1.ひげもじゃ熊の嘆願
「戸口でわめくんじゃないよナキ。きみは借金取りかなにかかい」
あと食堂へは汗を流してからおいでと言ったろ、とつけくわえれば、戸口に仁王立ちした髭面の大男――そのくせ黒目がちの瞳だけはやたらうるうるとつぶらである――は、しゅんと、見ているほうが窮屈なくらい肩を縮めた。
「も、申しわけない」
……小山のような巨体で強面なのに小動物を連想させられるって、この男くらいじゃないだろうか。
わたしは息を吐いた。
「……まあ、いいけどね。――入ってくれば? 今ならほかにお客もいないから、食堂にあるまじき汗くささ泥くささも大目に見てあげる」
むさ苦しい男ではあるが、嫌いではない。基本わたしは、わたしの勝手気ままな創作料理をおいしいと受けいれてくれた生き物は好きなのだ。この髭面男もそのひとりだった。
だけれどそんなわたしの申し出に、髭面男――ナキははっとしたように顔を上げ、ぶんぶかと首を振った。汗らしきしずくが、もじゃもじゃの髪からまわりに散る。
「きみねえ――」
「お申し出はありがたいが、今回自分はそれより大切なお願いがあって来たのですリツヤ殿!」
「はあ?」
「我が屋敷のご主人のため、出前をしていただきたい!」
「……は?」
――それから約半時間かけて、ナキが訴えたところによると。
ナキが門番として仕えている屋敷のご主人さまは、前々から趣味に没頭するあまり、食事をおろそかにする傾向があったらしい。
おろそかもおろそか、一日三食きちんと出されているにもかかわらず、あやうく餓死しかけたこともあったとか。ナキは、主は好奇心を刺激されたこと以外にはとことん無関心・無頓着な方ですから、とフォローしていたが、わたしに言わせればたんなる自業自得である。
そのご主人さまが、最近また趣味に熱中しすぎて餓死寸前の状態になっているらしい。屋敷の者が躍起になって食べさせようとしても、一口受けつければいいほうだとか。
子どもか、というのが、わたしの正直な感想だったのだが。
「そこで自分は思ったのです、リツヤ殿の料理ならば、主も興味を示されて、食べてくださるのではないかと! なにしろリツヤ殿の料理は、このあたりでは見かけない、めずらしく美味なものばかりですから!」
「……ありがとう」
拳を握り熱弁してくれるナキに、とりあえず礼を言う。
「そう、屋敷の使用人頭殿にも申しあげたところ、ぜひリツヤ殿に料理を持ってきていただくようにとのことでした。どうか、リツヤ殿!」
ずずいと、ナキが一気に距離を詰めてくる。暑い暑い。
「むろんお代は割り増しでお支払いすると、使用人頭殿が言っておられました。屋敷までは自分が責任もって、送り迎えをさせていただきます。どうか、お願いいたします! 自分が感動したリツヤ殿の料理を、主にも食べていただきたいのです!」
ナキの褒め言葉はいつだって大げさだけれど、嬉しい。ふだんのわたしならもうこの時点で、ほいほいと出前を引き受けていただろう。
だけど、
「……それって、わたしもお屋敷に行かないとだめ? ここで料理を作って、料理だけをきみに、お屋敷まで運んでもらうんじゃだめなの?」
今回、わたしは渋った。
「いえ、その……」
ナキの勢いが、目に見えて落ちた。
「……使用人頭殿が、作った者の顔の見えない料理を主に出すわけにはいかないと」
わたしは溜息をついた。
その溜息をどう解釈したのか――まあなんとなく予想はつくが――、ナキが両手を振りまわす。
「ち、違うのです! 自分はリツヤ殿を信頼しています! 使用人頭殿も、リツヤ殿を疑っておられるわけではありません、しかし、」
「わかってるよ、主なんていわれてる人の口に入るものに、その部下が気を尖らすのは道理だ」
だから、調理した者も連れてこい、と。使用人頭とやらの言い分は理解できる。
理解はできるけれど、気が向かない。
だって、ナキが仕えるお屋敷については、よろしくない噂がたくさん飛びかっているのだ。
この町の、隣の隣の都はずれにあるという、ナキが仕えるお屋敷。
その屋敷の中には毒蛇がうようよしているとか、食用の巨大蛙が這いまわっているとか、死人が歩きまわっているとか、人骨が散らばっているとか。屋敷の窓という窓は黒い布で閉ざされていて、なにか公にはできないことをしているのだろうとか、ときおり屋敷の中から爆発音や金切り声が聞こえるとか、幼い女の子が屋敷の中に引きずりこまれていったとか、エトセトラ、エトセトラ。
噂というものはおもしろおかしく伝わるものではあるけれど、それにしたって、そんな話のあるお屋敷に、進んで行きたいとは思えない。
だからわたしは躊躇した、のだけれど。
「お願いいたします! リツヤ殿の料理はめずらしくそして絶品、必ずや主もお気に召すはずです!」
……そんなつぶらな瞳で見つめないでおくれよ、ナキ。