038.辺境の会談
スマゴラの外れにある、納屋と見間違えられるほどの小さな家。
天井は低く、窓は一つ。ベッドと机、それに椅子が二脚。
あとは食料棚と、壁に立てかけられた槍が一本――それだけだった。
夏のフェナンブルクは、元々乾燥した荒地を殊更に乾かしていく。
落ちた汗を飲もうと口を開ける魔物のように、大地のひび割れは広く深くなっていく。
集まったのは、
私、セラ・ドゥルパと――
フェナンブルク王国騎士団長シンシア・ルーヴェンと、その右腕フレデリック・アーケイン。
そして、ゴア帝国ヴァルキリー隊総隊長、"風神"アリア・ヴェルディス。
別に不満があるわけではないが、この家は決して広くない。本当に広くないのだ。
そこに四人――しかもその内の一人、フレデリックは身長二メートル近い大男ときた。
狭い。狭すぎる。
沈黙を破ったのは、シンシアだった。
「...フレデリック。男性騎士の住まいというのは、総じて――こうなのか?」
ちらり、と彼女の視線が部屋の隅々を巡っていく。
粗末なベッド、硬いパンが入った木箱。哀れみの目がフレデリックに向けられた。
「概ね、その通りであります」「...そうか」
団長は、わずかに眉間に皺を寄せて、短い溜息を吐く。
「とにかく、腰を落ち着けて話そう。椅子は――二つか。」
フレデリックが椅子を引き、シンシアは慣れた所作で腰を掛ける。
自分も、と思った時には――時、既に遅し。アリアは団長の対面に座っていた。
椅子、引いた方がよかっただろうか。
二人の視線が交叉した刹那、夏とは思えないほどの冷えた空気が首を絞める。
会談、と言っていいのかは分からないが――今日、歴史が動く気がする。
「では、改めて。アリア・ヴェルディス総隊長」
シンシアが、真正面からアリアを見据える。
視線には一切の色がない。ただ、真偽を計ろうとする冷たい光だけがある。
「ここにいる全員で、互いの立場と意図を確認しておきたい。貴女はゴア帝国の"風神"にして、ヴァルキリー隊総隊長。帝国より和平交渉の使者として派遣された、という認識で間違いないか?」
「はい。その通りです」
迷いなく、そして揺るぎない声。
その横顔を見ながら、私はふと思い出す。
劫火に照らされた彼女の――人形のように何かを失った顔を。
今そこにいるのは、
私と同じ人か、
意思を持たない傀儡か、
もしくは...殺戮者か。
「貴殿がドゥルパの故郷の近くで見たものについては、おおよそ彼から聞いている。獣人族の集落の異常、そしてその後の惨劇。貴女の口からも、改めて話して欲しい」
「分かりました。隠すことは、何もありませんから」
アリアは一度だけそっと息を吸うと、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
山での迷走、フェンリルとの遭遇、母さん達との出会い、集落での半年。
あの穏やかな日々から、突然歯車が狂い始めたあの夜のこと。
獣人達が狂い、互いを食い破り始めた目を覆いたくなる惨劇。
彼女は一つ一つを淡々と、だが一切の誤魔化しなく語っていく。
自分の手でカルラたちを逃がしたことも、獣人族を皆殺しにしたことも、焚き上げたことも。
フードを被った得体の知れない誰かのことも。
――胃から、嫌なものが這い出ようと上がって来る。
団長は黙って聞き続けた。
しかし、私ですら分かる。友好的な雰囲気ではない。
アリアが発する言葉の全てに、疑いを掛けているのを隠そうとしない。
フレデリックは腕を組んだまま、静かに目を閉じている。
何を考えているのか、表情からは読み取れなかった。
「――そして、そこにセラくんがやってきました」
アリアの話は、あの集落の炎の中で私と視線を交わしたところまで続いた。
自分の話を人の口から聞くのは不思議な感覚だ。あの時の自分が、どう見えていたのか。
彼女の言葉には、責める色も、弁解もなかった。ただ、事実だけが並べられている。
「以降のことは、セラくんから聞いて戴いた内容と相違ないと思います」
アリアが話を締めると、部屋の空気はさらに重く沈んだ。
「貴殿の言う通り、ドゥルパから事前に聞いていた話と相違は無いようだ」
団長の声は――静かな声なのに、妙に響く。
「では、本題に入らせてもらう」
「貴殿は、フェナンブルク王国との和平を成立させる意志がある。これはユークリッド皇帝...ゴア帝国としての公式な方針であると理解していいか?」
「はい。陛下は、戦争の長期化による民の疲弊を憂い、この戦を終わらせる道を模索しておられます。その一環として、私にフェナンブルク王国への和平交渉を命じました」
団長の目が、ほんの一瞬だけ私の方を掠める。
すぐにアリアへと戻るが、その刹那に何かを測るような鋭さが宿っていた。
「次だ。ドゥルパの保護の下、貴殿はここに滞在することを彼に希望したと聞いている。これは貴殿自身が"人質"として我が国に身を預ける、そう解釈していいのか?」
シンシアは淡々と、義務的に質問を重ねていく。
一切の感情が排除された声で。
アリアは一瞬だけ目を見開いた。
それから、真剣な顔で、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「そのような意味ではありません。私は大好きなセラ君と一緒にいたいだけです」
言葉そのものは、静かで、当たり前のことを述べるような調子だった。
だがその意味が、頭の中に届き――理解されるまでに、妙に時間がかかった。
数拍の後、ようやく自分の耳が聞いた内容を処理し終えた瞬間――顔から火が出そうになった。
何を――言っているんだこの女。
アリアはアリアで、自分の口から出た言葉の意味を理解したと同時に目を見開いた。
「えっ――えっ!?い、今のはそのっ、あのっ......え?私、何を!?」
耳まで真っ赤になり、両手で自分の口を思い切り塞いでいる。
顔を上げようとしながらも、恥ずかしさに耐えきれず俯く姿は、いつも見ている冷静な"風神"とは別人だ。
自分の心臓がやかましい。
落ち着け。
「だっ、大好きって……お前、その、何の……!」
まともな言葉が出てこない。視界の端で、フレデリックだけが不自然なほどに笑顔だった。微笑ましい日常を見守るような大らかさが、逆に現実を強く認識させる。
そんな中、団長は怪訝そうな顔で、私達のやり取りを見ていた。
「ちっ、違います!違――わなくはないか!いえ、失礼致しました!続きを!!ルーヴェン殿!」
アリアは完全に自分で自分の言葉に絡まっていた。
膝の上で握りしめた拳が震えている。何故か、私の方まで恥ずかしさで死にそうだ。
「......仕切り直すぞ」
普段から感情が読み取りにくいシンシア団長だが、今なら分かる
額に薄く浮かんだ青筋が、明らかに増えている――正直、少し怖い。
「我々がこの家に到着した際、扉を開けるまでに少々時間がかかった――何をしていた?」
明確な疑念――アリアを試している。
僅かな綻びでも見せようものなら剣を抜く。そんな気迫が伝わってくる。
しかし、"風神"は動じない。目を逸らさず堂々と答える。
「ベッドでセラくんの匂いを堪能していたのです。裸だったので服を着るのに時間を要しました」
「「「......うん?」」」
「あっ」
聞き間違いだろうか――その一言さえも口に出せない。
ここまではっきりと言い切られるとどうしようもない。
蝉でさえも鳴くのをやめたような気がした。
”匂いを堪能"という単語が、鈍器のように私の脳を揺さぶる――
今すぐ逃げ出したい...
「あっ!?あぁっ!!!!なんでっ!!!?」
彼女の目の奥に浮かぶ、こんなはずではなかったという絶望。
それが妙におかしい――いや、笑い事ではないのだが。
私はもう立っているのがやっとだった。母さんの訓練でもここまで膝が笑ったことはない。
「シンシア・ルーヴェン!な、何かのアーティファクトを使っているのですかっ!?こんな...こんな屈辱は生まれて初めてです!」
涙目でシンシアを指差すアリア。
団長は心底困惑したような顔で首を傾げた。
「残念ながら、そのようなアーティファクトの存在は知らないが...」
「うそ...じゃあ、じゃあ何で私はさっきから……!」
「――で、どんな匂いだった?」
「彼の汗と...むぐ!?」「団長っ!もう勘弁してくださいっ!」
もう限界だ。咄嗟に私はアリアの口を手で塞いだ。
これ以上余計なことを言われてはたまったものではない。
いつまでその顔をしているつもりだ!フレデリック!
「脱線したな。最後の質問だ。我々は貴殿の痴態を知りたいわけではない」
「.........死にたい」
耳まで真っ赤になっているアリアを綺麗に無視し、団長は淡々と続けた。
「和平交渉に関して、最後に一点だけ確認する。帝国の"風神"アリア・ヴェルディス。フェナンブルク王国との和平の意思に、偽りはないか?」
室内の空気が、一段と冷えた気がした。
この問いには、どんな茶化しも許されない。
アリアは、深く、息を吸う。そして――きっぱりと答えた。
「はい。ユークリッド・フェアリーロック・ゴア陛下に誓って、偽りはありません」
先程までの混乱した響きは一切無い。
穏やかながら、強く、静かな火を秘めた声だった。
シンシアは長い間、沈黙していた。推し量っている。
両国の龍は目を逸らさぬまま、時間だけが経過していく。
やがて――ほんのわずかに頷く。
「......承知した」
一言だけで、何か大きなものが動いたような気がした。
団長は私の方を向いた。
「セラ・ドゥルパ一星騎士。先ほどの彼女の言葉に、違和感や矛盾は感じなかったな?」
「はい。少なくとも、私には嘘には聞こえませんでした」
本心に、期待が混ざってしまったのは致し方ないだろう。
まあ、あれだけ恥ずかしいことも正直に口にしてしまっているのに、今さら大事なところだけ嘘をつけるとは思えなかった。
「フレデリック。」
「吾輩にも、あの言葉に偽りはないように思えました」
シンシアは小さな呼吸をひとつ置き、結論を口にした。
「よし。であれば――次は我々の番だ」
彼女は椅子から立ち上がる。
背筋を伸ばし、団長としての顔に戻っていた。
「アリア・ヴェルディス総隊長。貴殿の身柄については、暫くの間ドゥルパの監督下に置かせてもらう。その間に、私からヘンリエッタ国王陛下へ上申し、正式な謁見の場を設けられるよう調整しよう」
アリアの目が、大きく見開かれる。
「ヘンリエッタ...王ですか?オーギュスト王は退位されていらしたのですね」
「...つい先日、崩御なされた」
「そう...でしたか」
「いつまでもこの狭い――失礼。辺境の一軒家で秘密裏に進められる話ではない。その時が来たら、王の前で、改めて話してもらう」
団長はゆっくりと手を差し伸べる。
「アリア・ヴェルディス殿。貴殿の勇敢な行動と、ユークリッド皇帝陛下の聡明な決断に――心から、感謝する。共に夜明けを目指そう」
「ええ、共に。」
二人は机の上で、しっかりと手を取り合った。
変わる。変わるんだ。
多分、いや確実に、今日この場に同席出来たことはきっと意味があった。
「ドゥルパ」
「はっ!」
「君には引き続き、彼女の監督という役目を頼みたい。出来るか?」
アリアがびくっと反応し、こちらを見た。
その目に映るのは、不安と期待と、少しの申し訳なさ。
「拝命致します」
「よし。では、今日はここまでにしよう。フレデリック副団長、行くぞ」
二人は扉の方へ向かう。
シンシアがふと振り返った。
「ドゥルパ――くれぐれも、問題を起こすなよ。お前は十二歳だろう。"そういうの"はまだ早い」
「......?団長、"そういうの"、とは何のことですか?」
「――ハイネにでも聞いておけ」
扉が閉まる音が響き、家の中に再び静寂が戻る。
隣を見ると、アリアは両手で顔を覆ったまま、小さくうずくまっていた。
「...アリア、ごめん。なんて言えばいいか分からない」
「で...すよね」
和平の道は、まだ遥か遠い。
だけど、確かに今、何かが動き始めた。
きっといつか、両国が肩を組んで朝日を迎える日が来ると――信じたい。




