我が家は戦場
午後八時過ぎ。
満員電車に揺られ、くたくたになって帰宅した俺を待っていたのは、安らぎの空間――ではなく、第二の戦場だった。
「ただいま……」
「あら、お帰りなさい。遅かったじゃない」
リビングの扉を開けた瞬間、食卓を囲んでいた二人の女性が、鋭い視線を突き刺してくる。 妻の優美と、義母の悦子だ。
この二人は実の親子だけあって仲が良く、そして俺を攻撃するときだけは驚異的な連携を見せる。
「ちょっとあなた、スーツが汚れてるわよ? またクリーニング代がかかるじゃないの」
「本当ねぇ。うだつの上がらない平社員に限って、服だけは一丁前に汚すんだから」
「い、いや、ちょっと外回りで転んでしまって……」
俺は苦しい言い訳をしながら、小さくなって席に着く。
実際は転んだのではなく、昨夜のオーガの返り血なのだが、そんなことは口が裂けても言えない。
「だいたいね、あなたの会社は残業が多すぎるのよ。そのくせ手当は雀の涙だし。お隣の旦那さんは、ダンジョン関連株で一儲けして新車を買ったんですってよ?」
「あらやだ、羨ましい。それに比べてウチの大黒柱は……ハァ。私が優美に、もっといいお見合い相手を紹介していればねぇ」
「お母さん、それ言わないでよ。私が惨めになるじゃない」
ポンポンと飛び交う口撃の雨あられ。
二階堂の嫌味とはまた違う、生活感に満ちた物理的なダメージが俺の精神を削っていく。
モンスターの爪より、彼女たちの舌の方がよほど鋭利だ。
(……だが、まあ)
俺はため息をつきつつ、鞄の中から「ある物」を取り出した。
「これ、駅前で売ってたんだ。限定のプレミアム・プリン」
その瞬間。 優美と悦子さんの目が、獲物を狙う肉食獣のように輝いた。
「あら! これ、テレビでやってた一個八〇〇円のやつじゃない!」
「まあ、気が利くじゃないの。……ふん、たまには良い仕事をするわね」
さっきまでの剣呑な空気はどこへやら。
二人は嬉々としてプリンの箱を開け、「美味しい!」「濃厚ねぇ!」とはしゃぎながらスプーンを動かし始めた。
俺の小遣い(という事になっているが、実は裏稼業の報酬)が消えた瞬間だが、この笑顔が見られるなら安いものだ。
テレビのニュースでは、ダンジョンからモンスターが溢れ出す『スタンピード』の予兆について報じている。
優美がスプーンを咥えたまま、他人事のように呟いた。
「怖いあねぇ。なんか最近、物騒よね」
「本当よ。警察も自衛隊も何やってるのかしら。……ま、ウチみたいな外れの住宅街には関係ない話だけど」
二人は知らない。
その「関係ない」平和が、誰によって守られているのかを。
俺はぬるくなった発泡酒を煽りながら、ぼんやりと思う。
もしも、この日常を脅かす奴が現れたら。
その時はまた、スーツを着るしかないだろう。
嫁の笑顔と、義母の嫌味と、この狭いリビングを守るために。
――ブブッ。
その時、胸ポケットのスマホが短く震えた。
画面に表示されたのは、ナビゲーターのカレンからのメッセージ通知。
『先輩、お疲れ様っす! ……で、プリン食べてくつろいでるとこ悪いんですけど、 デカいのが出ました。「仕事」の時間ですよ』
俺はそっとスマホを伏せ、残った発泡酒を飲み干した。
どうやら、今夜も安眠はできそうにない。
「……ちょっと、コンビニに行ってくる」
「ええ? ついでにお茶買ってきてよ、お茶」
「はいはい」
俺は背中で二人の文句を受け流し、再び夜の街へと出る。 冴えない係長の顔を捨て、始末屋の顔に戻るために。




