005.再びの迫害、女尊男卑の文化
王国の城下町に足を踏み入れた時、セラの目に映ったのは想像していた活気ある街並みではなかった。石畳の道は所々にひび割れ、建物の壁には戦火に焼かれた黒い痕が残っている。行き交う人々の表情は一様に疲れ切っており、子供たちの笑い声すら聞こえてこない。
街角には物乞いの姿も多く、特に男性の乞食が目立つ。彼らは皆、うつむき加減で道行く女性たちの施しを待っているが、視線すら向けられることはない。
フレデリックは慣れた様子で街を歩いていたが、その表情には深い憂いが刻まれていた。騎士団副団長という地位にありながら、彼自身もこの街の重苦しい空気に押し潰されそうになっていたのだろう。案外、セラという若い希望に救われているのはこの大男の方だったのかもしれない。
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セラは周囲をきょろきょろと見回しながら歩いていたが、次第にその表情が曇っていく。獣人族の集落にあった純粋な力による序列とは、大きく異なる複雑に歪んだ人間関係――齢十一歳の少年が受け止めるには、あまりに醜悪な光景。
「セラ、腹が減ったろう。騎士団に報告に行く前に少し腹を満たしてから行こうか。おっと、この事は団長や他の団員には秘密にしておけよ」
フレデリックの提案に、セラは素直に頷いた。道中は騎士団の保存食を二人で分けながら野営を続けていたが、育ち盛りの少年には到底足りるものではなかった。
二人が向かったのは街の中心、ではなく寂れた路地裏だった。物乞いの出迎えを傍目に、汚らしい酒場へ入ったのだが...まあ酷いものだった。私は不潔な場所を好まない。すぐにでもそこから逃げ出したかったんだが、セラが離してくれなかったのだ。
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重い扉を押し開けた瞬間、むせ返るような煙草の煙と酒の匂いが鼻を突く。店内は薄暗く、ランプの明かりが揺らめいていた。そして何より印象的だったのは、客層だった。店内にいるのは全て女性。それも荒くれ者風の女たちばかりで、革の鎧や武器を身に着けた者も多い。彼女たちの視線は鋭く、まるで獲物を狙う肉食動物のようだった。酒臭い息と共に聞こえてくる会話は下品で粗野な単語で彩られ、吐しゃ物を巻き散らかしているのかと思ったよ。
セラとフレデリックが入店した途端、店内の喧騒が一瞬止まる。全ての視線が一斉に二人へ向けられ、まるで珍しい見世物でも見るような好奇の目――そして次の瞬間、あちこちで嘲笑が起こった。女たちは肘で隣の仲間を突きながら、二人を指差して何かを囁き合っている。セラは居心地の悪さを感じながらも、フレデリックに続いて奥の最も古臭いテーブルに座った。
店員の老婆が杖を突きながら朗らかな顔で近づいてきた。
「まあまあ、入る店を間違えたんじゃないのかい。ここで男が食えるもんなんて、残飯くらいしかないよ」
嘲笑うような態度に、侮蔑を込めた挨拶。まるで男性客など本来いるべきではないと言わんばかりだ。
「肉料理と、パンを。それと麦酒を二つ」
「男が麦酒を注文するなんて、今日は縁起が悪いね」
フレデリックが注文を告げると、老婆は不気味に笑いながらカウンターに戻っていった。その時、隣のテーブルから三人の女性が荒々しく立ち上がる。椅子を蹴る音が店内に響き、他の客も注目し始めた。
その女達はいずれも筋骨たくましく、傷だらけの顔に汚物のような笑みを浮かべている。その内の一人はナイフを舐めながら近づいてきた。小物臭いだろ?私は少し笑いそうだったんだよ。
リーダー格らしい赤毛の女が、わざとらしく大きな足音を立ててセラの前に立ちはだかった。彼女の後ろには黒髪の女と金髪の女が控えており、店内の他の客たちも興味深そうにこちらを見ている。
「あらあら、ここは男が来るような店じゃねえんだがねえ。それとも娼夫の営業かい? 騎士団の給料じゃ足りなくて、体売りに来たのかよ、フレデリック副団長殿」
赤毛の女の言葉遣いは下品で、酒臭い息がセラの顔にかかる。彼女の歯は黄ばみ、口元には不潔な笑みを浮かべていた。
「あたし達が可愛がってやるよ。なあ?」
そう言いながら、女はセラの頬に手を伸ばす。爪の間には黒ずんだ垢が詰まっていた。
「触るな」
セラは反射的に身を引いた。
「へえ、生意気な口きくじゃねえか。オスガキの分際でよぉ」
黒髪の女が割り込んできた。彼女の顔には大きな傷跡があり、左目は白く濁っている。どうやら義眼のようだった。
「そそるじゃん。ねえ坊や、大人しくしてればね、気持ちよくなれるよ――あたし達がね!ギャハハハ!」
「男なんて所詮は女の奴隷よ。せいぜい家で皿洗いでもしてるのがお似合いなのに、こんなとこまで来るならそれなりに覚悟出来てるんだろうぜ」
金髪の女が追い打ちをかける。彼女の甲高い嘲笑は不愉快の一言だった。特にこの金髪女は唾を飛ばしながら話すのが不快でな――私に飛んできたんだよ!臭い唾が!許せないだろう!
...話が反れてしまったな。すまない。
セラの拳が小刻みに震え始める。奥歯を噛みしめる音が、自分の耳にも聞こえるほど――カルラに育てられた彼にとって、女性を敬うのは当然のこと。だがこの侮辱的な物言いには、我慢の限界があったのだろう。
「いい加減にしろ!」「落ち着け、セラ」
セラが立ち上がろうとした瞬間、フレデリックの大きな手が彼の肩を押さえた。鉄のような重い手で。
彼の声は静かだったが、それは怒りでなく、諦め。
「そうよ坊や、大人しくしてな。そこの役立たずの副団長殿も分かってるじゃねえか」
赤毛の女はさらに調子に乗って続けた。彼女は故意にフレデリックの前に回り込み、見下すような視線を送る。
「男なんて結局、女がいねえと何もできねえ哀れな生き物なのよ。戦場でも足手まといにしかならねえし、魔法も使えねえ。せいぜい力仕事くらいしか取り柄がねえんだから、とっとと諦めて女の靴でも舐めてろ」
「本当よね。男に生まれただけで人生終わってるようなもんだわ。特にこのでけえのなんて、図体ばっかりでかくて中身は空っぽなんじゃねえの?」
「坊やも早く諦めて、どこかの女性に飼ってもらいな。それが男の幸せってもんよ。ああ、でもこんなガキじゃあ、誰も拾ってくれねえかもな。せいぜい奴隷市場で二束三文で売られるのがオチだ」
三人の女たちは口々に罵詈雑言を浴びせかけた。よくここまで口が回るものだと感心したよ。女共の言葉は段々とエスカレートしていき、もはや人格を完全に否定するレベルに達していた。セラは爆発寸前だったが、肩に置かれたフレデリックの手は重く、絶対に手を出すなという強い意志を感じた。フレデリックは微動だにせず、ただ静かに耐え続けていた。
「あらあら、フレデリック副団長とあろうお方が言葉も出ないじゃない。情けねえったらありゃしないねえ」
「きっと怖くて震えてるのよ。男って本当に弱っちい生き物ね。面も好みじゃねえし、見てるだけで気持ち悪くなってくるわ」
店内の他の客たちも、この光景を見て楽しんでいるようだった。誰一人として止めようとする者はいない。それどころか、さらに酷い言葉を投げかける者まで現れた。まるで公開処刑を見物する群衆のような残酷さがそこにはあった。
セラの怒りはいよいよ沸点に達しようとしていた。幼い頃からカルラに叩き込まれた誇りが、この屈辱的な扱いに激しく反発している。店内の空気も更に悪化していく。女たちの笑い声は段々と狂気じみたものになり、セラを見る目には明らかな敵意が込められていた。まるで彼の存在自体が許せないとでも言うように。
「はあ...もういい、行こう」
フレデリックがようやく口を開いた。彼は立ち上がると、腹は満たされていないがテーブルに銅貨を数枚置いた。その動作は機械的で、感情を完全に殺していることが分かった。
「おい行っちまうのか?空気で腹が膨れちまったのかよ、情けねえ男たちだな。やっぱり男は根性なしばっかりだ」
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女たちの嘲笑が背中に突き刺さる中、二人は酒場を後にした。扉が閉まった後も、店内からは笑い声が聞こえ続けている。外に出ると、案の定セラの怒りが爆発してな。全身が怒りで震え、顔は真っ赤に染まっていたよ。
「なんで黙ってたんだよ! あんな奴ら、あんたなら泣かせることくらい訳なかっただろう!」
フレデリックは振り返ると、深いため息をついた。
「セラ、あれが今の王国の現実なんだ。我々騎士団が守るべき民である者たちを、どうして傷つけることが出来ると言うんだ」
彼の声には深い疲労が滲んでいる。まるで何度も同じことを繰り返し説明してきたかのような、諦めにも似た響き。まるで重い荷物を背負い続けてきたような――そんな力ない声色に、セラも口をつぐんでしまう。
「戦争が長引いて、みんな余裕を失っている。強い者が弱い者を虐げ、自分より下だと思う相手を見つけては憂さ晴らしをする。それが当たり前になってしまった」
街を行く人々の表情を見れば、フレデリックの言葉が嘘ではないことが分かる。誰もが疲れ切っており、他人を思いやる余裕など微塵もない。特に男性たちの表情は暗く、まるで生きる希望を失ったかのようだ。セラは拳を握りしめたまま、彼の言葉を聞いている。
「男性というだけで見下され、馬鹿にされる。君が感じた屈辱は、この国の……いや、多くの人族男性が日常的に味わっているものなんだ」
フレデリックは空を見上げた。雲が厚く垂れ込めており、今にも雨が降り出しそうだ。その空の色は、まさに王国の現状を表しているかのようである。
「吾輩が騎士団に入ったのも、こんな状況を変えたいと思ったからなんだ。力で解決できる問題ばかりじゃないが、それでも何かを変えられるかもしれないと信じて」
彼の言葉には、諦めと希望が入り混じっている。それでもなお、フレデリックという男の火は消えていない。
「セラ、君を騎士団に招きたいと思ったのは、戦闘技能だけが理由ではない。折れない心こそが一番肝要なのだ。説明の手間が省けたといえば聞こえはいいが、いずれにせよ騎士団内でもこういった待遇を受けることはあるだろう」
セラは暫く黙っていた。カルラの集落でも疎外感を味わったが、それとは質の違う屈辱。あの酒場での出来事は、彼の世界観を根底から覆すものだった。
「...なあフレデリック、人族の男として生きていこうと思ったら、この扱いからは逃げられないってことだろ?」
「そうだ。」
「あんたは騎士団で、それを変えようと思ってるんだよな?」
「そうだ。」
セラはまだ怒りが収まらないまま、フレデリックに端的な質問をした。少年の中で、小さな火が灯った瞬間だったのだろう。共にいる私にも強い意志の力が、魂の波動が響いてきた。
「オレは、食えて寝るところがあればそれでいいと思ってた。でも...」セラは拳を握りしめた。
「少しだけ、ほんの少しだけ、ムカついた。だから、やるよ。騎士団」
「そうか...君は本当に強い子だな」
「母さんに鍛えられたからな」
セラの答えに、フレデリックは小さく笑った。それは久しぶりに見せる、心からの笑顔だった。
「カルラという方は、きっと素晴らしい女性だったんだろうな」
「ああ、世界で一番強くて、優しい人だ」
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二人はそのまま騎士団本部に向かって歩き続けた。石畳の道を行く人々の視線は相変わらず冷たかったが、セラの歩き方には先ほどまでとは違う決意が感じられた。背筋が伸び、足取りも力強くなっている。
街の景色は相変わらず荒廃していたが、セラの目にはそれが変えるべき現実として映っていた。破れた看板、ひび割れた石畳、疲れ切った人々の顔。全てが彼の記憶に刻み込まれていく。二人は腹の虫を抑えながら街中を進み、物々しい建物にたどり着いた。街を抜け、二人が辿り着いたのは、城塞のような石造りの建物だった。
装飾は一切ない。
敵を拒絶する為にのみ存在する要塞。
5mはあろうかという武骨な鉄の扉は冷たく、暗い印象を受けた。
「フレデリック副団長、お帰りなさいませ」
門番の女性兵士が敬礼する。その視線がセラに向いた瞬間、明らかに表情が曇った。
「シンシア団長が、執務室でお待ちです」
隣に立つ大男の表情が、一瞬強張った。
それは僅かな変化だったが、セラは見逃さなかった。
「...分かった」
重々しく扉が開き始める。その奥から、研ぎ澄まされた殺気にも似た、張り詰めた空気が流れ出てきた。
「セラ」フレデリックが低い声で言った。
「これから会うお方は特別な方だ。気をつけろよ」
少年は槍を握る手に、自然と力を込めていた。




