逃げ遅れたエリート
地上五〇階。最上階。 専用エレベーターの扉が静かに開くと、そこは別世界だった。
ふかふかの赤い絨毯。 壁に飾られた名画の数々。 天井からはクリスタルのシャンデリアが下がり、空調は完璧に効いている。 下の階層が地獄のような惨状になっていることなど嘘のような、静寂と贅沢に満ちた空間。役員フロアだ。
俺――黒木鉄也は、煤けたスーツの襟を正し、その長い廊下を歩き出した。 コツ、コツ、と革靴の音が響く。
「……たく。会社が潰れかけてる時に、上層部は優雅なもんだ」
廊下の突き当たりにある重厚なマホガニーの扉。 『対災害用特別役員室』兼『核シェルター』。 核ミサイルが直撃しても耐えられるという、このビルで最も安全な場所だ。 二階堂はここに引きこもっている。
俺は扉の前に立ち、インターホンを押した。 反応はない。 だが、中から微かに、ヒステリックな声が漏れてくるのが聞こえた。
「おい! まだ救助は来ないのか! 僕はVIPだぞ!」 「ワインだ! もっと高いのを持ってこい! 恐怖を紛らわせるんだよ!」
……元気そうだな。 俺はため息をつき、インターホンのカメラに向かって社員証をかざした。
「営業三課、係長の黒木です。至急、決済をお願いしたい案件がありまして」
しばらくの沈黙の後。 ガチャリ、と電子ロックが解除される音がした。 俺はドアノブを回し、中へと足を踏み入れた。
「黒木くん!? 君か! 生きていたのか!」
部屋の中央。 最高級の革張りソファの上で、二階堂がうずくまっていた。 手にはヴィンテージワインのボトル。テーブルの上には、食べ散らかしたオードブル。 その顔は恐怖とアルコールで赤く染まり、目は血走っている。
「……随分と楽しそうですね、課長代理。外は地獄ですよ」 「う、うるさい! こ、これは備蓄食料の確認だ! それに、ここは安全なんだ! 最強のセキュリティシステムが……」
二階堂は言い訳を叫びながら、俺の後ろを見た。 誰もいないことを確認すると、あからさまに失望した顔をする。
「なんだ、一人か? Sランク冒険者の護衛は連れてきてないのか? 使えない部下だな!」 「ええ、無能ですみませんね。……で、本題です」
俺は二階堂の前に立ち、手を出した。
「地下へ降ります。あなたの生体認証が必要です。一緒に来てください」 「はぁ!? 馬鹿を言うな!」
二階堂がワインボトルを投げ捨てた。 カーペットに赤紫色の液体が広がる。
「地下にはあの化け物がいるんだぞ! なんで僕がわざわざ死にに行かなきゃならないんだ! 嫌だ! ここから一歩も動かんぞ!」 「動いてもらわないと困るんです。地下のゲートを開けて、モノリスを停止させないと、このビルごと崩壊します」 「知ったことか! ビルが壊れても、このシェルターだけは残る設計なんだ! 僕はここで救助を待つ! 君が一人でなんとかしたまえ!」
……こいつ。 俺の中で、何かがプツンと切れる音がした。 俺はゆっくりと二階堂に近づき、胸ぐらを掴み上げた。
「ひぃっ!? な、何をする! 暴力は……!」 「よく聞け、二階堂」
俺はドスの効いた声で言った。 もはや敬語を使う気も起きない。
「俺はな、お前のミスの尻拭いをするために、残業してやってるんだ。嫁との大事な夕飯の時間を削ってな」 「し、知るか……! 離せ、この平社員!」 「平社員じゃない。係長だ。……いいか、今すぐ俺と一緒に来い。さもなくば」
俺は右腕を少しだけ変形させ、鋭利な爪のような形状にした。 二階堂の目の前に突きつける。
「ここで指を切り落として、それだけ持って地下へ行くこともできるんだぞ?」 「ひぃぃぃッ!?」
二階堂が悲鳴を上げ、失禁した。 情けない。本当に情けない男だ。 だが、これで大人しくなるだろう。
「……分かったら立て。行くぞ」
俺が手を離そうとした、その時だった。
ズズズズズ……ッ!
部屋全体が、いや、ビル全体が激しく揺れた。 今までの振動とは違う。もっと根本的な、何かが目覚めるような鼓動。
『警告。直下より高エネルギー反応、急速接近。……来ます!』
マリアの声と同時に。 バリィィィィィン!! 防弾ガラスで守られていたはずの窓が、外側から突き破られた。
「な、なんだぁ!?」
舞い散るガラス片の中、侵入してきたのは、太さ一メートルはある黒い「蔦」のような物体だった。 いや、植物ではない。無数のケーブルと金属パイプが絡み合い、生き物のように蠢く機械の触手だ。
「モノリスの……一部か!?」
俺はとっさに二階堂を蹴り飛ばし、触手の一撃を回避した。 触手はソファを叩き潰し、そのまま部屋の中で鎌首をもたげる。 先端にあるカメラアイが、ギョロリと俺たちを見回した。
『――《生体IDコード、確認》』
部屋中に、ノイズ混じりの機械音声が響き渡る。
『――《管理者権限ノ譲渡ヲ要求スル。……拒否スルナラバ、強制接続スル》』
触手の狙いは俺じゃない。 二階堂だ。 モノリスは、自分を完全に制御下に置くために、二階堂の持つ「起動キー(生体情報)」を取り込みに来たのだ。
「い、嫌だぁぁぁ! 来るな! 黒木、なんとかしろぉぉ!」
二階堂が床を這いずり回る。 触手が彼に向かって伸びる。
「チッ、世話の焼ける!」
俺は右腕を展開し、触手と二階堂の間に割って入った。 重力シールドを展開。 ガギィィィン!! 金属同士がぶつかり合う激しい火花が散る。
「……おい、二階堂。どうやらお前の作ったペットは、随分と飼い主に懐いてるみたいだぞ」 「冗談じゃない! あんなの知らない! 解雇だ! クビにしてやる!」 「クビにできるなら苦労はしないんだよ!」
俺はシールドで触手を押し返しながら叫んだ。
「カレン! 聞こえるか! 予定変更だ! 二階堂を連れて地下へ行くのは無理だ! 向こうから迎えに来やがった!」 『えっ!? どういうことですか先輩!』 「モノリスの本体が、ビルを侵食してここまで上がってきてる! ……ここで迎え撃つぞ!」
最上階の豪華な役員室。 そこが、最終決戦のリングになった。 俺は震える二階堂を背に庇いながら、蠢く機械の触手を見据えた。
「マリア、全力戦闘だ。……この部屋、どうせ会社経費で直すんだ。派手に壊しても文句は言わせんぞ!」




