第1話 アスファルトに溶ける硝子の靴
第1話 アスファルトに溶ける硝子の靴
七月。東京。
午前九時だというのに、空気はもう煮えていた。
高層ビル群の谷間に熱気が滞留し、道路脇の温度表示は四十五・二度を示している。蝉の声すら途切れがちで、代わりに大型冷却ファンの低い駆動音が街全体を震わせていた。
帝都環境開発、本社ビル屋上。
乾ききった芝生が、ぱりぱりと音を立てて砕ける。
「……だから言ったんです。保水層を増やさないと、根が焼けるって」
カレン・アルフォードは汗を拭いながら、小さく言った。
返事の代わりに返ってきたのは、嘲笑だった。
「はぁ? また植物の気持ちとか言い出すの?」
九条レイナがサングラスを外し、呆れたように肩をすくめる。白いスーツは一切汗染みひとつなく、甘い香水の香りだけが熱気の中で異様に浮いていた。
「この屋上緑化、国のモデル事業なの。根性論じゃ困るのよねぇ」
周囲の社員たちがくすくす笑う。
カレンは唇を噛んだ。
根性論じゃない。土が死んでいるのだ。人工芝の下に敷かれた薄い培養材では、この熱に耐えられない。昨夜も必死で報告書を書いた。散水量を増やし、通気構造を変えるべきだと。
けれど、誰も読まなかった。
「でもさぁ、植物適性しかない人って楽でいいよね」
レイナが芝生をヒールで踏み潰しながら笑う。
「失敗しても、“自然が悪いです”で済むんだもん」
「……」
「ほんと、森林環境税一〇〇〇円分も働かない無能」
どっと笑いが起きた。
カレンの胸が、じわりと熱くなる。
違う。
熱いのは空気だ。
なのに、息が苦しい。
社員たちの視線が刺さる。汗が首筋を伝う。逃げたいのに、足だけが動かない。
その時だった。
ぱきり、と乾いた音が響く。
屋上緑化エリアの中央で、一本だけ残っていた若木が、真っ二つに裂けた。
「あっ……!」
茶色く変色した葉が、一斉に散る。
沈黙。
レイナがゆっくり振り返った。
「終わったわね」
その声は冷たかった。
「責任者、カレンだったよね?」
「ですが、私は……!」
「言い訳するの?」
レイナは足元のクーラーボックスからミネラルウォーターを一本取り出した。
次の瞬間。
ばしゃっ、と冷水がカレンの顔に叩きつけられた。
周囲が息を呑む。
冷たいはずの水は、熱風にさらされた肌の上で一瞬でぬるくなった。
髪が張り付き、シャツが透ける。
「見苦しい。ほんと土臭い」
レイナは笑った。
「あなた、環境事業に向いてないのよ。雑草でも育ててれば?」
また笑い声。
誰も止めない。
カレンは俯いた。
悔しい。
涙が出そうなのに、乾ききった空気のせいで、目だけが痛かった。
遠くで救急ドローンのサイレンが鳴っている。
また熱中症だ。
今日だけで何人運ばれたのだろう。
東京はもう、人間の住む場所じゃない。
「今日付で環境維持部から外れて。辞令は後で送るから」
レイナは興味を失ったように背を向けた。
「目障りなのよ、あなた」
その一言で、何かが切れた気がした。
カレンは黙ったままエレベーターに乗り、誰とも目を合わせず一階へ降りた。
自動ドアが開いた瞬間、暴力のような熱気が全身を殴る。
「っ……」
息が焼ける。
アスファルトが陽炎で揺れていた。
靴底越しにまで熱が伝わる。まるで巨大な鉄板の上を歩いているようだった。
通行人たちは皆、冷却マスクをつけ、うつむきながら歩いている。街路樹は半分以上が枯れ、枝だけになっていた。
カレンはふらつきながら歩道橋の影へ向かった。
けれど、その影ですら熱い。
頭がぼうっとする。
水……。
そう思った時だった。
――かわいそう。
声が聞こえた。
カレンは顔を上げる。
誰もいない。
熱で幻聴でも聞こえたのかと思った。
けれど。
――この子、泣いてる。
――暑かったでしょう。
――人間はもう、風の呼び方を忘れてしまったのね。
ざわ、と街路樹が揺れた。
風なんて吹いていない。
なのに、枯れかけた並木だけが、彼女へ身を寄せるように葉を鳴らしている。
カレンは息を呑んだ。
「……誰?」
返事の代わりに、ひんやりした空気が頬を撫でた。
熱気の中に、一滴だけ落ちた雪解け水のような冷たさ。
足元で、小さな芽が伸びる。
ひび割れたアスファルトの隙間から、白い花が咲いた。
「え……?」
周囲の温度が、ゆっくり下がっていく。
熱風が止まる。
遠くで揺れていた陽炎が消える。
通行人たちが足を止めた。
「なに……これ」
「涼しい……?」
誰かが呟く。
カレンの周囲だけ、空気が違った。
木陰の匂い。
濡れた土の香り。
夏の森の、深呼吸したくなるような空気。
花々が彼女の歩いた跡に咲いていく。
淡い青。
白。
銀色。
硝子細工みたいな花弁が、灼熱の東京を静かに覆っていく。
街路樹がざわめく。
歓喜するみたいに。
その瞬間、カレンの脳裏に、知らない声が響いた。
――ようやく見つけた。
低く、美しい声。
男とも女ともつかない、不思議な響き。
――森を嫌わなかった、最後の子。
カレンは震える指で胸を押さえた。
心臓が早鐘を打つ。
怖い。
なのに、不思議と涙が出そうだった。
ずっと独りだった。
誰にも理解されなかった。
でも今、世界のどこかが、自分を抱きしめてくれている。
風が吹く。
熱に濁った東京の空に、白い花弁が舞い上がった。




