見る意味無いじゃん! お兄ちゃんだってエロいサイトとか見たくないの?」

「無いわ! 晴お前、どんな事考えてんだ!」

「あらあら、夕も男だものねぇ」

「乗るな!」

 言っとくが、本当に見てない。そういうのはせいぜい学校で友達が持ってきたやつを見せてもらうだけだ。俺はどちらかというとそういう欲は少ない方なんだと思う。……自分で言ってて恥ずかしいけどな!

「とにかく、夕も大学生になったらレポートとか書くのに使うでしょ? そういう時フリーズして書いたものぱぁになったら死にたくなるわよー」

「む……まあ、確かに」

「ね、レポートとあんたの性欲のためよ。買い換えましょ」

「一気に賛成する気無くなった。俺の事なんだと思ってんだ」

 本当にこの人は。今日はハンバーグのはずだったが、母のだけ小さくしといてやろう。

「はいじゃあ採決! パソコン買うのに賛成の人!」

 母と晴が手を挙げた。

「反対の人!」

 今度は俺が手を挙げる。

「はいじゃあパソコンも買い替え決定ー」

「……もう知らん、値切りも勝手にやれよ」

「もう、エロサイト見放題なんだから喜びなさいよ。夕は恥ずかしがり屋さんねー。あ、でも課金するのはダメよ?」

 だから見ないって。

 桜庭さんも俺達の会話を聞いてたからだろう、俺の耳元で囁いてくれる。

「……パソコンに履歴残らない方法、教えようか?」

「いらねぇよ」

 余計なお世話だ。


 本日の出費、しめて十七万八五九三円。当初の目的であった洗濯機は七万まで値下げしてもらったが、母の思い付きによりパソコンの買い替えをしたためこの値段になった。せめてノートパソコンにしておけばいいものを、デスクトップパソコンにこだわるので、俺と母で口論になり結局俺が負けたのだ。鼻歌交じりに運転する母にはちょっとイライラさせられる。

「もー夕ってば自分の思った事を通せないなんて、やっぱりまだまだ子供ね! 可愛いわー」

「……言ってろ」

 どうやら機嫌は直ったようだ。代わりに俺の機嫌が急降下したが、母は気遣おうなんて欠片も思ってない。

「お兄ちゃん、元気出して」

 晴に励まされるが、朝の会議での裏切りを俺は忘れちゃあいないからな。

「ま、今日はそのまま落ち込んでなさい。私の手料理でご機嫌にさせてあげるから!」

「お母さん、絶対しないで」

「え、晴、また? またなの?」

 何でか知らんが、ざまぁみろ。

 少しスッキリとした俺の腕に晴の腕が絡む。

「今日は私の料理でお兄ちゃんを喜ばせてあげるの! ね、お兄ちゃん?」

「……いや、俺自分でやった方がストレス発散になるんだけど……」

 母のハンバーグも小さくしてやりたいし。

「ダメ、今日は私! ついでにね、バレンタインが近いからお菓子作ってあげる!」

 お菓子というのにはちょっと揺らいだ。晴が作るお菓子に外れは無い。本人もお菓子作りは好きなようで、なかなか凝ったものを作ってくれるから俺も見ていて楽しい。しかも、重度のブラコンだけあって俺の好みは完全に把握している。

「じゃ、今日は晴に任せる」

「うん、おいしいの作るからね!」

 俺の腕に頬擦りをせんばかりに喜ぶ。ちょうど赤信号に引っかかったところで、母が後部座席に座る俺達にじっとりとした視線を送ってくる。

「……二人とも、禁断の愛とか育まないでよ? お母さん困るから」

「いらん心配すんな」

 つっこみ疲れたわ、何なの今日。


               * * *


 目の前には大量のクッキーがある。凝ったもので、ココア味、抹茶味、チョコチップを混ぜたもの、もちろんプレーンだってある。本日の我が家のおやつだ。

「どう? おいしい?」

「うん、おいしい」

「晴って本当お菓子作り得意ねぇ。誰に似たのかしら、ね?」

 顔に「私よね? 私でしょ?」と書いて俺を見た母に、抹茶の風味を堪能した後答えてやる。

「母さんじゃないのは確か」

 お菓子作りの得意な晴があえてクッキーを作ったのは、俺がケーキにトラウマを持っているからだ。小さい頃のことなんて今ほど鮮明に覚えてるわけじゃないが、これだけは忘れもしない、俺の四歳の誕生日のこと。聞いたところによると毎年作ってくれたというバースデーケーキの砂糖と塩を、母はよりにもよってこの日に間違えたのだ。想像できるだろうか、おいしそうなケーキを一口食べた途端広がる、えげつないほどの塩味。即吐き出して父にしがみつき大泣きしたところまで、俺はばっちり覚えている。最近塩味のスイーツとか言ってるが、俺はあれもあまり好きじゃない。全ての原因は母のこの悪魔の所業にある。

 俺にトラウマを植え付けたことは母もちゃんと覚えているようで、若干気まずそうに、しかしふてくされる。

「……あんた、まだ根に持ってるわね」

「当たり前じゃん」

 ちなみに克服したいとは思っているので、たびたび試してはいる。最近ようやくタルトを食べれるようになった程度なので、ケーキを食べれるようになるのがいつかは自分でも分からないが。

「それより晴、これ全部食べちゃっていいのか?」

 話しながらも着々と食べ進めたために、結構減ってしまった。火曜日がバレンタインになるが、クッキーだしちゃんと保存すればそれまで保つ。月曜日にわざわざ作り直すのは面倒だろう。晴にだって渡す友達とかいるはずだ。……不本意ながら、藤本君も。

「うん、いいよ。もうちゃんと取り分けてあるから」

「……やっぱり晴は母さんに似たんじゃないな」

 この要領の良さ、母が俺達に見せたことは一度もない。

「ねぇねぇお兄ちゃん、癒された? 機嫌直った?」

「ああ、直った。ありがとな」

 ぽんぽんと頭を撫でてやってから、ジト目の母に釘を刺す。

「禁断の愛とか無いからな」

「ああそうね、晴には彼氏いるもんね。枯れ果てて可愛くない夕君とは違うもんね」

「……晴、母さんに藤本君の事言ったの?」

「うん、付き合い始めた時に言ったよ。お兄ちゃんにはびっくりするかなって思って言わなかったけど」

 俺にだけ内緒にされてたわけである。ちょっと寂しいような。

「夕、あんたはそういう女の子いないわけ?」

「……いないよ」

 ちくっと、記憶が刺激される。

『別に好きじゃねぇよ、あんな暗い奴!』

 ありがちな言葉で傷つけてしまった、かつて好きだった女の子。今も同じ学校、同じクラスにいて、噂では俺と同じ国立大の理学部を目指している彼女とは、一緒にやっていた図書委員の仕事を終えてからはほとんど口もきいていない。いつの日か、せめて仲直りだけでもと思い続けて、もうすぐ丸三年になる。なんだかんだ順調な晴達が時折恨めしい。

「本当に枯れてるわねぇ。仕事ばっかりでいつの間にかお嫁さんもらい忘れてた、なんてことにならないようにしなさいよー」

「それ、母さんにも言えると思うんだけど」

 いつか再婚するんだろうかと思っていたが、今のところ男の影すら見えない。人見知りする晴さえ大丈夫なら、俺は別にしてくれてもいいのだが。

「いないわねぇ」

 再婚を考えているとか、興味無いだとか、そういう言葉は出てこなかった。

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