箱根の山は天下の剣
神奈川県、箱根ダンジョン・リゾートエリア。 かつての名湯は、今やダンジョンの熱源を利用した一大レジャー施設となっていた。 俺たちが泊まる旅館『天狗の宿』も、露天風呂からダンジョンの入り口(安全地帯)が見える絶景が売りだ。
「うわぁ~! すごい硫黄の匂い! お肌に良さそう!」 「鉄也、早く荷物置いて! 温泉街でお団子食べましょ!」
浴衣に着替えた優美と悦子さんは、到着するなりテンションがMAXだ。 俺は荷物持ちとして二人の後ろをついて歩きながら、周囲を警戒していた。 観光客に混じって、見覚えのある顔がいる。 カレンとアイリスだ。 カレンは派手な浴衣を着崩し、アイリスは……なぜか旅館のドテラを裏返しに着て、巨大なイカ焼きを頬張っている。
(……バレてないな。よし)
俺はサングラス越しにアイコンタクトを送り、家族サービスに徹することにした。
◇
その夜。 優美と悦子さんがエステに行っている間、俺は一人で宿の庭園にある露天風呂に浸かっていた。
「……極楽だ」
熱い湯が、日頃のデスクワークとSF兵装の反動で痛んだ体に染み渡る。 貸切状態の露天風呂。 月を見上げながら、このまま溶けてしまいたいと思った、その時だ。
『敵性反応。直上から急速接近』
マリアの警告と同時に、湯船の水面が揺れた。 ザパァッ! 塀の向こうから飛び込んできたのは、一匹の猿だった。 だが、ただの猿ではない。体長二メートル、真っ白な毛皮に赤い顔。箱根名物、変異モンスター『スノー・モンキー(温泉猿)』だ。
「キキャァァァッ!」
猿は俺を見るなり、鋭い爪を振り上げた。 丸腰の入浴客なら、悲鳴を上げる暇もなく八つ裂きだ。 だが、あいにく俺は「仕事中」ではないが、「準備」はしている。
「……のぼせちまうぞ、サル」
俺がタオルごしに右腕を変形させようとした瞬間。 横の男湯との仕切り(竹垣)が、ドガァン! と破壊された。
「主の安息を妨げる不届き者は、このアイリスが成敗してくれるわ!」
飛び出してきたのは、バスタオル一枚を体に巻いたアイリスだった。 手には武器がない。 代わりに、庭石(漬物石サイズ)を片手で掴んでいる。
「ぬんっ!」
豪速球。 投げられた岩は砲弾のように空を切り、空中の猿の顔面に直撃した。 ゴガッ! と鈍い音がして、猿が湯船の向こうへ吹っ飛んでいく。
「……おい、アイリス。何してんだ」 「む? 主か。いや、女湯の露天風呂から、主の匂い……ではなく、殺気を感じたのでな。壁を越えてきた」
アイリスは湯気の中で、恥ずかしげもなく仁王立ちしている。 バスタオル一枚の危うい姿だが、その凛とした表情は戦乙女そのものだ。
「キィッ! キキャッ!」
吹っ飛ばされた猿が仲間を呼んだのか、塀の上に十数匹の温泉猿が現れた。 どれも興奮状態で、殺気立っている。 マリアが補足情報を入れる。
『解析。地熱の上昇により、モンスターたちが縄張りを追われてパニック状態です。このままでは旅館街に雪崩れ込みます』 「チッ……。優美たちがエステ終わるまであと三〇分か」
俺は立ち上がり、腰にタオルを巻き直した。 右腕が湯の中で黒く変色する。
「アイリス。湯冷めする前に片付けるぞ」 「応! ……主と共闘など、あの雪の日以来だな」
アイリスがふと、懐かしそうに目を細めた。
◇
戦闘は一方的だった。 俺の《ニードルガン・静音モード》と、アイリスの格闘術(桶や椅子を使った乱闘)の前に、猿たちは為す術なく沈んでいく。
最後の一匹をアイリスが締め落とした時、彼女はぽつりと呟いた。
「……主よ。覚えているか?」 「あん?」 「我がこの世界に来て、右も左も分からず、路地裏で凍えていた時のことだ」
半年前の冬。 異世界から転移してきた彼女は、言葉も通じず、現代社会のルールも知らず、ボロボロの姿でゴミ捨て場に座り込んでいた。 誰もが不審者として避ける中、声をかけたのが俺だった。
『……腹、減ってるのか?』
俺が差し出したのは、残業帰りに買った牛丼(並)の弁当。 彼女はそれを、涙を流しながら貪り食った。
「あの牛丼の味。そして、主がくれた『生きるための仕事』。……我は一生忘れぬ」
アイリスは濡れた髪をかき上げ、真剣な眼差しで俺を見た。
「この命ある限り、我は主の盾となろう。……たとえ主が、奥方という別の主君に仕えていようともな」 「……大げさなんだよ、お前は」
俺は照れ隠しに視線を逸らした。 ただの気まぐれだ。腹を空かせた野良犬を見捨てられなかっただけだ。 だが、その野良犬は今、最強の騎士となって俺の背中を守っている。
「キャーッ! ちょっと、お風呂で何が起きたの!?」
脱衣所の方から、従業員の悲鳴が聞こえた。 騒ぎを聞きつけたようだ。 俺とアイリスは顔を見合わせた。
「……逃げるぞ、アイリス」 「うむ! マッサージチェアがまだ途中だ!」
俺たちは猿の死体をダンジョンの裂け目に蹴り落とし、何食わぬ顔でそれぞれの脱衣所へと戻った。
◇
翌朝。 旅館の朝食会場で、優美がニュースを見ながら首を傾げていた。
「ねぇ鉄也。昨日の夜、近くで『猿の集団喧嘩』があったんですって。怖いわねぇ」 「ああ、怖いな。……でも、ここの温泉卵は美味いぞ」 「本当? あら、お肌ツルツルじゃない、あなた」
俺は筋肉痛の取れた体を伸ばし、味噌汁を啜った。 遠くの席で、カレンとソウジ、アイリスが山盛りのバイキング料理を食べているのが見える。 アイリスが俺に気づき、小さく親指を立てた。
箱根の山は天下の険。 だが、俺たちのチームワークの前では、ただの銭湯と変わらない。 束の間の休息は、こうして守られたのだった。




