昇進? 辞退します
翌日。役員応接室。 ふかふかの革張りソファに座らされた俺の目の前には、人事担当常務と、昨日辞令を持ってきた同期の佐藤が座っていた。
「――というわけでだ、黒木くん」
常務が、仏のような笑顔で言った。
「君の『営業三課・課長』への昇進は、役員会でも満場一致で承認された。二階堂くんの穴を埋めるには、現場を知り尽くした君しかいない。期待しているよ」
テーブルの上には、真新しい辞令書。 『課長ヲ命ズ』の文字が、俺には『死刑宣告』に見えた。
課長。管理職。 それはつまり、労働基準法の加護(残業代)を失い、部下のミスの責任を負い、休日もゴルフや接待に駆り出される「社畜の完成形」だ。 そんなものになったら、裏の仕事(始末屋)との両立なんてできっこない。何より、優美との夕食の時間が減る。
(……断らなければ。絶対に)
俺は深く息を吸い、姿勢を正した。 アポカリプスと対峙した時よりも真剣な眼差しで、常務を見据える。
「常務。大変光栄なお話ですが……辞退させてください」
「ん?」 常務の目が丸くなる。隣で佐藤が「おい、正気か?」という顔で小突いてくるが、俺は無視だ。
「じ、辞退? 君、昇給だぞ? 出世コースだぞ? 何を不満があるんだ」
「能力不足です」
俺は即答した。
「今回の件、私が現場を指揮したように見えていますが、実際はただパニックになって走り回っていただけです。二階堂さんがいなくなって、誰かが電話番をしなきゃいけないと思って、必死だっただけで……」
俺は「うだつの上がらない係長」の演技に全力を注いだ。 背中を丸め、自信なさげに視線を落とす。
「それに、私にはリーダーシップがありません。部下を叱るのも苦手ですし、決断力もない。もし私が課長になれば、課の業績は落ち、御社に多大なご迷惑をおかけすることになります」
「むぅ……」 常務が唸る。 だが、まだ食い下がってくる。
「謙遜は美徳だがね。しかし、他に誰がいる? 外部からヘッドハンティングするにも時間がかかる」
「でしたら、いい案があります」
俺は、事前に用意していた「切り札」を切った。
「営業二課の田中係長をご存知ですか? 彼は成績優秀で、上昇志向も強い。彼に三課も兼任してもらってはどうでしょう? 私はその補佐として、実務面で彼を支えます」
つまり、俺は「永遠のナンバー2」でいいと言っているのだ。 手柄は上司に譲る。責任も上司に被せる。 これぞ、窓際族が生き残るための最強の処世術。
「……君は、それでいいのか? 万年係長と呼ばれることになるぞ」
「はい。それが私にはお似合いです」
俺が清々しい笑顔で答えると、常務は呆れたように溜め息をついた。
「……分かった。君のような『欲のない社員』も、今の時代には貴重かもしれん」
常務が辞令書を引っ込めた。 勝った。 俺は心の中でガッツポーズをした。 世界の平和よりも、この勝利の方が百倍嬉しいかもしれない。
◇
その夜。新宿、歌舞伎町。 雑居ビルの五階にある高級焼肉店『牛禅』の個室から、賑やかな声が響いていた。
「かんぱーい!!」
ジョッキがぶつかり合う音。 俺、ソウジ、アイリス、カレンの四人だ。 テーブルの上には、特上カルビ、厚切りタン、霜降りロースが山のように積まれている。
「んまぁぁぁいッ! なんだこの肉! 口の中で溶けるぞ!」
アイリスが目を輝かせ、生肉のまま食らいつこうとするのをソウジが慌てて止めている。
「待て待て、騎士様! 焼いてから食え! 野蛮だな!」
「だって待ちきれぬ! ……むぐむぐ。うむ、このタレも絶品だ!」
「あはは! 食べて食べて! お会計はぜーんぶ、二階堂さんの裏金だから!」
カレンがタブレットで追加注文を連打している。 俺はビールを一口飲み、網の上で焼ける肉の香ばしい匂いに目を細めた。
「……それにしても旦那、本当に出世断ったのか? もったいねぇ」
ソウジがトングで肉をひっくり返しながら聞いてくる。
「もったいなくないさ。管理職になったら、こうやってお前らとバカ騒ぎする時間もなくなる」
「ふーん。ま、俺たちにとっちゃ、あんたが『係長』だろうが『社長』だろうが関係ねぇけどな」
ソウジがニカっと笑い、焼けたばかりのカルビを俺の皿に乗せてくれた。 こいつ、意外と気遣いができるんだよな。
「主よ! 我は理解できんぞ!」
アイリスが白米を片手(大盛り三杯目)に、真剣な顔で問いかけてくる。
「主ほどの力があれば、王にだってなれるではないか! なぜ、あのような狭い組織の、低い地位に甘んじるのだ?」
「アイリス。王様ってのはな、一番狙われるし、一番忙しいんだよ」
俺はサンチュに肉を巻きながら答えた。
「俺は、世界の王になるより、定時に帰って嫁とアイスを食う人生の方がいい。……それが俺の『覇道』だ」
「むぅ……。主の言葉は深すぎて、たまに分からぬ」
アイリスが首をかしげる。 カレンがケラケラと笑った。
「いいじゃないですか! 先輩はそれでこそ『最強の一般人』なんですから! ……あ、そうだ先輩。マリアさんからもらったデータの、例の『白いスーツの人たち』の件、解析進めておきましたよ」
カレンの声のトーンが、少しだけ真面目になる。 俺も箸を止めた。
「……何か分かったか?」
「いえ、まだ正体不明です。でも、奴らが使ってる通信コード、アポカリプスよりも遥かに高度で……まるで『未来そのもの』と交信してるみたいでした」
未来そのもの。 俺たちが倒したのは、過去の遺物のはず。 だが、次に待っているのは――。
「……ま、今は考えるのはよそう」
俺は話題を打ち切った。 今日は勝利の美酒に酔う日だ。 明日の心配は、明日すればいい。
「さあ、食うぞ! カレン、冷麺追加だ!」 「了解っす係長!」
宴は深夜まで続いた。 会社の地位は変わらない。 世界も(表向きは)変わらない。 だが、俺たちの絆だけは、以前よりも少しだけ強固になった気がした。




