8.餌付け
――はむ。
効果音をつけるとするなら、そんな音。
頭の隅っこ、冷静な部分でそんなことを考えながら、わたしは固まっていた。
……シチューを食べてみるか? とは聞いた、たしかに。
そして、シチューをすくったお玉を掲げてみせたのも事実だ。
だけどまさか、そのお玉に直接食いついてくるとは予想外だった。
このお玉もう鍋につっこめないでしょうがどうすんの、とか、お行儀ってもんを習わなかったの、とか、言いたいことはいろいろあるがひとまずおいて。
「……どう?」
ユリエスが食いついているお玉を掲げたまま、わたしは、今一番気になることを聞いてみる。
お玉に食いついたまま、ぱちり、とユリエスが瞬いた。
……正確にはばさり、か。なんとも睫毛の長いこと。
「……食べたことない味」
相も変わらず淡々とした、けれど、今はほんの少しだけ驚きを滲ませたような声音で言って、ユリエスの口がお玉から離れる。それでようやくわたしも硬直から解け、お玉を掲げていた腕をおろすことができた。……なんか突っぱってるんだけど。
ところで。
「食べたことない味って、それは気に入ったの気に入らなかっ」
たの、とわたしが続けるより早く、ユリエスの白い手が伸びてきて、わたしの手からお玉を攫っていった。
そして今さっき自分が食いついたそれを、躊躇なくまたシチュー鍋の中に沈める。
「あ、こら」
「好き」
シチューをたっぷりすくったお玉を口いっぱいに含んだ状態で、器用にもユリエスは言う。その言葉を聞いて思わずわたしは、咎めようとしていたのをやめてしまった。
基本わたしは、わたしの勝手気ままな創作料理を好きだと受けいれてくれる生き物には甘いのだ。
「……ありがと」
でもね。
おお、主さまが。
ユリエスさまが食事をなさったぞ!
そんなふうにざわめいている背後へ、わたしは振り返る。
「……モアレムさん、お皿はありますか? できれば深めの」
せっかく気に入ったんならちゃんと食べておくれよ。お玉に食いつくのは「食事をなさった」とは言わない。わたしは認めない。
「――本当に、ありがとうございます」
はむはむはむはむ。
まったく表情を動かさないまま、ユリエスは木の匙で、同じく木の深皿にたっぷりよそったシチューをどんどん消化している。焦茶の木製らしい円卓にはほかにも、緑色唐辛子の肉詰めや、海老みたいな味がする赤い木の実・コルンのパイ包みもどきなど、わたしが作ってここまで持ってきた料理が所狭しと並べられている。
そんな主を横目に見ながら、モアレムがわたしに深々と頭を下げた。
「いいえ。こちらこそ、わたしの料理が気に入ってもらえてよかったです」
「私も、しちゅうを一匙、ご持参いただいた料理を一口ずついただきましたが、いずれもこれまで食したことのない、美味なものでした。リツヤ殿はすばらしい料理人であられる」
「……そんなことはありません」
こうまで褒められると、なんだか後ろめたい。わたしの勝手気ままな創作料理には、たいがい元ネタがあるから。今回作ったシチューなんかもまさにそれだ。日本という遠い遠い場所にあるその元ネタを、この世界の人たちが知るはずもないし、知るすべもないけれど。
「ご謙遜を。――こちらは、お約束のお礼です。お納めください」
そんな言葉と一緒にモアレムから差し出された青い布袋は、大きさこそわたしの拳ひとつ分ほどだったけれど、
「どうぞ、お確かめください」
言われて、そっと袋の口を縛っていた紐を解いたわたしは絶句した。
きらきらと、エメラルドのように輝くこれは、
「翠貨……!?」
この世界のお金は四種類ある。
白貨、青貨、紅貨、そして翠貨だ。
大きさ、厚さは四種類ともだいたい同じ。日本の五百円玉を三枚重ねたくらい。
ただし価値はおおいに異なり、白貨五百枚と青貨一枚が同等、青貨十枚と紅貨一枚が同等、紅貨五枚と翠貨一枚が同等である。たぶん白貨が、日本の一円と同じようなものだとわたしは見ている。
そこから単純にかけ算すると、翠貨は一枚で二万五千円の価値があるわけだ。その翠貨が、渡された布袋には十枚入っていた。
合計、二十五万円也。
「いくらなんでも多すぎです」
わたしが今回持参した料理の材料費は、せいぜい青貨六枚、三千円分ほどだ。出張費と合わせたって、ぼったくりもいいところだろう。
「いいえ、どうかお納めください」
返そうとしたわたしを押しとどめて、モアレムがいう。
「無理ですよ、翠貨一枚でも十分すぎるくらいです」
「欲のない方だ。しかし」
きらり、と、モアレムの目が光った気がした。
「――危険料、ということで、納めてはいただけませんか」
じわじわとお気に入り登録が増えている。
本当にありがとうございます。