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変態と喧嘩と俺

 月曜日はバイトも予備校の授業も入れないことにしている。土日の間に学校の補習や予備校の授業、バイトをこなしてからのこの一日だけは休みにして、食料を買い込み作り置きをするためだ。晴にも小学生の頃から家事の手伝いはしてもらっていたので任せてもいいのだが、やっぱり俺の方が慣れているから、俺がやった方が早い。四年という時間は、人生のほんの一部といった感じだが、高校生と中学生の目から見れば大きな差になる。一週間のうち一日だけではあるが早く帰れるこの日は、休みが終わったという感覚さえなければ一番好きな日だったりする。のだが。

「……おいこら、何してる中学生」

 家に帰りついて早々、買い物袋を落としそうになった。卵もあったのでどうにか堪えたが、二つあったうち一つの話だ。もう一つ、傷むものの入っていない袋は落とした。自由になった左手で、なぜかうちの居間にいた藤本君の襟首をひっつかみ、晴から引き離す。

「今の状況、言い逃れできないよな? 今から警察行くか、藤本君」

 どういう状況かというと、藤本君が晴を押し倒していたのだ。おしゃれというものを覚えたからか、少し短くしている晴の制服のスカートはきわどいところまでまくれ上がっていた。

「お、落ち着いてください先輩! 違うんです!!」

「何が? 中一の分際で盛んのはどんだけ幼かろうが男なんだからこの際いいんだけどさぁ、誰が妹に手ェ出していいっつった? そもそも、誰がお前に妹やるっつったよ? 俺が許したのは俺への密着だけだ。晴に物理的に密着していいなんて言った覚え無いぞ」

 自分でも驚くほど、すらすらと言葉が出てきた。変態だが妹だ、守るべき大事な家族だ。しかも俺よりずっと弱い存在だ。それが、いくら付き合っているとはいえ、まだ中学生なのに疵物にされかかっていたと考えただけで、怒りが収まらない。引っぺがすために襟元を掴んだ左手と、今は床に置いた、帰ってきたときには買い物袋を持ったままだった右手とで藤本君の胸倉を掴み、たった今まで晴にしようとしていたことの罪の重さを強い言葉で突きつけてやる。

 床に倒れていた晴が、いつの間にか体を起こし俺の腕に手を置いた。

「お兄ちゃん、待って。孝文君は悪くないの」

 襲われそうになっていたというのに、驚くほど晴の声は冷静だった。

「何言ってんの」

 もし仮に同意の上だったと言われても、一発くらい殴らないと気が済まないくらいだ。

 晴はそんな俺の顔を見て、場違いな笑顔を浮かべた。

「お兄ちゃんがどれだけ私の事思ってくれるか、孝文君に見てもらいたくて。だから、これは演技なの」

「演技……?」

 まだ胸倉を掴んだままだった藤本君が、必死に何度も頷いた。演技、演技……。

「ね、孝文君、言った通りだったでしょう? お兄ちゃんが私の事一番考えてくれるんだよ。孝文君、こんな風になれる?」

「僕だって一番に考えてるよ!」

 中学生の会話がひどく遠いものに感じた。何だこれ?

「お兄ちゃん、ごめんね、騙しちゃって」

 騙したっていう自覚はあるのか。それなら許してやろう……。

「……許すか、この馬鹿」

「え?」

 いつも晴はいたずらをしてはこんな風に軽く謝る。四つも年上の俺が譲歩すべきなのは昔から分かっていたことだから、いつだってこれで許してやっていた。ああ、これも自由奔放に育ってしまった原因かとようやく思い至った。

「藤本君、とりあえず、さっさと帰れ」

「は、はい。すみませんでした!」

 お辞儀と返事だけは褒めてやっていい。だが、それにどれだけの思いを込めているかは、こないだ知り合ったばかりの俺には分からない。分からないから、それを軽いものだと受け止めることだってできてしまう。そしてそんな全然知らない中学生の謝罪よりも、よくよく知っている妹の軽い謝罪が、この上なく腹立たしい。

 藤本君が帰ったので、まずは買ってきた食材を冷蔵庫に詰めた。冬なのでそんな簡単に傷むことはないが、出しっ放しにしておいていいということはない。

「お兄ちゃん」

 ここに至ってやっと俺の機嫌が悪いことに気付いたのか、晴の声に少し不安が混じっている。全てを片づけてから、俺は晴に向き直った。

「今日は外で食べる。いつも通り買い物は済ませてきたから、好きなもん作って食べて寝てろ」

「何で? 一緒に食べようよ、私が作るから」

「嫌だ」

 俺の手を引っ張る晴を振りほどいて、買い物袋と一緒に床に置いていた鞄を取った。一旦二階の俺の部屋に入って明日の授業の教科書と替えの下着を持って家を出る。宮代に電話を掛けると、少々時間はかかったが電話に出てくれた。宮代も今日は予備校に行かないので、きっと家だろう。

『何か用か?』

「悪い、今日お前んち泊めてくれ。飯は他で食べてくるから気にしないでいいし」

『いいぜ。ていうかちょっと待ってろ』

 宮代がどこかへ移動し、会話をするのが聞こえた。声からして宮代のお母さんだろうか。

『伊東、もう飯食べた?』

「いや、まだだけど」

『じゃ、そのままうちに来い。母さん作りすぎちゃったらしくて、食べてってくれって』

 こんな形で無駄遣いはしたくなかったから、宮代の申し出はありがたい。お言葉に甘えることにして、宮代の家に向かった。


               * * *


「どこで育て方間違ったかなぁ」

 本来なら父親が言うものだとは分かっていたが、ついつい口から漏れた。宮代のお母さんのご飯を頂いて風呂まで貸してもらって、あとは寝るだけというところになってようやく俺の気持ちも落ち着いてきた。落ち着いたには落ち着いたが、完全に腹の虫が収まったわけでもない。宮代に簡単に事情を説明してから、膝を抱え愚痴る。

「男が如何に馬鹿かってのは教えたつもりだったんだけどな……よりにもよって、襲われてるように見せかけて、俺がどんだけ晴を心配してるか見せつけるとかなんなんだよ、男舐めすぎだろ。本当にあの馬鹿は……」

「晴ちゃん、可愛くなったもんなぁ、おばさんに似ておっとり美人というか……。晴ちゃんは冗談のつもりでも、男からすりゃ据え膳食らわされてる気になるわな。藤本君ってそういうあたりイメージできないけど、お兄ちゃんからすりゃ誰だって狼だよなぁ」

 俺だって伊東だって狼だしなと、宮代が余計な言葉も交えた相槌を打ってくれる。普段は軽くて呆れることも多い奴だが、なんだかんだこうやってちゃんと話を聞いてくれるのはありがたい。

「でもさ、そんなことしなくても今のままだったら、お前は晴ちゃんと藤本君の仲引き裂きに行ってたと思うぜ?」

「はぁ? 何で」

「だって藤本君、まだまだ親に甘えてお小遣いもらってるような年じゃん? しかもそれを当たり前の事と思ってるタイプ。伊東とは金銭感覚違いすぎて、心配になりそうだけど」

 ……確かに、高校に行くにも予備校に行くにも電車を使っていると言ったのに、お小遣いをもらっているから大丈夫だと言ってきたのにはちょっとイラッとした。俺は稼ぐのが母しかいなくなってからお小遣いはほとんどもらわず、じいちゃんばあちゃんからのお年玉だけで一年乗り切っていたのに、恵まれてるやつはと思ったのも確かだ。今はまだ中学生だからいいが、高校生でバイトもせずそんな事を言っていたら、さすがにいい気はしなかっただろう。

「お前、よく見てんな」

「ふっふっふ、宮代様はなんでもお見通しなのだ。ちなみにクラスの女子のスリーサイズも何となく分かる。褒めるがよいぞ!」

「褒める代わりに警察に通報するのと、明日お前のクラスで大々的に発表すんの、どっちがいい?」

「調子に乗って悪かった」

 全然悪かったと思ってない顔で宮代が謝罪した。今日見た中でもっとも気持ちが籠っていない謝罪だったが、何となく笑えたので許してやる。

「別に俺、晴ちゃんと藤本君がどうなろうと知ったこっちゃないけどさ、とりあえず仲直りできるといいな、お兄ちゃん?」

「……おう」

 仲直りが先か、説教が先か。どちらにせよ、明日は帰って話さなければとようやく思えたところで、今日はもう寝ることになった。


 晴は携帯を持っていない。宮代の事は晴も昔から知っているが、あれで結構人見知りする奴なので、宮代についてはお兄ちゃんの友達程度の認識しかないから宮代の家へ訪ねてくることも無かった。家の電話から俺の携帯へかけてくるかと思ったが、鳴ったのは結局母からの一本だけだった。晴と喧嘩をして宮代の家に泊まることにしたから、早く帰ってやってほしいという俺のメールを見たらしい。宮代に愚痴り始める前にかかってきた。

『夕もやっぱりまだまだ子供ねぇ、安心したわ』

 最後にそう言って切れた。母は俺と顔を合わす度「子供らしくない」「もっと甘えてもいいのよ」と言ってくるので、何年ぶりかの兄妹喧嘩で俺がキレたことが嬉しかったようだった。対する俺は面白くない。早く大人になって家を支えるのだ、母に育ててもらった恩返しに楽をさせてやりたいし、晴の学費も出してやって、自立できるようにしてやるのだと思い続けてきたのを否定されているようで、どうにも納得がいかないのだ。反抗期はとうの昔に終わったものだと思っていたが、母の言う通り、俺もまだまだ子供なのかもしれない。

 とにかく、翌日は制服のまま宮代の家に泊まり込んでいたので、そのまま家に帰る事無く学校に行った。もちろん晴とも藤本君とも顔は合わせていない。一晩経ってようやく完全に機嫌が直った俺も気まずかったのでありがたかったが、かえってどう謝ろうかと困る羽目になった。しかも今日はバイトがあるので帰るのは遅くなる。無駄に考える時間が多い。

 うちの高校は放課後まで携帯使用禁止なので、昼休みに友人連中に見張りを頼んで家に留守電を入れた。こうなったらもう電話ではなく直接謝りたかったので、携帯没収のリスクを犯してでも、晴にできれば俺が帰るまで起きていてくれと早く伝えたかったのである。単にブラコンで俺が好きで好きで仕方ないから言うことを何でも聞く、という奴でもないので、メッセージを聞いて待っていてくれるかは正直神のみぞ知るところ、というやつだ。

「やべ、先生見えた。伊東!」

「……悪い、終わった。先生は?」

「どっか行った。大丈夫だ」

 しかし留守電だけといえど念には念を入れて教師対策をしておかないと、バイトの疲れからたまにうとうとしていたり、成績はいいがお調子者な宮代とつるんでいるからか、先生方からの覚えはそんなにめでたくない。どちらかというとちょっと目をつけられている気もしないでもないくらいだ。しかも俺のクラスの担任、ぷーさんこと土屋亮治先生はいい先生なのだが、俺の国立理学部への志望動機「理系出身だったら金稼げそうな職に就けそうだから」という言葉を聞いて、「人生舐めんな!」とその時持っていた出席簿で頭に一撃入れてくるような人である。携帯を使っているところを見られようものなら、放課後小一時間、ぷーさんと聞いてイメージする柔和な顔とは程遠い鬼のような顔を眺めながらの説教コースに突入するだろう。もともとが大学を出ても就職できず、しばらくプーだったところを今の奥さんに拾ってもらいそこから再起したような人なんだから、俺の志望動機にとやかく言えた義理ではないはずなのだが、辿ってきた道から考えた心からの忠告でもあるのだろう。何となく憎めない担任に、これ以上ご厄介になるのも気が引ける。

 電話を済ますと、俺の周りを囲っていた友人三人が一斉に「庇ってやっただろ」「奢れよ」と言ってきたので自販機に向かう。

「ジュースだけかよ、飯は?」

「うるさい、ハイエナ共。電話一本のためにお前ら全員の飯奢ってやる程俺は金持ちじゃねぇの」

 ちなみに普段の俺の昼飯は自作の弁当と家で沸かしたお茶を水筒に詰めてきたもの、これだけだ。もちろん、家に帰らなかった今日は購買なので、高くついている。なので絶対飯までは奢らない。

「バイトしてるくせにー」

「ありゃ、大学の学費だよ。親は出してくれるっつってるけど、自分で全額払うつもりだしな」

 一応負担を減らすため、奨学金は継続して借りるつもりではあるが、特待生も狙っている。入学金だけでもタダになれば、それだけで結構変わるものだ。これを言ったら、やっぱりぷーさんに「じゃあ勉強しろ、バイトは減らせ!」と至極真っ当な説教を食らったので、バイトだけは少々シフトを減らしてもらった。週六だったのが今では週四である。給料明細をもらう度、シフトを増やしてもらいたくなるのが辛いが、大学に受かってから増やそうと、今は必死に我慢しているのでその分無駄にできない。そんな俺からすれば、ジュース三人分も結構な無駄なのだ。

「お前、彼女できなさそうだなー」

 一人がぼそっと、俺が奢ってやったコーラを飲みながら失礼な事をほざいたので、お返しに言ってやった。

「お前、ぷーさんそっくりだな」

 ちなみにぷーさんの外見は筋骨隆々ないかついゴリラ、もといおっさんだ。「やめろよぉぉ、こないだそれで女の子にフラれたんだよぉぉぉ」と悲鳴を上げた友人を笑いながら、教室に戻った。


 今日は学校近くのコンビニで四時間程バイトすることになっている。帰るのは日付が変わる少し前くらいになるか。

「先輩、兄妹喧嘩ってどう謝ったらいいですかね?」

 客足が途切れ暇になったので、雑用ついでに話を振ってみた。相手は大学三年の男の先輩で、弟がいるらしいが、よく喧嘩になると言っていた。

「何、喧嘩したの? 珍しいじゃん、シスコンブラコン兄妹が」

「俺、別にシスコンじゃないんですけど」

「……どの口が言ってんだ腹立つわー」

 一息に文句を言いきってから、先輩が答えてくれる。

「なるようになるんじゃね?」

「ええ?」

「何となくで喧嘩なんて終わってるもんだよ。うちの馬鹿弟なんて、二日もしたらしれっと『兄貴勉強教えて』って言ってくるしな。普通の兄弟でそうなんだから、伊東の妹なら今日には泣きついてくるだろ」

「いや……そこまで特殊みたいな言い方されても……」

 確かに度を越えた変態だけども。先輩にもその話したけども。

 第一に、あんな怒り方をした俺に、一日で泣きついてきてくれるもんだろうか。最悪、俺の方が泣きつく羽目になったらどうしようかと心配になる。妹に嫌われたままで辛いと思うのは、あのブラコンよりもきっと俺の方だ。

「いーや、特殊だね」

 先輩は断言した後、ニッと笑う。

「特殊な奴らは特殊な仲直りの仕方、って感じするけどな、俺は」

「はぁ」

 いや、普通の仲直りがしたいだけなんだけど。

 しかし客が来たので、それ以上は抗議のしようが無かった。


               * * *


 結局、どう謝ったらいいのか妙案が思いつかないままに帰ってきてしまった。自転車を庭に置き、そのまま悩む。明かりがついているので、晴は起きている。帰って何も話さないわけにはいかないだろう。

「悪かった、とか? いやいや、普通すぎるよな、うん。でも普通でいいのか……?」

 ちなみに現在零時二分。庭なので覗かない限り俺の姿は道路からは見えないが、もし見えていたら通報されるだろう。不審者以外の何者でもない。見えないのをいいことに、俺の悩みは続く。

「説教はしたくねぇしな……でもやりそうだなぁ」

 昨日母が早く帰ってくれたのだから、きっと説教もあっただろう。俺も怒られるべきところはあるんだろうが、大元の原因は晴だ。……そもそも、この考え方が自分の失敗から目を逸らしているといえば、そうなんだろうが。

 悶々と悩んでいると、さらに不安になってくる。これが元でブラコンでなくなるだけで済めばいいが、完全に嫌われたらどうしようか、とか。帰りてぇと呟きかけて、慌てて飲み込んだ。帰る家に入るのにこれだけ迷ってるのに、何を言ってるんだろうか、俺は。

「……あーもう。なるようになるよな、うん」

 先輩もそう言った。宮代もこれはよく言っている。うちのアホ兄貴、俺を蹴り飛ばしといて一時間後には俺に菓子勧めてくるんだぜ、とか。宮代の兄さん程単純な性格をしてるつもりはないが、俺達だって何とかなる。まずはごめんと一言言おうと、扉を開けた。

「……」

 家に帰ると、玄関で妹が土下座してました。どんな鬼畜兄貴だ、俺は。

「は、晴? お前何してんの? 何かに目覚めちゃったの?」

 謝る事なんて頭から吹っ飛ぶくらい動揺している。本当に何かに目覚めてたらどうしようかと焦る俺に、晴が何事かを呟いた。

「え、何?」

「……ごべんなざいぃぃぃ~」

 『ごめんなさい』と言いたかったらしいが、何が原因なのか、ものすごく聞き取りづらい。

「いいからとりあえず、顔上げろ。居間の方行こうぜ」

 靴すら脱がず妹に動揺し続けるのは、ちょっと辛い。俺の言葉に晴は首を振ると、しかし顔は上げてくれた。

「ごべんなざいおにいぢゃぁぁん」

 大号泣だった。正直バイトの疲れからぼんやりしかけていた頭が、一気に冴えた。

「泣くな! ていうか、いつから泣いてた!?」

「ずっとぉぉ、お母さんに怒られてからずっとだよぉぉ」

 全然分からなかったが、結構長いこと泣いていたらしい。一体母はどんな説教をしたのか。

「あんたが悪いって、自分を大事にしない妹なんてお兄ちゃんも嫌いになるってぇぇぇ! 嫌いにならないでぇぇぇ」

 わーわーとさらに声を上げて泣く。隣の家のばあちゃんに迷惑をかけていないか心配になる程の音量だ。

「だから泣くなって! 俺も悪かったから、嫌いになんてならないから落ち着けっ」

「本当に、本当に嫌いにならないっ!?」

「ならないから泣き止め! ばあちゃん起こしちゃったらどうすんだよ、迷惑だろ!?」

 ハンカチを出してやると思いっきり鼻をかまれた。洗うから別にいいけどな、いいけど、俺に突っ返すことなく洗濯機に直行してもらいたい。

 どうにか泣き止もうという気になったらしくぐずぐず言い始めた晴の頭を撫でてやりながら、居間に連れて行く。適当に牛乳をコップに注ぎ、晴にも差し出す。

「……で、改めて聞くけど、いつから泣いてた?」

「昨日の、夜、から」

 長いな、おい。

「お前、泣きながら学校行ったの?」

「うん」

 我が妹ながら、妙なところで真面目である。ずっと泣いていたせいで瞼が腫れぼったい。そんな姿で学校に行くなんて、女の子なら嫌がりそうなものだが。ちょっと待つように言って、タオルを冷やして持ってきた。目に当てておいたら、今更ではあるが少しはマシになるだろう。

「周りになんか言われなかったか?」

「言われた……でもそんなの、どうでもいいもん。お兄ちゃんに嫌われる方が、怖いもん」

「藤本君は」

「ずっとごめんねって、謝られた。でも、お母さんの言う通りだと思う、私が悪かったの」

 そこでまた悲しくなったのか、再びしゃくりあげる。

「いいから、泣くな」

「だってぇぇぇ」

「悪いって分かってんなら、怒らないよ。俺も大人げなかったしな」

 十七歳で大人げないなんて言えるほど、俺も大人ではない。大人ではないが、せめてこの妹の前では大人でありたい。昨日の怒り方は、どう見ても大人ではなかった。……晴が男の本能をちゃんと理解してなかったのが一番の原因だが、中一女子に理解を求めても難しいだろう。やっぱり譲歩すべきは俺だ。

「晴、お前は馬鹿じゃないから分かってるだろうけど、自分を大事にしろよ。そうじゃなきゃ、周りにも大切にしてもらえないぞ」

「うん……お兄ちゃん、私の事嫌いにならない?」

「ならない、だから安心しろ」

「うん!」

 思っていたほど穏やかには仲直りできなかったが、終わり良ければ全て良しだ。

「よし、じゃあ寝るか。俺風呂入って来るから、さっさと寝なさい」

「私も入ってないの。お兄ちゃん、一緒に入ろ」

 今なんつった。

「昔みたいに洗いっこしよ」

「……」

 この後三十分ほど、あれほどしたくないと思っていた説教をし、次の日電車を一本遅らせることになった。


 余談だが、藤本君は同じ週の金曜日に現れた。相変わらず朝早いのにちゃんと制服を着て、初めて会った時と同じように綺麗に九十度頭を下げる。

「本当に、すみませんでした」

「……いや、俺も悪かった。それに、一番の元凶は結局うちの妹だしな」

 少しだけ、藤本君が頭を上げ窺うように俺を見た。

「……晴ちゃんと別れろとか、言わないんですか?」

「言わないよ。それは俺が簡単に口出していい話じゃないしな」

 だけど、と付け加える。

「もし晴を泣かしたりしたら、殴ったりはするからな?」

「絶対にしません」

「よし」

 金銭感覚の違いなんかは、二人が高校生になってからちょっとだけ口出しするかもしれない。だがまあ、今俺が言えるのはこのくらいだろう。

「先輩、僕、先輩に密着し続けていいですか?」

「いいけど、結局参考になってんの?」

「はい、まだどんな風になったらいいのか分からないですけど、考えたんです。先輩よりもいい男になって、晴ちゃんが先輩に見向きもしなくなればいいんじゃないかって」

「……言うようになったなぁ、藤本君」

 うちの妹なんぞよりずっと大人かもしれない後輩の肩を少し小突いてから、俺は学校に向かった。

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