030.歪な王冠、新たな時代
フェナンブルク王国の玉座にゆっくりと腰を下ろしたのは、寝間着姿の老人であった。
女性とも男性とも――人とも形容し難いその姿。誰がこの者を一国の主だと思うだろうか。
痩せ細った指には不格好なほどに煌びやかな指輪がはまっているが、サイズが合わないのか随分と隙間が出来ている。
彼女こそが、王。
フェナンブルクを統べる者。
オーギュスト・ロイズ・フェナンブルクその人であった。
冷たい沈黙が空間を支配する中、高い天井から吊り下げられた豪華なシャンデリアが、朝日を受けて煌めいている。しかしその美しい光景とは裏腹に、玉座に座る一人の老婆から発せられる空気は肌を刺すように鋭く、膝をつく者は唾を飲むのも躊躇われるほどだった。
現王である彼女は、すでに齢にして七十を超えている。その膝元には二人の美男子が裸体を晒して四つん這いになっていた。筋肉質で若々しい肉体を持つ彼らは、オーギュストの皺だらけの手で臀部を愛撫されている。
醜悪にして淫猥、男娼館かと見間違えてしまうほどの異常な光景。
それを冷ややか目で見る女性が一人。第一王女ヘンリエッタだ。未だ若い男との情交を毎晩楽しむ女王であったが、ヘンリエッタの出産を経験した後は大きく考えを変えた―――難産だったのだ。
こんな思いをしたのはお前のせいだと、夫となるはずだった顔だけは良い男は斬首された。以降は子が出来ても悉く堕胎という道を選んできた。故に、次期女王は第一王女に決まっている。
そんな歪曲した国が、フェナンブルク王国だった。
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オーギュスト王の御前には、二人の女性が膝をついて控えていた。
一人は赤い髪を後ろで束ねた凛々しい女性、普段と同じ無表情の騎士団長シンシア・ルーヴェン。
もう一人は黄緑色の髪を逆立てた小柄でふくよかな女性。レイトッド・スカルドホルム二星騎士である。
「陛下、シグヴァルド要塞攻略戦の報告を申し上げます」
シンシアの声は玉座の間に凛と響き渡る。感情の起伏は無いように思えるが、注意深く聞けばその奥に抑制された怒りが潜んでいることが分かる。
「我が軍は見事要塞を陥落させ、ゴア帝国軍を撤退に追い込みました。これにより王国は北部への足がかりを得て、戦況は大きく王国に有利となりました」
「あー分かった分かった。それで?」
シンシアの報告に、オーギュストは心底興味が無さそうに片手を振って話を促す。まるで退屈な話を聞かされているかのような態度だった。美男子の一人が小さく身震いすると、オーギュストはその反応を楽しむように手の動きを変えた。
王の問いは、レイトッドには伝わらない。「それで?」の一言にはシンシアにしか理解出来ない意味が含まれていた。
徴兵令の上申を受け入れる条件として王国騎士団に課せられたこと――
団長の座をスカルドホルムに譲ることこそが、この二人の間で交わされた密約であった。
オーギュストはこの機会にレイトッドを五星騎士に昇格させ、
シンシアは次期団長にこの愚か者を指名し、戦友達の未来を託す。
民に希望を与えるには、戦況の打破がどうしても必要だった。
身を切る決断を迫られた時、これから訪れる未来を考えれば躊躇いはなかったのだ。
オーギュストが驚くほどにシンシアは素直に受け入れた。
「はい、陛下。委細承知しております。」
「ならいい......レイトッド!頑張ったなあお前!妾も鼻が高いぞ!」
「はっ!これも全て兵士達の尽力に依るもの!今後も国の為、そして王陛下の為、この命果てるまで仕えさせていただきます!」
「うむうむ、可愛いやつだ!たっぷり褒章を用意しておこう。大儀だったなあオイ!これはもう、団長が入れ替わるのも遠くないかもしれねえなあ」
白々しくも傲慢に王は振舞う。
「おいルーヴェン。さっそく明日―――」
「否。陛下、席を譲るべきは貴女です——オーギュスト・ロイズ・フェナンブルク、この王国を蝕む病魔よ」
「...衛兵っ!!!」
シンシアの言葉を耳にした瞬間、オーギュストは素早く判断した。
不快な金切り声を聞いて駆け付けた衛兵は、玉座の間の扉を荒々しく開けて駆けてくる。
彼女らはゆっくりと立ち上がるシンシアを――通り過ぎ、煌びやかな剣の切っ先を向けたのは...
玉座に座る老婆、
オーギュスト王の首筋だった。
「あー......なるほど。ヘンリエッタ、てめえか?」
「流石は母上。理解が早くて助かります。策謀は私ですが、近衛兵の人心掌握はルーヴェン氏の人徳ですよ」
「ヘンリエッタ様、如何しますか。...貴公らは行っていいぞ。家族の待つ家に帰りなさい」
シンシアの言葉を聞いた裸体の美男子二人は急いで立ち上がり、駆け足で扉から逃げ出した。レイトッドは未だに状況が呑み込めず、立ち上がるタイミングを逃している。どうしたらいいのか分からなかった。足らない頭で、誰に"就く"べきかを考えている。
「何が不服なんだ?戦場に送り出したことを怒ってんのかよ。どうせ老い先短いんだ、もうちょっと待てねえのか。」
「待てませんね。欲しいモノが出来てしまったので。この性格は母上譲りなのでしょう。一度欲しいと思ったら――どんな手段を使ってでも手に入れる。ですよね?」
「男か」
「まさに」
「...ヤドカリ王女が偉くなったもんだぜ」
「娘の"ハサミ"で逝けるとは、母上も果報者ですね」
刃を突きつける娘と、死を迎えんとする母の会話は、親子が食卓を囲いながらするようなトーンで交わされた。
「レイトッド、この二人をなんとかしてくれよ。浅はか過ぎると思わねえか?」
「え...あ...私は――」
「スカルドホルム卿。あなたはシグヴァルド要塞攻略戦の際、多くの民を無駄に死なせましたね。今大人しくしていれば斬首は免除して差し上げましょう。死を覚悟して母上を庇うなら、我々も相応の礼儀でお応えいたします。如何か。」
有無を言わさぬヘンリエッタの物言いに、スカルドホルムは一気に委縮した。「斬首は免除」という言葉が彼女の頭の中で繰り返し反芻されていく。
「ヘ...ヘンリエッタ様の御心のままに」
「レエエエエエエエエエエェェイトッドオオオオオオオオオオォォォ!!!」
「あーもう喧しい。ルーヴェン氏、刎ねてください」
「御意のままに――」
シンシアの剣は刹那の内にオーギュストの首を斬り落とした。玉座から蹴り玉のように転がり落ちる首が立てたのは、驚くほど軽い音——まるで腐った果実が枝から落ちるかのような、虚ろな響きだった。光を失った双眸が最期に見据えたのは、ヤドカリと呼ばれた娘が玉座に座る景色であった。
ヘンリエッタは何も感じない。
自分の進むべき道に立ちはだかる壁は、例えそれが肉親であっても一切の関係はなかった。
己が欲の為に事を為すその姿こそ――王。
それは運命。血の繋がりが呼び寄せる必然。
オーギュストの欲を飲み込んだのは、さらなる歪な欲望だったのだ。
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新暦269年、崩御――そして、
ヘンリエッタ・イクスピアリ・フェナンブルク国王が誕生した。
宮廷は意外なことに慌てふためくことはなかった。
ヘンリエッタは戦場から戻るとその日の内にシンシアに接触、今回の策謀についての約束を取り付けた。腐った果実を取り除くには周囲の協力が不可欠だ。
ヤドカリ王女が持ち合わせていなかった人望を、王国騎士団長は持っていた。
逆にシンシア・ルーヴェンには僥倖であった。譲った団長の座をどのように奪還するかに頭を悩ませていた矢先、ヘンリエッタから密談を持ち掛けられた。
数えるほどしか会話を交わしてこなかった二人は、一晩で姉妹のような関係になっていた。
騎士団内のみならず、シンシア・ルーヴェンの名は宮廷内にも絶大な影響力をもつ。
最年少で王国騎士団の頂点に登り詰めたのは、情熱や武力だけでは不可能。徹底的な合理に基づいて行動する人物だと、ヘンリエッタは兼ねてから考えていた。
「ルーヴェン氏、シグヴァルド要塞の攻略――改めて大儀でありました。心から感謝します、我が友よ」
「私には過ぎた言葉でございます、ヘンリエッタ陛下。最大の功労者はセラ・ドゥルパ中級騎士に他なりません。彼は...少し特別な存在かもしれません」
王笏をトンと突き、ヘンリエッタはにやりと笑う。藤色の美しい髪を編み込み、まだ似合わない王冠を頭に載せて。
「ええ、まさに。彼はこの国の希望ですよルーヴェン氏。聞いた話では、あの戦場から生きて帰った者の多くが騎士団への入団希望を出しているとか。前王も懐古的な考えを持っていましたが、女が戦で輝くことを望む者は今なお一定数いるのでしょう。負けじと、と言ったところですか」
「正直、これほどまで騎士団の希望者が膨らんでしまうと、内部の統制が懸念されますが...」
「母上が下らない見栄で始めたこの戦争も、既に三年が経過しています。この機を逃す手はないでしょう。ルーヴェン氏...いえ、我が友シンシア。騎士団の抜本的な再編と、残り二年以内にこの戦争を終結に導く道筋を組み立てて欲しいのです。頼りにしていますよ」
「...はっ!ヘンリエッタ陛下のご期待に必ずや応えて見せます」
「では手始めに、セラ・ドゥルパを"星付き"にしましょう」
「はっ!...え?」
「え?」
シンシアは王に、二度も問を返した。
そして――新暦269年、夏。
セラ・ドゥルパはフェナンブルク王国初となる、男性の一星騎士に任叙されたのだ。




