錆びついた代紋
灰色の聖域
令和の新宿。降り続く雨は、歌舞伎町の極彩色をアスファルトの泥水に溶かし込み、安物の芳香剤と排気ガスの匂いを街の隅々にまで停滞させていた。
山崎組の事務所は、築四十年の雑居ビルの三階にある。
ひび割れた合皮のソファ、吸い殻で溢れた山積みの灰皿、そして、時折不快な音を立てて回る黄ばんだ換気扇。そこには、かつての任侠映画にあったような華々しさは微塵もなかった。
「……誠司。おい、聞いてんのか」
兄貴分の松田(52)が、掠れた声で呼びかけた。松田は、糖尿病でむくんだ足を不器用にさすりながら、手元の冷めかけたカップ麺を啜っている。
「……聞いてますよ。地上げの件でしょ。でも兄貴、あそこの婆さん、もう耳も遠いし、俺らの顔を見ただけで警察呼ぼうとするんですよ。効率が悪すぎます」
二十四歳の誠司は、窓の外を眺めていた。
自分が憧れた「ヤクザ」は、どこへ行ったのか。
中学を飛び出し、この世界に飛び込んだときは、もっと強くて、恐ろしくて、それでいて自由な男たちの世界だと思っていた。だが現実は、銀行口座一つ作れず、スマホの契約は他人名義。コンビニの店員にすら「反社」と蔑まれる、透明な人間だ。
誠司は、ポケットから銀色のジッポライターを取り出した。
父・剛志の唯一の形見だ。底には、奇妙な幾何学模様の紋章が刻印されている。誠司が蓋を跳ね上げ、ヤスリを回すが、火花が散るだけで火はつかない。
「そのライター、直す気ねえのか」
松田がカップ麺を置き、胸元の「般若の刺しゅう入りのお守り」にそっと手を触れた。
「直りませんよ。何回芯を変えても、オイルを入れてもダメだ。……親父の人生そのものっすよ。火がつかないまま、ドブの中で死んだ」
「……剛志さんは、ドブの中で死ぬようなタマじゃなかった。誠司、お前はまだ、この国の本当の汚さを知らねえだけだ」
松田の瞳に、一瞬だけ鋭い「極道」の光が宿った。誠司はその光の意味を問い詰めようとしたが、事務所のドアが勢いよく開く音にかき消された。
鋼の選別者
同じ時刻。永田町、内閣官房。
外界の雨音さえ遮断された静寂のなか、新海恭平(24)は、タブレット端末を流麗に操作していた。
彼の指先は、ピアニストのように正確で、一点の汚れもない。
画面には、警察庁から流用した暴力団構成員データベースが表示されている。
恭平が、ある一人の男のデータで指を止めた。
【秋山 誠司(24) 山崎組構成員】
恭平は、自身の乱れのない前髪を指先で整え、傍らに置かれたエスプレッソを一口含んだ。
「……面白い。秋山剛志の息子か」
恭平の父、新海大吾は、二十年前に内閣調査室で「汚れ仕事」の指揮を執っていた男だ。そして、記録上は事故死とされている秋山剛志を、国家の安寧のために「最終処理」した張本人でもある。
「新海、例の『特務義勇隊案』、総理の裁可が下りたぞ」
入室してきた上司に、恭平は表情を変えずに頷いた。
「承知いたしました。すでに選別は終えています。……彼らヤクザは、社会のバグ(不具合)です。バグを消去するには、別のバグとぶつけて相殺させるのが最も合理的です」
「人道的な批判が出る可能性は?」
「問題ありません。彼らは戸籍上は生きていても、社会的にはすでに『死んでいる』人間たちです。戦場という巨大なゴミ捨て場で、彼らに『名誉ある死』という出口を与えてやる。……これは一種の慈悲ですよ」
恭平の瞳には、同じ二十四歳の誠司に対する共感も憎しみもなかった。あるのは、害虫を効率的に駆除するための、清潔で冷徹な知性だけだった。
絶望のなかの「招待状」
数日後、山崎組の事務所に、一点の汚れもない黒塗りのワンボックス車が止まった。
降りてきたのは、ヤクザよりも隙のないスーツに身を包んだ、恭平の部下たちだ。
「秋山誠司、ならびに松田耕平。内閣府より、特命公務への同行をお願いしたい」
恭平は、事務所の安っぽいパイプ椅子に、ハンカチを敷いてから腰を下ろした。そして、一枚の契約書を差し出した。
誠司は恭平を睨みつけた。自分と同じ年齢。だが、その手は白く、滑らかで、一度も泥を触ったことのない「支配者」の手だ。
「特命公務? 俺らみたいなゴミに、なんの用だよ」
「君たちは、この国から捨てられた。だが今、この国は君たちの『暴力』を必要としている。……戦地へ行き、成果を挙げれば、君たちの前科は抹消される。銀行口座も、普通の暮らしも、すべてを買い戻す権利を与えよう」
「……まっとうな人間に、戻れるってのか」
松田の声が震えていた。長年、日陰を歩いてきた男にとって、それは毒のような甘い誘惑だった。
誠司は、ポケットの中の火のつかないライターを握りしめた。
新海の瞳の奥に、かつて父を死に追いやった者たちと同じ、傲慢な「正義」が見えた気がした。
「……分かったよ。どうせこのままここにいても、野垂れ死ぬだけだ」
誠司は、契約書にサインをした。
その瞬間、事務所のテレビから、隣国との本格的な武力衝突を知らせるニュース速報が流れた。
戦争が始まる。
だが、誠司にとっては、目の前の新海恭平という男との、世代を越えた「本当の戦争」が、今この瞬間から始まったのだ。




