035.邂逅
- 時は少し遡り、新暦269年晩春。セラが一星騎士に叙任される一か月前... -
シグヴァルド要塞を落とした私達は、百人ほどの騎士達を残しフェナンブルクに帰還した。
道中、多くの女兵士から賞賛の声をもらったのは意外だった。
小隊の仲間の背中を見て、この国の下らない文化が変わろうとしているのだろうか。
そう思うと、足取りは少し軽くなった。
一か月の徒歩を経て、やっと帰ってきた。フェナンブルクに。
日はとうに落ちて、窓の外は濃い藍色。遠くでかすかに聞こえるのは、街の酒場から漏れる笑い声と、遅くまで鍛錬をしている騎士達の掛け声くらいだろうか。
戦の前と比べると、そのざわめきには幾分か明るさが混じっている気がする。
これが、戦いに勝ったということなのだろうか。
街に活気が出てくるのは良い事だと思う。
浅慮な考えがふと頭を過ったとき、"彼"が語ってくれた戦争の本質を思い出す。
まだまだ私は――無知な子供みたいだな。
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兵士達はそれぞれ帰路についた。
隊のみんなに労いの言葉を掛けようと思った矢先、ハイネが大声で私の名を呼ぶ。
「セラくーん!明日は飲むでえ!祝い酒や祝い酒!小隊みんなで集まろうや!」
活力のある甲高い笑い声だ。
要塞からの帰還報告や後始末もようやく一段落し、明日は丸一日、訓練も任務も入らないと聞いた瞬間、あの女は目を輝かせて言い出したのだ。
随分と元気が有り余っている――それもそのハズ。
私の黒雷で一時的にでも戦闘不能に陥ったハイネは、道中ずっと担架で運ばれていた。
ウィルはずっと、フォウとビューラは交代で彼女を運び続けたのだ。
疲労がありありと顔に浮かぶフォウは、呆れたようにため息をつきつつも口元は緩んでいたし、
ウィルは「そうですね!小隊で初の任務成功ですし!」と、本当に嬉しそうだった。
「店の樽をすっからかんにしてやりましょうっ!楽しみですっ!」ビューラも息巻いている。
...いい顔をしていた。
みんな、ちゃんと生きて帰ってきた。
その事実が、私にとっては何より嬉しい。
仲間との明日を楽しむためにも、
私は今日、やらねばならないことがあった。
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「……ただいま」
スマゴラの街の外れは、相変わらず閑散としている。
小さな我が家の扉を静かに開けて、家の中に一歩足を踏み入れた瞬間、胸の奥に沈んでいた別の重みが、ずしりと存在を主張してくる。
「あ、おかえりなさい。セラ」
「...ただいま、アリア」
粗末なベッドの上に腰掛けていた怪我人は、ゆっくりとこちらを振り返る。
長い白銀の髪、少女のような出で立ち。
比喩ではなく、本物の殺戮者であると同時に――母さん達を助けてくれた恩人。
彼女はゆっくりと立ち上がり、拙い足取りでこちらに近づいて来た。
シグヴァルド要塞に向けて出発する頃は、自力でなんとか上半身を起こすのが限界だった。
まあなんだ、その...不可抗力で裸を見る機会が多かった。便所もいけなかったからな。
そんな中彼女を家に残すのは心苦しかったが、他でもないアリアが強くそれを望んだ。
当初はこう思っていた。私に世話をされることが、彼女のプライドを傷つけてしまうのだと。
しかし――今は違う。
「随分と...動けるようになったんだな」言いながら、部屋の中をぐるりと見回す。
洗い替えの包帯はきちんと畳まれ、薬草の束も整理されている。
手の届かなかった棚の上の水差しが、机の端に降ろされていた。
「ええ。セラのおかげです。本当にありがとうございます」
今こうして話している目の前の女は――
きっと多くの、私の仲間を殺しているのだろう。
「全く痛まないと言ったら嘘になりますが...もう、自分の足で立てる程度には回復しました」
お互いが誰なのかを理解している。
そして――お互いが敵であることを知っている。
「お、お手洗いも!一人で大丈夫ですからね!」
頬を赤らめる無垢の少女と、これから話すことがどういう帰結を迎えるのか。
未だ答えは出ないままだ。
「あ、あの......セラくん?どうしましたか?」
アリアの目を見ながら、ベッドに腰掛けた彼女に歩み寄る。
細く揺れる蝋燭の炎が、二人の影を照らし出す。
「セラくん...ダメです――私達、まだ、あの、知り合ったばかりで、その...そういうのはもっと大人になってから――」
「アリア。」「は、はいいぃっ!」
彼女が何故集落にいたのか、目的が何なのか。
聞かなければいけない。
「ヴァルキリー隊総隊長、アリア・ヴェルディス。帝国の"風神"――人の領域から足を踏み外した研究者。あんたに聞かなきゃいけないことがある」
少女の目は、黒よりも暗い闇の色。
幼い頃、月の無い夜に井戸の中を覗き込んだ時を思い出す。
こんなに重たい空気は初めてだった。
とても長い沈黙を経て、少女は口を開いた。
「――――――異名まではいいです。しかし何故、私の研究のことを、ご存じなのですか」
「ローレル・パルミが......教えて、くれたんだ」
「なっ...そんな馬鹿なことあるはずが...彼女が裏切るなんてありえません!」
「アリア、話すよ。オレのことを。だから...アリアも、話して欲しい」
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私自身のことを話すのは、デミ、アムに続いて三人目になる。
言葉を紡ぐたびにアリアの表情は驚愕の色に染まっていった。
一度死んだこと、
今の私は呪いであること、
シグヴァルド要塞攻略戦の委細。
そして――私が殺したローレルの、魂がどこにあるかを。
あの女魔術師を殺した時、魂を吸い取った時、何か大きな力が私を突き動かしていたのは事実だ。
しかし罪悪感はない。
これが戦争である以上、私は骸の道を歩まなければならない。
今、目の前にいるアリアは、きっとそれを理解している。
「......セラくん、呪いの本質がなんなのか、ご存知ですか?」
考えたこともなかった。
つまりそれは、私が何者であるかということ。
「呪いとは、"願い"。祈りとも、渇望とも異なります。純粋な願いこそが、呪いの正体なんです」
彼女が何を言いたいのか、理解出来ない。
しかしアリアの双眸には、もう闇はない。
夜明けの明星を見るような、暖かな眼差し。
「つまり――セラ。貴方はただの殺戮者ではなく...そう、"紡ぎ手"」
「命を奪った相手の想いを、記憶を、未来に繋ぐ者」
「そんな誰かの願いによって生まれ変わったのが、セラ・ドゥルパという人間なのです」
この女は何を言っているんだ。
私は自分の仲間を殺した敵だぞ。
なのに何故――彼女の言葉はこんなにも響くのだろうか。
自分の頬を伝うものが涙だと気づくのに、時間は掛からなかった。
「ちくしょ......全然止まらねえじゃんか...」
白銀の髪の少女は、私をそっと抱き寄せる。
嗚咽も、止められなくなってきたみたいだ。
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「――そして、和平の使者としてフェナンブルクに向かう道中、カルラ達に助けられたのです」
「アリアのこと、なんだか他人だと思えないな。大変だったんだよな、あんたも」
「...ふふ、まさか私のことを理解してくれるのが、敵国の少年兵だとは思いもよりませんでした」
物心ついてから、初めてあんなに泣いたかもしれない。
今は二人でベッドに腰掛け、互いに肩を寄せ合っている。こんなに安心するのは、自分のことを全て理解してくれているからなのだろうか。
「こっこれって、良い雰囲気ってやつ、なんでしょうか...」
「えっ?何が?」
「いえええ!?なんでもありません!」
彼女はたまによく分からないことを口にする。
「そうか――なあ、戦争を...終わらせることなんて、出来るのか?」
「ええ、きっと。その為にはセラくんの協力が必要です」
「ああ、アリアには...救われた気がする。出来ることなら言ってくれよ」
「それは私の方ですよ――ずっと、あなたにどう話すべきか迷っていたんです。自分の正体を明かした瞬間、あなたが槍を構えるのではないか、と」
ゴア帝国とフェナンブルク王国。
敵国の重鎮が、自分の家のベッドで療養している。普通に考えれば、それだけで大問題だ。
にもかかわらず、私はずっと”そういうもの"として受け入れてきた。
彼女がカルラを守ってくれたという事実と――
「ただいま」と言えば「おかえりなさい」と返してくるこの姿とを、全部ひっくるめて。
「...正直に言うとさ」
ゆっくりと言葉を探す。
「オレは、人族とか帝国とか王国とか、そういうのはよく分からない。違いなんてないと思ってる」
燃え盛る死体の山と、アリアが風で砕いた獣人族の頭蓋。
今でも胃のあたりが冷たくなる。
それでも、
「アリアがオレの家族を助けてくれた。母さん達が今も生きて、どこかで泣いたり笑ったりしてるなら、そのきっかけを作ってくれたのは、間違いなくあんたなんだろ?」
彼女は静かに頷いた。
「なら、それで十分だ。帝国の使者だろうが"風神"だろうが、オレにとっては恩人で。今は同じ屋根の下で暮らしてる、ちょっと面倒見なきゃいけない奴ってだけさ」
我ながら、言葉を選ぶのが下手だな。
自分でも笑ってしまうような言い方だった。だが、嘘はひとつもない。
「……本当に、カルラに似ていますね」懐かしむように、小さく呟く。
「もしあなたが望むなら、私は今すぐこの家を出ていきます。騎士団に捕縛されるのを待つのもいいでしょうし、帝国に戻るために逃げることも出来るかもしれません。でも――」
そこで、ほんの一瞬だけ視線が泳いだ。
「でも私は、出来ることなら……もう少し、ここにいたい」
交錯する視線を外せないまま、彼女の言葉を静かに聞いた。
「君と共にいたいのです、セラ君」
その言葉は、あまりにも静かで、あまりにも弱々しくて。
ん?顔が近い気がする。
心なしか鼻息が荒くなっているような――
いつのまにか、耳まで赤く染まっている。
「い、いいですよね?」
「何が」と聞き返す間はなかった。
起きたことを理解するより先に、心臓が跳ねた。
私の口は、彼女の唇によって塞がれてしまったから。




