10.不吉はジャムの匂いにまぎれて
穏やかな朝だ。掃除のあとに開けはなった窓から、涼しい、いい風が入ってきている。まだ早い時間だから、窓の外の通りは静かだ。朝方の白々とした光に、夜明け前から起きて磨きぬいた店の床が、つやつやと輝きを放っている。
まだ町の人々が起き出す前の、この静かな時間は、わたしのお気に入りだった。
静まりかえった食堂には、ほんの小さな音だけが響いている。
くつくつ、くつくつ。
――悪巧みの笑い声ではない。火にかけた大きなお鍋の中で、真っ赤なジャムが煮える音である。
焦げつかないように、時折、木べらで底からかき混ぜる。寸胴鍋の背が高いので踏み台にのって混ぜなくてはならないのだけれど、それもまた楽しい。
赤い宝石みたいなこのジャムができあがったら、木の実をぎっしりねりこんで焼いた硬めのパンにたっぷりのせて食べるのだ。そのときパンにはあらかじめ、バタークリームもどきを塗っておくとなおいい。
バタークリームもどき、というのは、アボカドによく似たヴェルルという果実の、大きな種を覆っている、クリーム色の部分のことだ。これが、ほんのり塩味の濃厚なミルクキャンディのようで、火であぶるととろりとろけて、バタークリームみたいな風味になる。それをパンにかけて、さらにその上からこの、真っ赤な宝石のようなジャムをのせると、立派な朝食のできあがり。ぎっしり木の実の香ばしさと、ともすればぱさぱさしがちなパン生地にじんわりしみこむバタークリームもどきのまろやかさと、真っ赤なジャムの爽やかな甘酸っぱさが絶妙なハーモニーを奏でて、今日も一日がんばるかという気分にさせてくれる。
惜しむらくは、我が城であるこの食堂、〈アメイロタマネギ〉は朝は営業していないから、お客さんに朝食として出すことはできないってことくらい。だけどばっちりわたしと爺さまの朝食になるので、問題はない。
ふふふーん、と、無意識のうちに鼻歌がこぼれる。
ジャムを煮つめているときの甘い匂いは、もうこれだけで幸せになれると思う。がんばってお掃除した食堂内はぴかぴかだし、風はとても澄んでいるし、朝の清浄な日ざしはきらきら。ここが楽園だ。すばらしい。
だけどそんな贅沢な時間は、あっさりと終わりを告げた。
――からこん。
こんな時間に鳴るはずのない、ドアベルが鳴った。それも、えらく軽やかに。「開けてはならない扉を開けてしまった心持ちがする」と悪名高いこの鐘を、こんなにも瀟洒に鳴らせたお客はこれまでにない。だれだか知らないけどずいぶん器用な、と、ジャムの大鍋から顔をあげたことを、わたしは即座に後悔した。
「よお、久しぶり」
開かれた扉の向こう、気軽な調子で片手をあげてそうのたまったのは、
「……いらっしゃいませ。四日ぶりですか」
巨大蛙のお屋敷にいた、サーモンピンク頭のいけ好かない男。
鮭だった。
「そう据わった目で見んなよ」
わたしの贅沢な朝をドアベルひとつで破壊した鮭――たしかラミナとかいう名で呼ばれていた――は、からからと笑いながら食堂に入ってきた。
前に見たときのような白衣は着ていないけれど、やたら目を引くサーモンピンクの髪に左目のモノクル、このすかした態度はまちがいなくあのときの鮭だ。残念ながら。
とりあえずわたしは、止まっていた木べらの動きを再開させた。いやな予感がひしひしとするけれど、これでジャムまで焦げつかせてしまったら、これ以上の不幸はない。
鍋の中の赤い宝石に視線を落としたまま、わたしは口を開いた。
「なんのご用ですか」
お客に対する態度じゃないけど問題はないはずだ。だって、
「食堂は昼からですよ」
というか、町中探したって、この時間に営業している店なんてないだろう。なにせさっきやっと日が昇ったような時間帯なのだ。
そんな非常識な時間に訪ねてきた鮭は、
「ああ、それそれ」
どこか彼の主人を思い出させるしぐさで首をかしげて、口を開いた。
「また来てくんね?」
「嫌です」
「端的に言うとだな」
「いや、だから嫌ですって」
「主さまが引きこもった」
「は? ……あ」
しまった。
相手にしないつもりだったのに、思わず顔をあげてしまったわたしの視線をとらえて、鮭がにやり、と笑った。
窓の外はさっきよりも明るくなって、通りにはぽつぽつと人の気配が出てきている。
とりあえずジャムは無事に完成した。そしてわたしは今、磨きあげた円卓で、鮭と向かい合っている。わたしと鮭の目の前には、白いカップがひとつずつ。カップの中身は、今しがたわたしが淹れた、花びらのお茶だ。透明な薄紅色のこのお茶はほんのり柑橘系の風味があって、朝のすっきりとした目覚めにいい。
力を入れて掃除しあげた食堂ではじめて迎えるお客がこの鮭だっていうのは、なんともあれな感じだけれど、まあ、今さら言ってもしかたがない。……それに、ジャムができあがるまでおとなしく待っていてくれたことに関しては、少しだけ感謝していたりもするので。
白いカップを細長い指で優雅に傾けて、鮭が口を開いた。
「――飲まねえ食わねえでもう四日だ。さすがに死ぬんじゃないかと」
だれが、という主語がなかったが問題はない。引きこもったという主さまが、に決まっている。ちょうどお茶を含んだところだったわたしは、思わず顔をしかめた。……決して、お茶がまずかったからではない。
「引きずりだしなさいよ。死ぬんじゃないかと、とか冷静に推測してる場合じゃないでしょ。どこに引きこもったのか知らないけど」
「そう、問題はそこだ。シビトボウエイセンの向こうの部屋に引きこもりやがったからな、だれも近づけねえ」
「……は」
シビトボウエイセン。
それは、もしかしなくても、死人防衛線、と変換するんだろうか。なんともまあ、朝の清らかな空気にも、お茶の席にも似つかわしくない単語である。
渋い顔をしたわたしの前で、鮭はカップを持ったまま、くい、と首を傾けた。
「つーわけで、おびきだしてくんねえ? また食事作って、その匂いでさ」
嫌です、とわたしが言うよりも、鮭が次の言葉を重ねるほうが早かった。
「あんたが来てくんないと本気で餓死か渇き死にになると思うんだけどうちの主さま。見殺しにする?」
「って、どうしてわたしのせいみたいになってるのよ!」
思わず、叩きつけるようにカップを置いてしまった。
「そもそもなんで引きこもったのよ。まさかそれまでわたしのせいだとか言うつもりじゃないでしょうね」
「いや、ある意味じゃあんたのせいってか、あんたのおかげっていうか」
「はあ?」
鮭が、その空色の瞳に、苦笑めいた色を浮かべた。
「あんた、うちの主さまに食事させたろ」
「それは、そっちがそう頼んできたんじゃない」
「その通り、それはいいんだ。そこまではよかった。――ただ、あのあと主さまが、食べ過ぎた、ってえらく沈んでな。そんで引きこもったわけ」
「わけわかんない」
食べ過ぎた、って沈んで引きこもるってなんだ。食べ過ぎたならむしろ運動なりなんなりすればいいんじゃないのか。……絶食はしているみたいだけれども。
「――でもそれだったら、またわたしが行って食事させたところで、結局同じことの繰り返しになるんじゃないの。いや、なるわよまちがいなく。ってわけで、そっちの自力でなんとかしてください。以上」
そう話を切り上げて、空になったカップを洗おうと流しへ向かったわたしの背中に、
「ナキが」
思わず足を止め振り返ったわたしの視線の先で、鮭が口角をつりあげた。
「さっきの言葉はひとつ訂正だ。死人防衛線の向こうの部屋に、主さま以外に、ナキだけは近づける。あいつは今も必死こいて、巨大蛙のナリした主さまを説得してるよ。――『ああ、またリツヤ殿に来ていただくことができれば……!』って言ってたぜ?」
「……っ」
わたしの脳裏に、小山のような巨体を縮こめて、しょぼくれているナキの姿がありありと浮かぶ。
左目のモノクルをきらりと光らせて、悪い顔で、鮭は笑った。