嵐の前の静けさ
金曜日の夜。 黒木家の食卓は、お通夜のように静まり返っていた。
「……はぁ」 「……あーあ」
妻の優美と、義母の悦子さんが、交互に深いため息をついている。 箸が進んでいない。 俺――黒木鉄也は、恐る恐る口を開いた。
「あの……飯、不味かったか?」 「違うのよ、鉄也。ご飯は美味しいんだけど……体がついていかないのよ」
優美が肩を回しながら、悲痛な顔で訴える。 彼女は最近、パート先のスーパーで「ダンジョン産食材フェア」のリーダーを任され、連日の激務に追われていた。 悦子さんも、町内会の役員仕事で疲弊しきっている。
「もう限界よ。肩はバキバキ、お肌はボロボロ。……温泉にでも浸かって、上げ膳据え膳で癒やされたいわぁ」 「いいわねぇ、温泉。箱根の『魔湯』なんて最高よ。美肌効果抜群で、若返るんですって」 「でも高いじゃない。一泊五万よ? ウチの家計じゃ無理無理」
二人はチラリと俺を見ることもなく、諦めムードで茶を啜った。 俺の稼ぎ(表の給料)では、箱根の高級旅館なんて夢のまた夢だと思っているのだ。
だが。 俺は心の中で電卓を叩いていた。 先日の「機械ワニ」討伐や、二階堂の尻拭いで得た裏金の残高は、十分に潤っている。 最近、ダンジョンの異変も続いている。いつ大規模な災害が起きるか分からない。 平和なうちに、家族孝行をしておくのも悪くない選択だ。
「……行くか」 「え?」 「箱根。来週末、予約取るよ」
二人の動きが止まった。 優美が信じられないものを見る目で俺を見る。
「て、鉄也? 熱でもあるの? それとも会社クビになって退職金でも入った?」 「失礼な。……ちょっと臨時ボーナスが出たんだよ。たまには贅沢しよう」
その瞬間、リビングに歓声が爆発した。
「キャーッ! 嘘! 行く行く!」 「あらやだ、ムコ殿! 見直したわ! やっぱり男は甲斐性ね!」
優美に抱きつかれ、悦子さんに肩を叩かれ、俺は苦笑いしながらも安堵していた。 やはり、この笑顔のためなら、モンスターの群れに飛び込むのも悪くない。
◇
翌日。 俺はチームのメンバーを招集し、箱根旅行の件を伝えた。
「――というわけで、来週末はオフにする。緊急の仕事以外は連絡するなよ」
俺が言うと、カレンとソウジ、アイリスが顔を見合わせた。
「えー、先輩だけズルいっすよ! 私たちも慰安旅行行きたい!」 「そうだぜ旦那。俺たちだって最近、働き詰めだろ?」 「主よ……『おんせん』とはなんだ? そこには美味い肉はあるのか?」
不満たらたらの三人。 俺は頭を抱えた。 確かに、こいつらには苦労をかけっぱなしだ。福利厚生もリーダーの務めか。
「……分かったよ。お前らの分も部屋を取る。ただし!」
俺は釘を刺した。
「俺の家族とは別行動だ。現地では他人のフリをしろ。絶対にバレるなよ?」 「やったー! さっすが先輩、太っ腹!」 「温泉まんじゅう食べ放題だな!」
はしゃぐメンバーたち。 その中で、AIのマリアだけが、俺の脳内で冷静な警告を発していた。
『推奨します、ダーリン。箱根エリアは現在、地脈変動によりモンスターの活性化が観測されています。護衛を同行させるのは合理的です』 「……そういうことにしといてやるよ」
こうして、黒木家の家族旅行と、裏稼業チームの慰安旅行が同時に決行されることになった。 それが、まさかあんな騒動になるとは知らずに。




