1. 俺に勝てたら何でもやる
「俺に勝てたら何でもやる。金でも剣でも、竜の牙でもな」
春祭りの広場。焼き菓子の甘い匂いの中を、太鼓の音が跳ねている。石畳に張った縄の輪が、俺の持ち場だ。挑戦料は銅貨一枚。箱に落ちたぶんは全部、丘の上の孤児院へ行く。俺もあの院で育った。
十年、負けなし。竜殴りのドゥーガル、四十三。額に張りついた、白の混じった赤茶の髪を掻き上げる。
最前列の子が俺を見て泣き出した。一度折れて曲がった鼻。左の頬には竜の爪痕が三本、髭まで生えている。子どもは皆、この顔で泣く。手を上げかけて、下ろす。泣き声には慣れた。慣れたことにしている。
祭りの世話役が銅貨の箱を抱え直し、鍛冶屋の若い衆を呼んだ。
「ドゥーガルさん、次の挑戦者だ! 今年こそ負かしてやるってよ。院の子どもたちも見てるぞ! この箱が重くなれば、あの子たちの夕飯も増えるんだからな!」
俺は縄の内から手を上げる。
「任せろ。銅貨は箱へ入れとけ。勝ったら好きなもんを持ってけ。腕でも押し合いでも、種目はお前が選べ!」
若い衆が腕をまくり、輪の中の台に肘をついた。俺の手を両側から眺め、唾を飲み込む。
「腕相撲だ! この手で毎日、鉄を叩いてるんだぜ。太さじゃ負けても、力じゃ負けねえ。竜を殴った拳だろうが、台につけてやる!」
「ようし! GO!」
一気に握った手首を台に叩きつける。盛り上がった肩を寄せ、へたり込んだ若い衆を片手で持ち上げた。俺の拳は子どもの頭ほどある。下ろすほうが、よほど気を使う。
落ちた帽子を拾い、若い衆の頭に載せてやる。ずれた分を直すと、また広場が笑った。毎年、ここまでが俺の仕事だ。
群衆を割って、後ろで束ねた金の髪が揺れた。ザカリアスだ。縄をくぐる細身の長身に、銀の軽鎧が日を弾く。腰には細い剣。見物の娘たちが声を上げる。
整った顔の片頬だけで笑い、若造が俺を指した。五年、顔を合わせるたびに挑んでくる男だ。
「九十九回目です、先輩。今日こそ、その看板をいただきますよ」
剣には触れず、ザカリアスが足で縄の位置を確かめる。台をどける世話役へ、顎を上げて種目を告げた。
「押し出しです。腕だけの勝負は飽きました。ここなら体さばきがものを言いますからね。町で一番の席、そろそろ僕に空けていただきましょう」
「おう、取ってみな。看板が欲しけりゃ、俺を縄から出すだけだ。遠慮はいらねえぞ!」
「よし! もらったぁ!」
肩と腰へ、若造の手が伸びる――。
「ほれっ!」
踏み込んできた襟首を摘まみ、一歩で縄の外へ置いた。銀の軽鎧が鳴る。世話役が腕を振り、広場じゅうに声を張る。
「勝負あり! 縄の内はドゥーガルさん、外はザカリアスだ! さっきの帽子を拾うほうが長かったぞ!」
群衆の笑いが大きくなった。差し出した俺の手を、若造は青い目で睨む。開いた掌が、ぴしゃりと払われる。
「施しは結構ですよ、先輩。僕はまだ、自分の足で立てます! 見世物は終わりです!」
手を引っ込めた。世話役が輪の外を見渡す。台を戻しかけた手も止め、声を張り上げる。
「ほかに挑む者は? 腕相撲でも押し出しでもいいぞ! 勝てば賞品は一つ、好きなものだ! 遠慮せずに出てこい!」
人の足のあいだから、黄色い花を握った女の子が出てきた。蜂蜜色の髪は耳の上で二つ結び。古い紐の端が、歩くたびに跳ねる。
俺の膝ほどの背丈で、細い足を踏ん張って見上げてくる。院の子どもの列から、亜麻色の三つ編みを揺らしてモーナが駆け出した。下がり眉を寄せ、袖をまくった腕を伸ばす。
「フィフィ! 列から離れては駄目ですよ。ドゥーガルさんのお仕事の邪魔をしないでくださいね。ほら、私のところへ戻っていらっしゃい」
女の子は振り向かない。小さな手が突き出され、土のついた花が俺の前で揺れた。
「モーナせんせい、まってて。フィフィ、じゃまじゃないもん。これ、ちょうせんりょう。おかね、ないけど、おはなならあるもん」
受け取ると、茎がまだ温かい。上着の胸の物入れへ、潰さねえように差した。黄色い頭が髭の下で揺れる。モーナが左頬にえくぼを浮かべる。フィフィは花から俺へ目を戻す。
「かったら、なんでもくれる?」
「おう。好きな勝負で来い」
「じゃあ、にらめっこ」
広場が沸いた。縄の外にいるザカリアスが、俺の顔を指して片頬を上げる。
「先輩の顔で泣かない子どもは、この町にいませんよ。お嬢ちゃん、花まで渡して泣くことになりますね。お花を返してもらうなら、今のうちですよ」
フィフィは振り向き、縄の外へ唇を突き出した。
「なかないもん。べつに、こわくないもん。フィフィ、もういつつだもん。おにいさん、うるさい」
俺は頭を掻き、娘へ向き直る。
「……泣いたら、すぐやめるぞ。だが、嬢ちゃんだからって負けちゃやらねえ。こっちも本気だ」
「フィフィも、ほんきだもん。おじさん、まけてもないちゃだめだよ」
「泣かねえよ! 俺の髭を見ろ、髭を!」
「ひげがあると、なかないの?」
「……髭は関係ねえ。よし、来い! この顔を笑わせられるもんなら、笑わせてみな!」
フィフィは両手を腰に当て、小さい鼻を上に向ける。
「はじめ! おじさん、ちゃんとこっちみて。フィフィがあいてだよ」
腰を落とし、琥珀色の目を精一杯剥いた。竜にもこうやって睨みを利かせる。口を結ぶ。曲がった鼻まで力を込める。娘は泣かない。
若草色の目がまっすぐ俺を見返す。十年、俺の顔をまっすぐ見返した子どもはいなかった。鼻も頬も、隠しちゃいねえのに。喉の奥が妙に詰まる。拳を握るより、顔を保つほうがきつい。
丸い頬がふくらんだ。目が鼻へ寄る。抜けた前歯の隙間からチョロッと舌が出る。小さな鼻まで持ち上がる。歯を食いしばる。こいつは――ぶはっ。
笑ったのは、俺のほうだった。
「きゃははは! わらった! おじさんの、まけ!」
十年で初めての一敗目だ。腹の底から笑って、止まらねえ。いつ以来か思い出せねえ。世話役の腕が、上がりかけで止まる。
「しょ、勝負あり……。フィフィの勝ちだ! おい、みんな聞いたか? ドゥーガルさんが負けたぞ!」
フィフィが背伸びをして、俺の鼻を指さした。
「おじさん、おかお、まっか。わらうと、こわくないね。もっとわらって。フィフィ、へんなかお、じょうずでしょ?」
笑いが縄の内へ押し寄せる。頭を掻き、腰の銅貨袋を叩いた。フィフィへ掌を開く。
「で、何が欲しい? 銅貨か? 飴か? 剣は……嬢ちゃんには重すぎるな。まあ、約束だ。好きなのを一つ選べ」
「じゃあ、おとうさんになって」
広場が静まり返る。モーナが栗色の目を見開き、口を押さえた。俺の掌が、開いたまま止まる。
小さい顔を前に、「俺で、いいのか」が訊けない。さっきまで笑っていた口が、動かねえ。花の茎だけが上着に触れている。縄の外から、ザカリアスが鼻で笑う。
「冒険者に親なんて務まりませんよ、先輩。明日死ぬ商売なんですから」
嘘じゃねえ。出ていって戻らなかった顔なら、俺も知っている。フィフィが俺の袖を摘まんだ。
「おじさん、しぬの?」
袖を摘まむ指が、かすかに震えている。小さい指に合わせて腕を下げた。握り返すには、俺の手は大きすぎる。
「……死なねえように、する。そこは軽く言えねえ。だが、嬢ちゃんに渡す賞品だ。投げ出したりはしねえよ」
「やくそく。フィフィと、やくそく。おじさん、おはなも、もっててね。しおれても、ぽいってしちゃだめだよ」
縄の輪の真ん中で片膝をついた。袖を掴む手も、一緒に下がる。目の高さが揃う。膝の下の石畳は、祭りの日差しを溜めて温い。黄色い花が娘の鼻先で揺れる。俺はその目を見て、口を開く。
「参った。何でもやると言ったのは、俺だ」




