036.祝杯
酒場の喧噪が、どこか遠くから聞こえる。
木製のテーブルに肘をつきながらぼんやりとジョッキの縁を指でなぞっていたところで、耳元に突き刺さる声が飛んできた。
「ちょっと隊長!聞いてます!?」視界が、現実に引き戻される。
「……え?ああ、悪い。聞いてなかった」
「もう~!ぜんっぜん聞いてないじゃないですか!どうしたんですか?」
目の前には、頬をふくらませたビューラがいる。
茶色のウェーブがかった髪を揺らしながら、じっとこっちを覗き込んでいた。
スマゴラの街の一角にある酒場では、珍しく活気で溢れている。
あちこちで起こる笑い声と罵声、そして鼻をつく酒と汗と香辛料の匂い。
戦の余韻を洗い流そうとする騎士たちの声が、分厚い空気を震わせていた。
ハイネが提案した祝いの場。
シグヴァルド要塞を落として、全員無事に戻ってこられた。その祝杯だ。
そのはずなのに...
「セラくん、さっきから自分の世界に入ってはるなあ?」
隣の席で、ハイネがニヤニヤしながら葡萄酒の入ったグラスを揺らしている。
小麦色の髪がよく似合う女は、今日もいつも通り上機嫌だ。
その時私の頭の中では、昨夜の光景が繰り返し再生されていた。
薄暗い部屋、
揺れる蝋燭、
肩を寄せ合って座ったベッドの縁、
そして、あの瞬間――重なり合った影を。
『い、いいですよね?』
視界は塞がれ、柔らかいものが触れて、心臓ばかりがうるさく動いていた。
キス、というやつなのだろう。理屈では分かる。ただ、経験がない。
そもそも人は、あんなことをしてどうするのだろうか。何が変わるわけでもないのに。
――変わっているのは、私の方か。
気づけば私は、自分の唇にそっと指を当てていた。
昨夜と同じ場所を、確かめるようにになぞってみる。
そこに、まだ彼女の体温が残っている気がして。
「やっぱり。なんか変やと思たわ」ハイネの声色が、いつもより一段低くなる。
「な、なんだよ」
「セラくんさあ。今の仕草、十二歳にしてはちょっとエッチすぎやない?」
大きな音を立て、フォウのジョッキがテーブルに叩きつけられる。
「私も、そう思う!いつにもまして魅力が増している。正直、最高だ。いやホントさいこう」
すでに頬は赤く、目はとろんとしている。フォウめ、既に酩酊状態じゃないか。
「さいこう...」「フォウ、分かったから落ち着け」
店主に飲み水を注文し終えると、ハイネの目が真っすぐと私捉えていることに気付く。
「なあ、セラくん。なんかあったやろ」
「な、なな、な……っいやその、別に、なんでも――」
一気に全員の視線が自分に集まったような錯覚。
座っている椅子の足が、軋んだ。
バランスを崩した身体は、そのまま後ろにひっくり返る。
「うおっ――」
背中から床に落ち、頭をぶつけた衝撃で、酒場の天井がぐるりと回った。
「きゃっ!?た、隊長!大丈夫ですか!?」
ビューラが椅子を蹴り飛ばす勢いで飛んできて、私の顔を覗き込んだ。
ウェーブの髪がふわりと落ちてきて、視界が茶色に染まる。
相変わらず、誇張の激しい眉毛だ。
「だ、大丈夫だ。ただ、ちょっと驚いただけだ」
「顔真っ赤ですけど!?熱ないですか!?おでこ触って――」
「や、やめろ、恥ずかしいだろ!」
「で、実際ヤられちゃったんですか?」
「お前は何を言ってるんだビューラ!!」
思わず素で叫んでしまう。
「だから、オレにはその意味が分からないんだって!なんだよヤるって!」
酒場の視線が、またこちらに流れていく。
騒がしい場所なのに、このテーブルだけ妙に音が大きい気がするのは気のせいだろうか。
「ぷっ……だあははははははははははっ!!」
隣でハイネが椅子から転げ落ちそうなほど腹を抱えて大笑いし始めた。
机をばんばん叩きながら、涙まで流している。
どいつもこいつもっ!
「ヤる言うたらなあ、意味なんてひとつしかあらへんのよセラくん。ウチの大将は純粋やなあ。オモロすぎるわ」
笑いすぎて言葉がちぎれ、その度にまた笑いの波が訪れる。
「おいウィル!フェナンブルクの英雄殿に教えて差し上げえ!ぷっ...ヤるってどういう意味か...ぷひひひっ!!」
突然、とばっちりを受けたのはウィルだった。
太い腕でジョッキを持っていた彼は、思いきりむせている。
「げほっ、げほっ!?な、なんで私に振るんですかハイネさん!」
「自分とこのガキンチョに教える予行練習や思てなあ!ええ機会やで?」
「ウィル、教えてくれ!どういう意味なんだ!」
「そ、それは……いや、その……」
ウィルの顔が、酒以上に真っ赤になる。
額に汗まで浮かび、視線は泳ぐ。普段から落ち着いている彼からは想像もつかない挙動不審っぷりだ。
そんなに説明が難しいことなのだろうか。
「ゆ、ゆ、ゆっくり教えるものだと思いますし、で、ですからここで大声で説明するのはですね……」
「ずばっと言うたり!ほれウィル!これじゃあウチらの隊長が馬鹿にされてまうやないの!」
「いやハイネさんがそれ言います!?」
ハイネはまた笑い転げる。
ウィルの言葉の端々に「息子」という単語がこぼれるのが聞こえた。
以前、彼の家へ送っていく時に、そっけない少年の姿を見たのを思い出す。
ウィルも今、悩んでいるのかもしれない。
「おい」
聞きなれない低い声――
赤毛の女がひとり、カウンター席からこちらに歩いてきていた。
見覚えのある、鋭い目つきと、黄ばんだ歯を見せて嗤っていたあの顔。
すぐに、あの日の光景が蘇る。
酒と煙草と、嘲笑に満ちた、あの路地裏の酒場。
「お前……あの時の……」
目の前に立った女は、あの酒場で私とフレデリックを散々侮辱してきた、赤毛の荒くれ者だった。
「なんや、ウチの大将に用かいな」
ハイネが椅子をくるりと回して立ち上がる。
肩に肘をかけるような気安さでありながら、その瞳には鋭い光が宿っていた。
「今、楽しんどんねん。邪魔しはるなら、相手になるさかい……ビューラがな」
「えええええええぇ!?わ、私ですか!?」
ビューラが素っ頓狂な声を上げる。
「ちょ、ちょっとハイネ先輩!?なんで私!?」
「そらビューラが一番下っ端やからな。」「くぅ~それはっ!正論すぎますっ!」
赤毛の女は、そんなやり取りを見て、わずかに顔をしかめた。
そして意外なほど小さな声で口を開いた。
「あ、あの……あの時は、その……すまなかった」
酒場のざわめきが、少しだけ静かになった気がした。
「お前、酒場で突っかかってきた...」
「ああ。あたしだよ。あん時、あんたと、その...副団長をさんざん罵った野蛮な女さ」
自分でそう言って、苦い顔をする。
口調は相変わらず下品だが、あの時のような嘲りは含まれていない。妙にしおらしい。
「他の二人は一緒じゃないんだな」
口から勝手にその言葉が出ていた。
あの場で私たちを取り巻いていた、黒髪の女と、金髪の女。
「――シグヴァルド要塞の坂で、挽肉になっちまったよ」
酒場の喧騒が戻る。
誰かが笑い、誰かがグラスをぶつける音。
それでも、目の前の女の声だけは、妙にはっきりと耳に残った。
「そうか」
スカルドホルムの顔が、頭をよぎる。
無謀な突撃命令で、どれほど多くの命が無駄に散っていったか。
ただひとつ、確かなことがある。
私にとって、家族や仲間以外の命はあまり関係ない。
だからこそ驚いた。
私の口から出た言葉に。
「もっと早くオレがスカルドホルムを止めていれば――”悪かったな"」
口をついて出たそれは、不思議なことにストンと私の心に落ちた。
赤毛の女は椅子を蹴るような勢いで一歩踏み出した。
「バカ言ってんじゃねえよ!」
私が顔を上げるより先に、彼女の怒鳴り声が飛んできた。
「むしろ、あんたがいなけりゃ、あたしもあの坂でとっくに死んでた!」
酒場の視線が、三度こちらに集まる。
「だってそうだろ?あんたが門を開けてくれなきゃ、誰も上に辿り着けなかった。スカルドホルムの命令なんざ、あたしだって無茶だと思ってたよ」
女の目は以前のような蔑みではなく、どこか悔恨を含んだ色をしている。
「あんたの背中を見て、やっと分かったんだよ。誰かを、国を守るってのが、どんだけ難しいことかってな。偉そうに弱いもんを踏みつけて笑ってた自分が、どんだけちっぽけだったかもよ」
赤毛は、わずかに視線を落としたあと、深く息を吸い込んだ。
「だからよ!あたしは騎士団に入りたいと思ってる。その時は――よろしく頼むぜ」
そこまで言って、彼女は頭を下げた。
不格好で、ぎこちなかったが、それでも確かに頭を垂れていた。
「……名前を、聞いてもいいか?」私の問いに、赤毛は顔を上げた。
「あたしはクリスティン。クリスティン・イドだ」
「分かった。騎士団で会えるのを待ってるよ、クリスティン」
そう返した矢先、赤毛の女に肩を組む酔っ払いが一人。
「クリスティン!よろしくな!私の隊長に手を出すんじゃないぞ。絶対にだ!」
フォウだ。クリスティンは困惑している。
「え、いや……そういう意味で言ったわけじゃ――」
フォウは酔った目で、じっと私を見た。
真剣な顔をしているが、焦点が合っていない。
クリスティンはそんな空気に押されてか、ガシガシと頭をかく。
「へっ、変な隊だな。ま、覚悟しておくさ。入団試験受ける時は、また顔出すからよ!」
そう言って、彼女はカウンターに戻っていった。
背中を見送りながら、私は葡萄酒のグラスを手に取る。
初めて口にした酒は、あまり美味しいとは思えなかった。
口に含んだ瞬間、渋みと酸味が舌を刺し、喉を熱く通り過ぎていく。
戦場で飲んだ水の方がまだ、身体に馴染んでいた気がした。
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夜は更け、騎士達の息抜きも一段落した。
皆で店を出て、それぞれが帰路に就く前に私はハイネに声を掛けた。
「なあ、ハイネ」
「ん?どしたんセラくん。ウチのこと好きになった?」
「ならねえよ」
即答すると、何故か周囲から笑いが起きる。
いつもの、騎士団の空気だった。
「インペリエと対峙したあの時、ハイネがいなかったらオレは死んでた――本当にありがとう」
頭を下げた。
ハイネは暫し黙っていたが、やがていつもの笑みを浮かべた。
「そんな改まらんでええのに。隊長助けるんは当たり前やろ?」
「それとさ――お前、今までオレに手加減してたな?訓練の時と全然動きが違ったぞ」
酔いが醒めたか、"雷神"の瞳は宙を泳ぐ。
「えっ?う、うーん、どうだったかなあ......バレた?」
「バレバレだ。これからは、もうするなよ」
ハイネの目が、わずかに丸くなった。
「本気じゃなきゃ、意味がない。オレは、もっと強くなりたいんだ。お前を、仲間を守れるように」
彼女はしばらく何も言わなかった。
ただ少しばかり、頬が赤いような気がした。
既視感があるな――最近、同じことがあったような...
「...そういうとこ、やっぱり他の男とは違うんやね、セラくん――流石、ウチの大将や」
「大きくなったら――ウチだけの大将にならへん?」
「はあ?どういう意味だ?」
「ああああああああ!!ハイネ先輩っ!ダメダメ!抜け駆けダメ!」
「なんやビューラお前!下っ端は向こう行っとけや!今いい感じやねん!」
「たいちょおっ!捨てないで!私のこと捨てないでえっ!」
「フォウさん!もう私背中に吐かれるの嫌ですよ!?息子から散々言われたんですから!」
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初任務、全員で生きて帰った後に交わした祝い酒は――悪いものではなかった。
仲間が沢山笑っていて、訳の分からない話で盛り上がって。
街灯の少ないスマゴラの空は、獣人族の集落で見上げた夜空を少しだけ思い出させる。
舌の奥に残る葡萄酒の味が薄れていくのを感じながら、
私は仲間達を見送った。
「オレも帰るか」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
頬に当たる夜風は、熱を持った顔にはちょうどよかった。




