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フリー・ハグ

作者: attoh

 二十六歳。体格も精神的にも大人で、もうそろそろ結婚を真剣に考えないといけない年齢になっている。それなのに自分はまだ何かを追い求めている気がしてならない。それがなんなのかも分からない。ただ毎日サービス残業をして、立ったまま居眠りをして自宅の最寄りの駅まで戻り、駅前のコンビニで賞味期限が切れかけた弁当とチューハイを一本買い、それを何の得にもならない深夜番組を見ながら食べる。そんな日々も四年目に入った。

 仕事はいつもオフィスの中で一日中座っているだけだから体力は使わないが、それでも上司の叱責や小言をため込んで、イライラを誰かに向けることも話すことも出来ずにパソコンに向かう。

 大学生の時は電車の中で小説を読んだり、音楽を聴いたりとどうにかして暇を潰そうと暗中模索していたが、今は暇を潰さない代わりに体力を温存しようとまぶたを閉じるだけの日々だ。真っ暗な世界の中、何も考えず、お坊さんのように無のまま電車に乗る。行きも帰りも立ったまま居眠りし、会社の最寄り駅を車掌が告げる旅にため息が出る。

 自分の人生がどこでこうなったのか。

 自分の人生はこれ以上の進展があるのか。

 何の希望もないまま働く。三食ともに外食だ。今更になって母親の偉大さが分かる。部屋はゴミ箱に捨てるのをためらったチューハイの空き缶がそこかしこに散らばっている。自分はチューハイの缶の中で死んでいくんだ、と言う妄想をしたとき、それもまあ良いかもしれないなと鼻で笑った。

 梅雨独特の湿気の多さにやられて、酒の力を持ってしても眠れなかった朝。電車に乗りまぶたを瞑るが邪念が入って眠れない。

 このままでいいのか?

 会社に貢献しているはずなのに、何の結果も帰ってこない自分。このままでいいんだろうか? 思えばそんな疑念を持ったことは一度もなかった。疑念を持つことすら許されなかった。それが当たり前だと思っていた。でも今日は何故か違う。

 変な風に期待したくない。ここで逃げても仕方がない。逃げたら余計駄目な人生を送るハメになる。

 気づけば会社の最寄り駅の名が呼ばれる。いつもならため息一つすれば体が動くのに、今日はまるで動かなかった。それどころかため息すら出なかった。体に鈍い重みが加わって、動こうと思えば動けるのだが、動きたくないという本能が優先される。気づけば駅を通り過ぎていた。入社してから四年間、まるで余裕がなかった自分は初めて会社よりも向こう側の世界に足を踏み入れた。だからいつも降りる駅で人が一斉に降りることも知らなかったし、その先で電車が高架線を走ることも知らなかった。

 この電車はどこへ向かっているのか? 何年も見たことの無かった路線図を見ると懐かしい駅名があった。地元、初めて電車通学して向かった高校がある場所だ。あの辺なら地理もそれなりに分かる。

 行ってみるか。

 会社に連絡を入れようとしたが止めた。学生時代にそれほどしなかったサボりを今更やることになるとは。

 馬鹿馬鹿しいが、どこか心躍る。

 車窓からの見たことのない風景が新鮮だった。


 高校はどうやら改築されているようで、面影が何もなかった。制服も学ランからブレザーに替わっている。もうそこは母校と素直に呼ぶことが出来なかった。スーツ姿の自分が母校を見ていると生徒に挨拶している体育教師に睨まれる。そういうご時世なのだ。今は。

 仕方がないから学校から少し離れた大通りに出ると、近辺の観光地が書かれた看板が立っていた。その中にあった丘のような小さい山。

 嗚呼。

 思い出の場所だ。十年前、彼女と出会い別れたあの地。

 懐かしい匂いが確かにした。


 十年前、自分は第一志望だった公立の高校に落ち、第二志望の私立高校に受かった。その時からだろう。現実というものを暗く見るようになったのは。落ちてからというもの、父親からは必ず愚痴を言われるようになった。お前がもっと頭が良かったら金がかからなかったのに。

 テストで悪い点を取る度、部活でレギュラーに入れなかったときも、学校行事でお金がいる度に、わざわざ自分の前で目立つように愚痴った。母親は特に何か止めるわけでもなく、ただ知らぬふりをしている。

 毎度毎度の愚痴を溜め込む。子どもが辛いことがあったときの逃げる方法は引きこもるかグレるかの二つしかないことを中学時代には分かっていた。高校でも一緒だ。いじめられて引きこもるタイプ。親に責められて学校のガラスを割って停学になるタイプ。だが自分はどちらにもなれずにいた。引きこもる勇気もガラスを割る勇気も無かった。ただ単にそういうことをするのが面倒臭かったのだろう。纏わり付いて離れない暗くて臭いヘドロのような感情が、胸の奥底にずぶずぶと沈み込み、溜まっていく。学業をそれなりにして、部活もそれなりにする。だから思い切った行動が出来なかったのだ。

 今の自分と似ている。何かをすることが面倒なのだ。

 夏休みまで後もう少しと迫ったある日。とうとう破裂し、学校へ行かずに一日だけ遠出をすることにした。近所の看板で見つけた丘のような小さな山のてっぺんへと昇りたくなった。たぶんテレビで放送していた登山家のドキュメンタリーと、同じくテレビで放送していた「天空の城ラピュタ」のせいだ。山へ登って小さく見える街を見て、優越感に浸りたかったんだと思う。

 だけど歩くことすら面倒で、お金があったから通りかかったタクシーを拾った。学生服のまだ青臭いガキが平日の昼間からタクシーに乗っていることに運転手は何故乗ったのかを訊いてきた。自分は正直に言うことも嘘をつくことも出来ずに黙っていたら、運転手は昼間からサボるなと説教を言われた。だからといってその場で降ろすこともしないし、学校へ連れ戻すこともしない。要は金が欲しいのだ。せっかく拾った客をみすみす逃したくない、だがサボる学生は許さない。そういう嫌な感情を見て、余計に気持ち悪かった。

 山頂まであと少しというところまでは舗装された道路が走っていた。山頂の一歩手前で未舗装の車が通れない狭い幅の山道に変わっていた。仕方なく説教したタクシードライバーに現金を渡して、その場に降りた。

 山頂まで歩いて十分。との看板。

 木々で囲まれた山道をとぼとぼと歩く。晴天となった今日は、本格的な夏へと変わろうとしている日で、汗がかなり出た。小さな山ではあるが風景は小さく見えるだろう。そう期待して木々のトンネルを歩き続けると、視界が段々と広がってきた。

 頂上だ!

 ほんの少しだけ歩幅が大きくなる。歩調も早く。開けた視界には街が小さく写っていた。学校の最寄りの駅から走っている電車も、今では模型のように小さい。これはいい。だが邪魔なものが一つある。山頂にはアンティークな形をしたベンチがあり、そこに一人女性が座っていた。

 自分と同じくらいか、それよりも少し上くらいの歳で、当時としては珍しく茶髪だった。セミロングの髪が風でゆらゆらと揺れる。見とれていると女性が話しかけてきた。

「もしかして――高校の生徒?」

 自分の通っている高校の名前が出てどきりとした。何故分かるんだ? 制服を見ただけでか? ということは近所の人かもしれない。近所の人くらいしか行かなさそうな山だから。

「私、最初の方は通ってたんた。――高校に。結局学校行かなくなっちゃったけど」

 それを聞いて思い出した。彼女は逃げた子の一人だ。引きこもったのかもしれない子の一人。ぼんやりとだが、同じクラスにいた記憶もある。

「え? 同じクラスだったんだ! すごいすごい!」

 純粋に喜んでいる。自分としては嫌だった。一人で楽しみたかったし、何より同じクラスの人がいるとたとえ休んでいたとしても、変に噂が広がりそうで嫌だった。あいつは学校を休んだ奴と一緒に山の頂上にいた。そんな変な噂はされたくない。

「じゃあ私の名前、分かる?」

 ……正直分からなかった。友達の名前は分かるが、さすがに学校を休んでいる人の名前までは覚えていない。

「私の名前は田崎玲於奈。よろしくね」

 仕方ないから自分も名乗った。ちゃんと覚えてあげる、と笑顔で言われた。服装も髪型も化粧も何というか今風だ。なんでこんな人が学校に行けなくなるんだろう? というか何故こんな山の頂上にいるんだ?

「まあみんなが鬱陶しくなったんだよ。一人の子が私の夢をバラしちゃってね。それに対してみんなが変な憶測とか文句とか言うし。だから学校の近所に住んでいるけど、登下校時間とわざと外してこうやってここに来てるんだ。ここに来れば自分が上に立てた気がするじゃない?」

 それは自分と一緒だが、夢って何だ?

「芸能人になりたいんだ。というか女優さんかな? だから普通の学校行かずに、遠出してプロダクションと契約してて。子役の時に地方のドラマに出たことあるんだよ。それから鳴かず飛ばずでね」

 変な出会いがあるものだ。自分は一人の方がいいのに。

「あ、そうだ、あれ、やってみようかな」

 また何か言い出すのか。

「あのさ、私とハグしない?」

 何を言い出すんだこの女は。

「アメリカで誰かが始めたやつでフリーハグってのがあるんだって。私、アメリカに女優修業に渡ったプロダクションの先輩が言ってたんだけど、テレビで結構流れてるみたいで。誰とも知らない人がハグを交わして、お互いに何かを見いだしていくって事らしいんだ。ちょうどいいや。私プロダクションの人たち以外にそんなに友達いないからさ。ハグしようよ」

 馬鹿馬鹿しい。どうして見ず知らずの人同士がハグをしないといけないのか。そういうことはまだ小さな子どもと親がやるか、恋人同士みたいに仲がある程度深い奴らじゃないと出来ないだろう。

「嫌? 私とやるの」

 誰もそうとは言ってない。ただでやらせてくれるんだったら何でもいい。

「じゃあ、やろっ」

 だからそういうことに至るには関係が必要だろう。

 だが容赦なく抱きつかれた。立ち上がってハグをしている間、彼女の頭が自分の肩の辺りにうずくまる形になっている。何も出来ず圧倒される。こういうことをされたくないのに。でもどこかで。安心している自分がいる。何も親からされていなかった最近のことを考えると、自分は退行したかったのか? 子どもに戻りたかったのかもしれない。彼女を恋人と捉えるより、母親と捉えたのはそのせいだ。

 数十秒ほどの長いハグをした。ぼけっとしていたら、彼女は笑顔で話してくる。

「ありがとう。うん、やっぱりハグっていいもんだね。またいつでも来てよ。ここだったら地元の人しか知らないし、地元の人でもこんなところにわざわざ来る人なんていないからさ。よかったらこれ、携帯の番号。またいつでもかけて」

 自分は彼女に遊ばれているんだろうか? だがハグをしたときの安心感が忘れられなかった。結局自分は罠にはまったのだ。


 それから時折思い出したときに彼女の携帯に電話して、山の頂上で会った。さすがにタクシーでは山を登らなかったが、歩きだとかなりの重労働だ。それでもお互い誰かに見られたくないという利害の一致により、山の頂上でハグをした。

 いつも気づけば三十分ぐらい、ずっとハグをしているという関係になっていた。ハグをしている最中にくしゃみをして笑われて、笑いの振動がこちらに伝わるという変な事態も起きたこともあった。ずっと繋がっているという安心が、そこにはあった。

 だからといって、それ以上の関係にはならなかった。恋人にもならなかったし、体を触れあうということならセックスしたって良かったのに、何故かそこに至らない。それは最初から感じていた母性からだろう。母親を彼女にはしたくないし、セックスなどもってのほかだ。

 変化があった。時折忘れた頃にハグをすると自分に自信がついてきたようだ。自分でもたった一人にでも愛されているという感覚から、これまでやろうとしなかった勉強も部活もかなりの勢いが出てきた。やはり女性というのは大きい。さらには母親というのも大きいのだ。

 だが嫌な事もある。彼女がいなければ何も出来ないということだ。彼女という存在が消えたとき、どうなるのか分からず、その不安から逃れる為にハグをするという悪循環に陥っていた。いつかは関係が崩れる。それは以前の自分が持っていた悲観的な考え方だ。でもそれが覆った。友達も部活の奴らも、段々仲が良くなっていった。ハグだけが彼女の生きる意味になっていた。

 だからこの言葉を言われたときもなんとなく覚悟は出来ていた。

「私、東京に行くんだ」

 東京?

「うん。もう学校もすっぱり辞めて、東京に行って女優になるんだ」

 その夢を応援したいな。素直に思えた。今ならどうだろう? たぶん止めるはずだ。ハグが出来ないからではなく、夢で飯は食えないことを自分は知ったからだ。そんなことで東京に行っても東京は冷たいままだ。

 昔の自分にそう言いたい。でも言えない。言ったところで聞かないから。

 自分は放課後に電話して会った。夏の長い夕日がハグをしている自分たちを包む。

「綺麗だね」

 黙って頷いた。

「そういえばね、今日ここに来るとき幼稚園児が笹の葉を持って歩いてたの。今日は七夕なんだって気づいたんだ」

 そうか。出会ってまるまる一年経ったのか。

「え? 出会ったのって七夕だったっけ?」

 そうだよ。自分も笹の葉を見たんだ。

「そっかあ。……ねえ、何か願い事言ってよ。私たち、たぶん織姫と彦星みたいに会えなくなるかさ」

 じゃあ。自分は耳元で囁いた。

「十年後、自分たちがちゃんとした人生を歩いていて、ここでまたハグしたいな」

「変なの!」

 思いっきり笑われた。あの時が人生で一番輝いていたんだ。


 それを思い出して、泣きそうになった。十年が経った。彼女は成長し、僕は退化した。

 未来の僕は彼女に東京へ行くな、と止めたかった。だが彼女はものの見事に成功した。オーディションで少年少女向けのハリウッド映画の主人公の吹き替えを担当した。映画は大成功し、社会現象になり、それがきっかけでメディアに引っ張りだことなる。声優としての活動をした後、本格的に女優の道を歩み始めた。今、彼女は光り輝いている。

 自分は陰でひっそりと暮らす。ハグされたことで自信を持ち、その直後彼女を作った。ただハグをする関係から卒業し、一人の女性と真剣に付き合いたかったのだ。その彼女とは大学三年生まで付き合った。大学は勉強のおかげで地方の国公立大学へ合格。彼女と共にその大学へと通った。だが倦怠期から彼女は浮気を重ね、いつの間にか自分の元から消えていった。自信がさらに崩れたのは就職がうまくいかなかったからだ。国公立大学へ通う身なのに、結局は二流のシステムエンジニアになり、毎日体と心を酷使する日々だ。

 十年後。未来は変わってしまった。夢は潰えた。彼女も離れた。だがあの山に行けば何かが変わるという確信を得た。このことをふと思い出したからかもしれない。十年前と同じようなシチュエーションになったからかもしれない。久しぶりに自発的に動きたくなり、山へと歩いて向かった。


 じめじめとした暑さはあの頃と変わらない。木々のトンネルも変わらない。視界が広がったとき、十年前と少し違う小さな街が浮かび上がった。だがそれと同時に、そこに今まであったアンティークなベンチが取り外されていることに気づいた。街が変われば、この山も変わるのか。電車で感じた鈍い重みがまた生まれる。

 どこに確証があったのか。何故そんな自信を持てたのか。

 結局彼女が来ることなんて無いのだ。自分で言ったじゃないか。

 自分は罠にはまったのだ。と。


 約束を叶えたが、重さが消えない。タクシーを呼ぶ気力すらない。そのままとぼとぼと帰った。

 結局この十年間は何だったのだろう?

 そんな思いがこびりついて離れない。

 昼間の電車は空いていた。楽に座ることが出来る。自宅前の最寄り駅に着いた。駅前のコンビニでおにぎりとお茶を買う。もう家にも帰りたくない。行ったことがない近所の大きな公園へと向かった。

 自分と同じような無気力なサラリーマンがベンチで熱そうな顔をしている。苦しい。誰を見ても苦しい。その大きな肥溜めのような公園で、一人の男性を見つけた。大学生くらいか、自分よりは年下だ。首から大きな看板を下げている。

「FREE HUGS」

 思わず笑みがこぼれた。

 彼はどうしてそんなことをするのだろうか? 誰も興味を持っていないのに。

 だが自分は求めていた。人の温かみを。

 おにぎりとお茶を抱えたまま、彼の元へと駆けだした。

 何も言葉はいらない。ただハグをすることで自分を包んでくれるのだ。

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[良い点] 丁寧な描写 [気になる点] ・何の得にもならない深夜番組という表現(得になる深夜番組とは?) ・物語中で彼女が名前を名乗る必然性が全くない(しかも読みにくい名前) [一言] 憂鬱な空気が表…
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