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継承のセラ  作者: 山久 駿太郎
第一章 -少年編-
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009.ゴア帝国の動き、四天将と総隊長

新暦268年、ゴア帝国の首都ヴォルガン。

重厚な扉が開かれるたび、将校たちは緊迫した面持ちで廊下を行き交った。

軍議は終わったが、戦は終わらない。

各々の任務が、彼女らを次の戦場へと急き立てている。


廊下の角。

一人、足を止めた女性将校がいた。


ゾーイ・バッケン、二十二歳。

先月大抜擢され四天将の座に就いた、新進気鋭の軍人だ。

帝国の軍に入って僅か二年。特に大きな武功を上げたわけではない彼女が選ばれたのは、

戦場で命を散らした四天将のひとりが、ゾーイ・バッケンを指名していたからだ。

北部での戦い――フェナンブルク王国の"雷神"によって自分の恩人が討たれたと聞いた時、

彼女は初めて酒に溺れる夜を過ごした。


深呼吸をする。肩にのしかかる重みを、ゆっくりと噛み締めるように。

彼女に任されたのは、南部戦線――初めて任される大舞台。

四天将という名は確かに栄誉だが、それ以上に責任という鎖が重い。

若輩者に向けられる視線は、いつの時代も決して温かくない。


「バッケン四天将、お疲れ様でした」


振り返って目に映った声の主は、少女のように幼い容姿をした女性だった。


銀色の髪が背に流れ、黒と赤の軍服が華奢な体躯を包んでいる。

その佇まいは絵画めいて美しく、同時に近寄りがたい凄みがある。


アリア・ヴェルディス、三十五歳。

"風神"の異名で呼ばれる女。

魔術師として、研究者として――彼女の名を知らぬ者は帝国に存在しない。

過度な研究によって、いつしか外見が実年齢に置き去りになってしまったアリアは、十五、六のまま見た目が変わっていない。


「あ、ヴェルディス総隊長! お疲れ様です!」

バッケンは慌てて拳を胸に当てた。

四天将という地位にありながら、まだ彼女には新兵のようなぎこちなさが残っている。


アリアは一呼吸置いて、静かに返した。


「"アリア"で結構です、バッケン四天将。今回の南部戦線――戦局の帰趨はすでに見えています。貴女にとって今回の南部戦線指揮は、きっと良い機会となるでしょう」


二人は肩を並べ、深紅の絨毯を踏みしめながら歩き出した。

足音は柔らかく沈み、静寂が廊下を支配する。


アリアはこの廊下を好まなかった。

美しいが、侵入者に有利すぎる。

合理性に欠ける。


「恐縮です、アリア総隊長。でも……正直、まだまだ分からないことばかりで」

「謙遜も板についてきましたね」


アリアは窓辺に歩み寄り、外を眺めた。

夕日が皇宮の尖塔を赤く染め、影が長く伸びている。

整然とした街並みは、秩序の表れだ。


「軍議での貴女の戦略分析、私が想定したフェナンブルクの動きと概ね一致していました。近日中に陽動作戦を仕掛けてくるでしょう」


ゾーイという若者のことを、他の四天将やアリア自身は非常に高く評価していた。

圧倒的な剣技、稀有な水属性の魔力適性、そして何より変幻自在の戦闘センス。

紛うことなく天才だった。

しかもその才に溺れず、己を律し続ける姿勢。戦局の判断力と考察力。

四天将という地位は、当然の帰結だとアリアは思う。


「何か聞きたそうな顔をしていますね。私でお役に立てますか?」

「その……軍議では聞きづらかったことがあって。戦術について、私の理解が正しいか確認を……」

「遠慮は不要です。何でも聞いてください」


アリアは振り返り、微笑んだ。

その表情には同性でも胸が高鳴るほどの魅力があり、ゾーイは慌てて咳払いをし、邪念を振り払った。


「敵の陽動をどう受ければいいのか……中央か北部に敵戦力が流れる想定なら、私は早急に殲滅して北上すべきかと。でも、もし思ったより敵が強かったら――」


声は次第に小さくなり、沈黙がそっと降りた。

アリアは、これでいいと思った。


今の戦では、武功こそが命より重い。

生き急ぐ若者を見るのは、苦痛だ。

同時に――勇猛と無謀を履き違えた味方ほど、恐ろしいものはない。


「油断は禁物ですが……陽動なら、恐らく若い騎士ばかりでしょう。指揮官である貴女が不安を見せれば、兵の士気が崩れます。憂慮は内に秘め、部下の前では泰然自若と振舞うべきでしょう」


歩きながら、アリアは続けた。

「それに――貴女の水属性魔法と剣術なら、重戦術級でもない限り敗北はありません。フェナンブルクにそんな魔術師はいませんから、少しは肩の力を抜いてもいいのでは?」


ゾーイの表情が、僅かに明るくなった。

アリア・ヴェルディスと話せる機会など、滅多にない。

自分の地位がどれほど高まったのか――それを実感し、彼女は自信を取り戻した。


「ありがとうございます、アリア総隊長。あの……恐縮ですが、もう一つ質問を」

「私で答えられることなら、何なりと」


ゾーイは恐る恐る口を開いた。

「アリア総隊長が率いる"ヴァルキリー隊"の戦闘服についてなんですが……」

「……ああ」


アリアの表情が、僅かに曇る。

ゾーイもそれに気づいて躊躇したが、胸を借りるつもりで続けた。


「その、布面積がずいぶん少ないように見えるんです。それに杖のホルダーも装着しづらそうで……戦闘に支障は?」


純粋な疑問だった。

軍人らしい実用性を重んじた、率直な問い。

本来、兵が身に纏う鎧とは異なり、軍議で報告された服は露出が多すぎる。肩が、胸元が、腹部が、足が、着用者の肌をあらわに晒している。鉄のプレートはどこにも見当たらない。ゾーイが感じた印象は、"痴女"の二文字であった。

戦場には不向きだと思うのは、何もおかしくない。


むしろ――軍議の場でこの質問を許さない雰囲気を発していたのは、他ならぬアリア自身だったのだ。


「正直……私もあのような破廉恥な服装で戦場に出るのは本意ではありません。ですが、合理的判断に基づいて設計されているため……忸怩たる思いで許可を出しました」


少女の表情は複雑だった。

心から不本意である、という顔。

ゾーイの横目に、アリアの拳が硬く握られ、小刻みに震えているのが見えた。

空気が――張り詰めていく。


呪文を詠唱していないにも関わらず、窓が開いていない廊下を不自然な風が吹き抜ける。

漏れ出る魔力、それほどまでに彼女は感情を抑えていた。


「あの設計は……空気中のマナ吸収効率を高めるためなんです。それで……その、肌の露出部分をあれほど広げて――」

「空気中のマナを……直接吸収するんですか!?」


ゾーイは目を見開いた。少しわざとらしかったかと内心後悔していたが、一度雰囲気を戻した方がいいと考えた。思惑通り、白銀の髪の少女は再び柔らかな表情を取り戻し、不自然な風は止んだ。


「そうです。先日その......わ、私自身が実証実験を行いましたが、実際に二割程効果がありました。魔法の発動には体内のマナを消費するのが常識ですが、マナの回復工程に焦点を当てて研究した部下がいたんです。魔法の発動上限を引き上げるのは、継戦能力に直結する重要な要素ですから」


アリアは窓辺に歩み寄り、外を指差した。


道行く女性は皆、杖を持っている。

身長ほどある杖を両手で持つ者もいれば、革のホルダーに小さな杖を挿している者もいる。

杖には魔石が嵌められている――色の濃い、魔物から採れる石だ。


「ゾーイ四天将もご存じの通り、私の部隊は帝国随一の精鋭です。杖本体はただの照準器――我らには魔石のみで十分。魔法の発動制御は、すべて自らの身体能力と精神力で行います」


杖を使わずに魔法を使うこと自体は、さして珍しくはない。

実際にゾーイ自身も、近接戦闘に於いて魔法を使用する。

しかしそれは――味方に被害が出ないよう、威力、角度、使用方法、すべてを緻密に計算した上で使うのだ。


ゾーイが驚嘆したのには、別の理由があった。

アリアが率いるヴァルキリーと呼ばれる特殊部隊。

帝国内でも特に魔力適正が高い者を選りすぐって設立されたこの集団は、中距離支援魔法による前線押し上げを担う部隊だからだ。

自分の身に剣が届かぬ安全地帯から、たっぷりと時間を使って狙いを定めるのとはわけが違う。

白兵戦で正確無比な援護射撃が追い風となり、凄まじい突破力を生む。


バッケンは感心しながらも、同時に自分との格差を痛感する。

アリア・ヴェルディスという人物がいなければ――フェナンブルク王国との戦を、ここまで優位に進められなかっただろう。


「……私も!私もいつか、ヴァルキリーの仲間に――」

「何を言っているのですか」


アリアは静かに首を振った。

「四天将になった以上、立場は我々より遥かに上です。その願いを叶えるのは難しいでしょう。それよりもまずは、今回の南部戦線で実戦経験を積み、功績を上げていくところからですよ―――扨て」


少女の目は、もう笑っていない。

人形のように冷たい無表情。

貼り付けていた笑顔は、仮面だった。


「ゾーイ・バッケン四天将。そろそろ前置きはいいでしょう。本当に聞きたい質問は、それではありませんよね?」


見透かされていた。

目の前にいる無垢の少女が、帝国内で畏怖の対象になる理由がやっとゾーイは理解した。


軍議で触れられなかったこと。

報告の中で感じた、強烈な違和感。

北部戦線を動かした重戦術級魔法――その成果報告について。


「はい。では、率直にお伺いします。確か……"積陣雹嵐<レイジングストーム>"でしたか。あの規格外の大規模魔法も、もちろん気になりました。複合属性魔法なんて、恐らく歴史が変わるほど破格の技術ですから。でも――そこじゃない」


はやる気持ちを抑え、若人は”風神”に問を投げる。


「何故あれほどの魔法を発動しながら、"味方に被害が出なかった"のか。きっとこの情報は、今後の戦を支配する――私はそう感じたんです」


小さな戦場を覆うほどの魔法。

当然、自軍を範囲外へ避難させる必要がある。

だが乱戦の最中、それは叶わない。

相応の犠牲があって当然なのだ。


アリアという人物は、その常識を打ち破った。

何らかの手段を用いて、戦場の全兵士に合図を送ったのだ。

敵に気取られることなく―――瞬時に。


この理論の先に、帝国の未来がある。

ゾーイには確信があった。


「……流石、最年少で四天将になっただけのことはありますね。その洞察力、貴女が同じ帝国軍で良かったと心から思います」


アリアの口調には、有無を言わせぬ威圧感が宿っていた。

「ですが……ごめんなさい。これについてはまだお話できません」

「複合属性魔法の延長にある技術なのですが、まだ実証段階なんです。研究が進んだら、改めて報告の場を設けます。それまでは――待っていてください」


「……わかりました」

期待は、していなかった。

あの場で報告されないなら、それ相応の理由があるのだろう。

ゾーイは落胆することなく素早く姿勢を正し、アリアに敬礼した。


「お聞かせいただけるその日まで、私も実力を磨いておきます!では、派兵の準備に入ります。アリア総隊長も、ご武運を」


アリアも敬礼で返した。

廊下を歩いて遠ざかる、帝国の未来を担うであろう若者の背中を見ながら、

少女は小さく、誰にも聞こえぬよう呟いた。


「こんな研究を世に出すわけには……いかないんですよ」


窓から差す夕日が、アリアの横顔を赤く染めた。

フェナンブルク王国から派遣されるであろう陽動部隊との戦いが、

間もなく始まろうとしていた。

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