13.防衛線を突破せよ
「……一応聞くけど、まさかこれが」
ほんの数分ほど前、ラミナが言ったのとほぼ同じ台詞を、今度はわたしが口にしていた。
そのラミナが肩をすくめる。
「死人防衛線、だ」
「ですよねー、やっぱり……」
暗い廊下を、ゾンビがうろついている。
まごうことなきゾンビである。まじまじ見たくはないから、最初にばっちり見てしまって以降できるだけ視界に入れないように微妙に焦点をはずしているけど、ゾンビである。言い換えるなら腐った死体。それが、ざっと十体ほど。ずる、ずるり、足を引きずるようにして、暗い廊下を行ったり来たりしている。
ただ、ゾンビだ、と悟った瞬間わたしが連想したような腐臭は、鼻をひくひくさせても感じなかった。かわりに、濃い薬品の臭いが満ちている。こちらもなかなか強い臭いだけれど、わたしが今手にしているお盆の料理たちに、腐臭がつくよりはましだ。……いや、薬品の臭いがする料理を出すのも個人的にはかなり嫌なんだけれども。
というわけで、この廊下の臭いが料理についてしまう前に、そしてなにより当初の目的通り、料理が冷め切ってしまう前に、このお盆をあの巨大蛙のところまで運ばなくてはならない。そのためならゾンビがなんだ、と、自分で自分に言い聞かせて、ゾンビ集団の向こう、暗い廊下の奥に目を凝らす。暗がりのそこには小さく扉が見えていて、その前に、なにやら小山のような影がうずくまっていた。
きっとあの扉が、巨大蛙の部屋なんだろうけど……なにあの小山。まさか扉を守る巨大ゾンビとか言わないよね。
視界の端にゆらゆらちらつくゾンビたちとは毛色の違うその小山の正体を見極めようと、さらに目を凝らしたとき、
「ラミナ、なぜリツヤ殿をつれてきた!」
焦ったような声といっしょに、杖が床板を叩く音が響いた。
廊下の暗がりに白いお髭がよく映える、モアレムさんだった。
そうだ、ゾンビに気を取られてそこまで意識が回っていなかったけど、モアレムさんもいたんだった。たしかナキを介して巨大蛙の説得中で――と、いうことはもしかして。
わたしが小山の正体に思い至ったのと同時、ゾンビ集団の向こうで、小山ががばりと起きあがった。
「リツヤ殿。リツヤ殿がいらっしゃったのですかっ?」
「……ナキ」
廊下の奥には光がなく、暗いシルエットしかわからないけれど、この期待に満ちた声はまちがいない。きっと、体格とも髭面とも不釣り合いな、黒目がちのうるうるつぶらな瞳で、こっちを見ているんだろう。
お盆で両手が塞がっているため手を振ることもできないので、わたしは声を張り上げた。
「お邪魔してるよ」
「は、はい! ……いや、リツヤ殿、なぜここに?」
「鮭に呼ばれたの」
「……サケ?」
「あ、まちがえた、ラミナに」
「どういうまちがえかただ」
わたしの手前にいるラミナが突っ込みを入れてくるが、とりあえず流させていただく。
「そうでしたか。リツヤ殿に来ていただけたこと、たいへん心強くありがたいです! ……が、さすがにリツヤ殿にも、そこの死人たちを掻いくぐってここまでいらっしゃるのは難しいかと」
「うん、難しいどころか、できるなら一刻も早くこの廊下を離れたいよ。……だけど、絶賛絶食中の蛙が――あんたたちが食事をしてほしいって願ってる主さまが、その扉の向こうにいるんでしょ」
ナキにも見えるように、料理ののったお盆を上げる。
「その蛙に食べさせるために、これを作ったんだから。冷める前に届けたいの」
「しかし……」
「ナキはこの死人防衛線とやらを抜けられるんでしょ。ちょっと取りに来て」
「は」
ナキが、その手があったか、みたいにぽかんとしている。顔は見えないけど、空気で伝わってきた。なんとなく、こっちのラミナとモアレムさんまでぽかんとしている気がするんだけど、最初からその手しかなくない?
「わ、わかりました! すぐに参ります!」
「焦らなくて」
いいから、と言おうとしたはずだった。
わたしの言葉が終わるより早く、ナキは、通行線上のゾンビを撥ねとばしながら怒濤の勢いでこっちへ走ってきた。先日森を抜けたときの、新幹線もかくやという、あの勢いで。
――え、まさか、ナキだけが死人防衛線を抜けられるって、こういうこと?
唖然としているうちにナキがわたしの前にやってきて、料理ののったお盆ごと、ひょいとわたしを待ち上げた。まるで小さい子どものように、ナキの肩の上に腰かける格好になる。……って。
「ちょ、ナキ」
「では参りますリツヤ殿! 主さまあぁ、リツヤ殿が来てくださいましたぞ!」
ナキ、扉に向かって驀進。再び撥ねとばされてきりきり舞いするゾンビ、ゾンビ、ゾンビ。あ、一体壁にぶち当たった。
この勢いなのにお盆の上のピンクシチューは、びたんびたんと波打ちこそすれ、ぎりぎりのところでこぼれない。わあすっごーい、と、わたしは遠い目になった。
……現実逃避と言わば言え。精神衛生上、逃避もときに必要である。