乃美宗勝 —— 君の記憶を留める、一種の水(2)
沼田庄、小早川の本家。そこは瀬戸内海に近い場所だ。
小早川家はその地理的条件を活かし、漁業を営んでいる。その傘下にある乃美家の長男として、宗勝には水への先天的な適性があった。幼い頃から水に親しみ、初めて海に入った時も、教えられるまでもなく浮かぶことができた。成長し、父が当然のように自分の跡を継いで漁業に携わるものと考えていた頃、宗勝はそれに鼻を鳴らすような態度を見せ始めた。
当時、沼田小早川家の当主だった正平には、歴代の当主たちと同じ欠点があった。彼らの目は、極めて身近な物事しか捉えられないのだ。例えば、竹原の分家との争い。互いに張り合い、足を引っ張り合った結果、相手の会社の規模を数十年にわたって零細企業のままに留めることに成功した。
竹原家に対して強い恨みを持っていなかった宗勝は、その歴史を知った時、真っ先に「馬鹿げている」と感じた。この数年、地元の経済は好調で、同時期に誕生した新興企業は時代の波に乗って飛躍を遂げていた。小早川の目には常に小早川しか映らない。宗勝は、その短視眼が最終的に具現化したからこそ、沼田の前当主・正平の息子に眼疾が生じたのではないかとさえ、毒づいたことがあった。
竹原家に異変が起きた時――九年前、家主が病没した事件だ――沼田の大人たちが見せた、喜びを隠しきれない表情に、宗勝は嫌悪感を抱いた。彼は卒業後、この偏狭な小早川家を離れて東京で勝負することを決意し、それを実現させた。だが、その道のりは決して平坦ではなかった。途中で、自分の考えが揺らいでしまうような「意外な出来事」があったからだ。
それが、隆景との出会いだった。父に連れられて竹原家を訪れた際、退屈に耐えかねた宗勝はこっそり外の通りへ抜け出した。すると突然、隆景が――まだ子供の姿で、陽光のカーテンを纏いながら、高台の茂みから飛び降りてきた。まるで、光を放つ兎のように。
二人の視線が空中で交差した。一瞬のことだった。
決定的で、逃れられない一瞬。
夕闇に包まれた東京の街並みが、フロントガラスに映り込む。不意に、街灯が炎のように点った。
隆景の姿勢に変化はない。車のシートに背を預けたままだ。顔は見えないが、疲労の色が伝わってくる。
二人は出会って以来、長年オンラインでの連絡を続けてきた。沼田側に身を置く宗勝は、隆景の口から竹原分家の事情を多く聞いていた。隆景は幾多の困難を経験したが(竹原内部には、血縁のない隆景を当主として迎えることに異を唱える者も少なからずいた)、最後にはそれら全てを解決していった。
隆景ももちろん、完璧な人間ではない。少々プライドが高いところがあるが、それは実務に支障をきたすほどではなかった。それに、天性の口の巧さがあり、彼の言葉は何でも人を心地よくさせた。傲慢であっても腹は立たず、愚痴を聞かされても退屈しなかった。
宗勝は以前、ある映画を観た。主人公は不老不死の男で、本人の意図に反して、気の遠くなるような長い時間の中で人々から神として崇められるようになる。それと同じことが、宗勝の身にも起きているのかもしれない。教祖本人の意志を無視して、宗勝は隆景に「信仰」を付着させ、それ以来、まるで熱心な信者のように、周囲にその信仰を広め続けてきたのだ。
そう考えると――彼は車を走らせながら思った――自分も今回の件に少しばかり責任があるのかもしれない。時が経つにつれ、宗勝は隆景の下で働きたいという私心を抱くようになった。父に対して、竹原分家の新当主がいかに侮りがたい未来の才覚であるかを、折に触れて吹き込んできた。……結局、こちら側にも継承問題が起きた際、隆景を呼び寄せて二つの小早川家を統合させるという選択は、元から十分に予測できたことだった。
だが、大人たちが彼を、まだ小学校に上がったばかりのお嬢さんと結婚させようとは――宗勝は、その可能性だけは思い至らなかった。
隆景がどう考えているのか知りたかった。
宗勝自身、父からこの縁談を聞かされた時の衝撃からは立ち直り、大人たちの思惑をある程度は理解できるようになっていた。最後にどう動くかは隆景次第だ。そして宗勝は、その後についていくつもりだった。ずっと、そうしてきたように。
その時、隆景が息を吸い込む音が聞こえた。
「……最近、困っとることがあるんじゃ。永ちゃんのことなんじゃが。彼女自身には、何一つ非がないというのに」
――そして、宗勝がてっきり溜息を吐くものだと思った矢先、隆景は唐突に(まるで世間話でもするかのように)白状した。
宗勝がハンドルを握る手に力がこもる。「そうか」
彼は隆景の次の言葉を待った。再び、息を吸う音がした。 「……死ぬほど面倒くさいわ」
常人には単なる愚痴、無意味な言葉に聞こえるかもしれない。だが、宗勝には分かっていた。これまでの経験上、隆景が何かをこぼす時、それは彼がその物事を受け入れようとしているサインなのだ。
「そうか」
それは間違いなく、苦渋の決断だろう。宗勝にできるのは、これ以上重いものを積み上げないことだけだった。だからこそ、彼は努めて平穏な口調を保ち、そこから一切の個人的な感情を削ぎ落とした。
見慣れたアパートが見えてきた。宗勝はハンドルを切り、車を駐車場へと滑らせた。
隆景を東京の住まいに招くのは、これが二度目だった。隆景は家の間取りを覚えており、玄関でスリッパに履き替えると、迷わず寝室へ向かった。背負っていたバッグを床に下ろし、中身を一つずつ取り出す。畳まれたパジャマ、着替え、洗面用具。彼はまるで旅人のような手つきでそこにいた。
バッグがほとんど空になると、隆景は立ち上がった。「腹減ったな。宗勝、俺が飯を作ろうか?」
宗勝が知る通り、隆景は料理が得意だった。だがこの申し出には、おそらく泊めてもらうことへの恩返しの意味も込められているのだろう。彼の意見に従うのが最善だが、しかし……。
「冷蔵庫に、材料なんてほとんどないと思うけど……」
卒業して一年、多忙な独身男の冷蔵庫に何が入っているというのか。自分でも記憶にないが、空っぽなのは間違いなかった。隆景は「たたたたっ」と足早にキッチンへ向かい、冷蔵庫のドアを開けた。そこにはビールとコーラの缶が数本、寂しげに並んでいるだけだった。宗勝は、自分の秘密を暴かれたような気恥ずかしさを覚えた。 「……近くに、いいファミレスがあるんだ」
二人はそこへ行き、三十分ほどで食事を済ませた。その間、隆景はここへ来るまでの経緯を語った。昨夜、縁談の話を聞かされ、部屋で頭を空っぽにしてしばらく座り込んでいたこと。それから無意識のうちに荷物をまとめ始め、気づいた時には外の交差点で夜風に吹かれていたこと。ネカフェで一晩過ごし、翌朝一番の新幹線に乗ったこと。
「ネカフェなんて初めて入ったよ。意外と整理されてるんだね、あそこ。でも、どこからか煙草の匂いが流れてくるし、隣からはキーボードを叩くパチパチって音がずっと響いててさ。……翌朝、東京に向かう途中で急に空腹を感じてね、前日の夜から何も食べてなかったことにようやく気づいたんだ」
カレーライスを頬張る隆景は、少し気分が晴れたように見えた。
店のテレビでは天気予報が流れており、今夜は雨が降ると告げていた。
帰宅。夜は一つのベッドに身を寄せて眠ることになる。
その前に、隆景が先にシャワーを浴びに行った。昨日から今日にかけて、広島から東京まで、彼は埃にまみれて移動してきたのだ。出てきた時には、白の無地のゆったりとしたパジャマに着替えていた。彼は軽やかにベッドへ飛び乗り、その重みで足元のマットがわずかに沈み込んだ。頭上では、リング状の照明が温かみのある金色を放っている。
彼の筋肉は、体型と個性に調和するように育ち、一つの美しい全体を形作っている。
髪は細く密で、毛先が羽毛のように微かにカールしていた。
彼は横になり、柔らかい枕に頭を沈めてイヤホンを着けようとした。彼はマスロックを聴きながら入眠するのを好んでいた。その時、宗勝が突然声をかけ、彼の動きを遮った。 「隆景、お前と永ちゃんのことだけど……」
「ああ、そのことか――大人たちがそうしろと言うなら、そうするよ」
彼はまたイヤホンを着け始めた。宗勝は二度目の遮りを入れた。隆景のどんな行動も肯定するつもりでいたが、事の重大さが彼に再確認を促した。 「……本当に、よく考えたのか?」
問いかけた瞬間、後悔した。これほどの大事、隆景の性格からして、軽率に決断を下すはずがない。
隆景は言った。「これは二つの小早川家、そして僕の出自である毛利家にとっても、良いことなんだ」
宗勝は、隆景の言葉の中に彼自身と小早川永――この縁談によって確実に運命を変えられる二人の個人――が含まれていないことに気づいた。彼は思わず苦笑した。「理性的だな」
「仕方ないだろう。もう、天真爛漫でいられる年齢は過ぎたんだ」 そう言って、隆景は再びイヤホンを耳に押し込んだ。
「――いや」
男性の思春期は十八歳から二十歳まで続く、という説を宗勝は以前どこかで読んだことがあった。だから、まだ高校も卒業していない隆景は――もう少しの間、天真爛漫でいてもいいのではないか、と思ったのだ。
隆景は聞き取れなかったようで、「何か言ったか?」と聞き返した。
「いや」
二重の意味を含んだ肯定(あるいは否定)の返答。隆景は少し唇を尖らせた。宗勝に隠し事をされるのは、彼にとって本意ではないのだろう。
彼は寝返りを打って宗勝の方を向いた。窓の外からの光を受けて、瞳の中に二つの小さな光点が浮かぶ。
「お前がそんなに気にしてるなら、僕の考えを率直に話そう。小早川家は古い家名こそあるけれど、実力が伴っていない。本家と分家の長年の内紛がその原因の一つだ。それは、僕が竹原に来てすぐに気づいた。今、この二つを統合させる機会が訪れた。これは数百年に一度のチャンスかもしれない――どう考えても、悪い話じゃない」
「『悪い話じゃない』、か……」宗勝は思わず眉を寄せた。言葉にすれば美しい響きだ。だが、手段としての「縁談」は、あまりに荒唐無稽だ。 「――つまり、その巨大な『家』のために、お前は自分と永ちゃんの人生を、運命という名の巨大な渦に投げ込むつもりか。そういう意味か?」
「昨日からずっと葛藤してたのは、そこだよ。僕は構わないけれど、話が固まれば、永ちゃんが失うものは僕の比じゃない」
彼の表情に、苦悶が混じり始めた。宗勝もかけるべき言葉が見つからない。「……前向きに考えれば、永ちゃんはお前のことが大好きじゃないか」
小早川永。その名を口にした瞬間、彼女の姿が宗勝の脳裏をかすめた。まだ幼く、内気で、天真爛漫な少女。頬をさくらんぼのような赤に染めて。隆景は何度か沼田を訪れ、永や彼女の兄とも良好な関係を築いていた。隆景は何でも完璧にこなす。子供をあやすことさえも。
「僕だって彼女を、妹のような感情で見ていないわけじゃない」
隆景は言葉を選びながら、ゆっくりと語り始めた。自分の思考を一つずつ解剖していくようなその声には、鮮血のような生々しい痛みが宿っていた。「僕と違って、彼女はまだあんなに小さいのに、理解もできないまま自由を奪われようとしている。宗勝、分かるだろう?」
暗示的な問いかけ。苦悶を反射するその瞳を通して、全てが明白になった。情報の受け渡しは、再び完了した。
「……もう一つ問題がある。永ちゃんの兄さんにとって、これは残酷すぎることだ」
永の兄、眼の不自由な又鶴丸。沼田の人々は、彼には家督を継ぐ器量はないと密かに判断を下していた。かつては、それは背後での囁き声に過ぎなかった。
だが今、隆景は「具現化された厄災」として、彼が本来持つべきだったもの全てを奪い去ろうとしているのだ。
その残酷さは、血縁という糸を伝って、いずれ永にも届くだろう。今は分からずとも、彼女が少し成長した時、「彼女は僕を憎むべきなんだ」と隆景は言った。
彼の心は今や解体され、剥き出しのままそこに投げ出されていた。彼は、その全てを飲み込もうとしていた。
しばらくして、宗勝は何か言葉を紡ごうとしたが、喉が渇ききったように声が出なかった。
宗勝は立ち上がり、電気を消した。戻ってくると、暗闇の中でマスロックの音がより鮮明に響いていた。
「いつまで、こっちにいるつもりだ?」
「気持ちが落ち着いたら、帰るよ。そんなに長くはかからない」
ベッドがわずかに揺れた。彼が寝返りを打ったのだ。
隆景は宗勝の家で、一日、二日と過ごした。宗勝は彼に付き添うために休暇を取った。三日目の朝、宗勝が目を覚ました時には、彼は既に起きていた。その顔つきには、いつもの精悍さが戻っていた。その日のうちに、彼は新幹線で広島へと帰っていった。日曜日のことだった。宗勝は車で彼を送った。車内は、隆景を中心に広がる沈黙に支配されていた。それはまるで、激しい雨に打たれた後の大地が放つ、重く静かな沈黙だった。別れ際、隆景はやはり「またな」と言った。
彼が帰ってから数日が経った頃、父の賢勝から電話があった。弾んだ声で、話がまとまったと告げてきた。隆景と沼田小早川は、将来の婚姻という絆で結ばれ、危機に瀕していた一族の地盤は固まった。数年後、永が成長した時に二人は結婚する。
「そうそう、隆景様の生父である毛利殿も、二、三日中にお祝いにいらっしゃるとか。これほどの貴客、宗勝、お前も時間を取って戻ってこんか?」
毛利元就。その名を聞いた瞬間、宗勝の頭の中の多くの思考が氷解した。沼田小早川の面々に、これほどの手が打てるとは思えなかったのだ。毛利家のあの当主はあまりに怜悧で、彼の前では何事も隠し通すことはできない。敬いと、そして恐れを抱かざるを得ない存在。
「いや、僕は戻らないよ」宗勝は答えた。彼には、どうしても会いたくない人物だった。




