028.シグヴァルド要塞攻略戦(6)
姿勢は低く、地を這うように。
一歩、駆けて一歩、飛んでまた一歩。
沼に足を取られれば必死、歩むのは―――すでに出来た岩の足場。
道は既に出来ている。
言の葉を紡ぎ、槍に黒雷を宿す。
この敵を相手に長くはもたない。
一合だ。一合で仕留めなければ私は死ぬ。
息を吸い込み、止める。
「礫よ、顕れよ...石弾術<ストーンシュート>」
インペリエが詠唱した魔法により、岩の飛礫が宙に生成される。しかし先ほどのそれと異なり、鋭利に、そして猛烈な勢いで回転している。練り上げた高密度の殺意は、容赦なく向かってきた。
私は速度を落とすことなく進み続ける。黒雷を纏った切っ先を当てるだけでいい。
飛来する岩の棘は黒曜石の穂先を掠めた途端、音もなく砂に還る。私の黒い魔力は、土に込められたマナを吸い取り自然に戻していく。
「むうっ!?」驚嘆する戦神の顔を目掛けさらに速度を上げる。
巨大な戦斧は天を頂き、まさに今振り下ろさんと鬨を待つ。
そして空気を、音すらを裂いて、刃は一瞬で目先まで迫った。姿勢を更に低く、斧を潜る。
しかし、それは策謀。全身全霊の斧は囮に――私の首を狙って、地面から岩の棘が飛び出してきた。
すでに私は、そこにいない。戦斧が通り過ぎる瞬間に柄を掴み、勢いを利用して空に舞い上がる。
霊峰を見下ろす私は、間髪入れずに詠唱を始める―――ハイネ悪いな、我慢してくれよ。
「裂けし境に宿りし雷よ、焦げる膜より這い出でよ。天を焦がすは鳴神の蛇!」
「"黒槍"いいいいいいいいいいいいいいいいい!!」
空中から槍を投擲し、インペリエの足元に深々と突き刺さる――迸る吸魔の力を宿して。
「斥界這電<ヴェイルアーク>!!」
切っ先から放射状に広がる黒雷は、大地から火花のように立ち上がる。黒雷は戦神の鎧の表面を這うように絡みつき、乾いた破裂音を伴ってインペリエを焼いた。大量のマナが私に流れ込んでくる。彼女の体内に蓄積されていたマナが消失したのだ。戦斧を握る手からゆっくりと力が抜け、戦士は膝をついた。
霊峰は、崩れたのだ。
「なんと...邪悪な力か...」
呟きは掠れ、要塞に静寂に塗りつぶされて消えた。
風が止み、鳥も声を潜める。
槍を握る手に力が入る。四天将という頂に立つ戦神が、いま私の足元に膝をついている。ルクセン平原ではゾーイを逃がしてしまったが、インペリエは間違いなくあの時のゾーイよりも数段強かった。自分が確かに強くなっていることを噛みしめる。
彼女の茶色い髪は汗と血に濡れ、巨躯に似合わぬか細い息遣いはどうしようもない程儚く、そして弱弱しい。同時に私自身も限界だった。全身に走る激痛と、失血による眩暈が私の意識を遠のかせようとしている。それでも、勝利は確実に私の手の中にあった。この一撃で、ゴア帝国四天将を仕留めることができる。王国軍の士気を大きく押し上げ、戦局を一変させることができるのだ。
「はあ...はあ...インペリエ・アルバスト・ゴア――帝国の四天将。あんたのような戦士と戦えたことを、誇りに思う」
冷たい黒曜石は、神の首を落とそうとしていた。
「言い残すことはあるか」
私の問いかけに、インペリエはゆっくりと顔を上げた。その瞳に映るのは深い悲しみが宿っている。
敗北を受け入れた者の、静かな諦観。
「...貴公、名を聞かせてくれ。私を打倒した戦士の名を知らぬまま逝っては、先に待っている同胞に笑われてしまう」
「オレはセラ。獣人族カルラの子、セラ・ドゥルパだ。」
「セラ―――ドゥルパ。しかと刻んだ。感謝する、勇敢な王国の戦士よ」
暫しの沈黙。
風が、汗に濡れた頬を撫でる。
「我らが...手を取り合い、共に歩む道において、言葉の他に何を要すると言うのか」
それは後悔ではない。
それは命乞いではない。
それは――懇願。純粋な迄の願い。
掠れているインペリエの声は明瞭に響いてくる。
届け、届けと。
目が語っていた。
「僅かひとかけらの心があったならば、我々の未来は、共に同じ光を目指せたろうに」
その言葉が私の胸を打った。敵として向かい合った私たちだが、もし状況が違っていたなら、共に戦う仲間になれたかもしれない。インペリエの瞳に宿る悲しみは、戦争そのものへの嘆きだったのだ。
敵味方という立場を超えて、一人の戦士として私を認めてくれている。その想いが、私の心を大きく揺さぶった。
私の手が、僅かに震えた。
この女を殺すことで、どれだけの人が悲しむだろうか。彼女を慕う部下たち、彼女の帰りを待つ家族。そして何より、皇帝ユークリッドという人物が、妹の死をどう受け止めるだろうか。ゴア帝国の民にとって、インペリエという人物がどれほど大切な存在なのか。
殺すべきなのか?
本当に?
思慮を巡らせていた私の身体は、突如として吹き飛ばされた。
風弾だ。
「インペリエ様!ご無礼をお許しください!貴方は生きねばなりませんっ!」
決死の形相で現れたのは、過度に露出の多い服を纏った女魔術師だった。理由は分からないが、現れたその女は既に満身創痍であり、顔は青白く、病人と言っても過言では風体だ。
しかし、彼女から発せられる魔力の濃度は尋常ではない。死を受け入れた者の、散り際の光なのか。空気が震え、要塞内の石造りの壁が微かに共鳴している。
彼女はインペリエに向かって素早く風弾を放ち、壁際まで瞬時に退避させる。
「すまぬ!子狐よ、武運を祈っている!」
斧を杖代わりになんとか立ち上がったインペリエは、足を引きずりながら要塞の中に入っていく。
私は地面に叩きつけられた衝撃で、さらに傷を深くしていた。間違いなく骨が、臓腑に突き刺さっている。全身が悲鳴を上げそれでも私は槍を握り直し、新たな敵と対峙する。血が口の端から垂れ、視界が霞んでいく。限界は、もうすぐそこまで迫っていた。
「貴方が...かひゅっ――総隊長の仰っていた"黒槍"ですね。この先は絶対に通しません...」
女魔術師は私を見据えながら、静かに覚悟を語る。胸元の黄色い魔石は光を失い、くすんで見える。
「な、汝、見えざる刃の洗礼を受けよっ...烈風刃<ゲイルブレイド>!」
詠唱と共に、彼女の周囲に風の刃が生成される。しかし、私を打つ攻撃にはなりえなかった。
マナが乱れているのだろう、形を成せぬまま風は霧散していった。魔力の枯渇が進んでいるのは明らかだった。
「くぅっ...そおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
それでも彼女は戦い続ける。インペリエを守るために、自分の命を賭して。
「烈風刃<ゲイルブレイド>!烈風刃<ゲイルブレイド>!烈風刃<ゲイルブレイド>!」
彼女は戦い続ける。やけくそとも言える程の連続詠唱を始めたのだ。呪文はない。ただ魔法の名を叫ぶ。赤子が、取り上げられた玩具を指さすように、哀れな小鳥は囀り続ける。
疲れ果て頭を垂れた女魔術師は―――突如、首を上げた。
その時、
突然、詠唱していないにも関わらず風の刃が生成されたのだ。風刃の嵐が私を襲う。
私は息を呑んだ。
詠唱なしで魔法を発動するなど、聞いたことがない。それは魔法の常識を根底から覆す現象。
知りたい――その理を。
戦いの中でふとよぎった考えが、魔物を呼び覚ました。
私の胸の奥で何かが蠢き始める。
暗い感情が、泥のように私の心を覆い始めた。それは憎悪か、怨念か。確かなことがひとつ。間違いなくそれは負の感情。私の中で渦巻き続ける千の魂が騒めく。
『稲妻、駆けよ。電撃術<サンダーショック>』
私が言ったのか?落雷と見紛う漆黒の稲妻が槍に宿り――"私"は槍を投擲したのだ。黒雷を纏った槍は一直線に飛んでいく。風の刃は黒雷に触れた瞬間、ただの空気に戻っていく。
槍は彼女の胸に深々と突き刺さり、背中まで貫通した。
「あうっ!」
血を吐きながら、その場に膝をついた。槍に貫かれた胸からは大量の血が流れ、もはや数刻の命。後ろを振り返った彼女はインペリエの姿が見えないことを確認し、目的を達成したという満足感を得たのだろう。そのまま儚く後ろに倒れこんだ。
"私"は足を引きずりながら、彼女の元に近づいた。
息絶え絶えの彼女を見下ろしながら、問いかける。
まだ死ぬには早いぞ、女。
『貴様、今詠唱していなかったな。死の淵で何を得た?』
「かひゅ...あ.......あ....」
ヴァルキリーは私を見上げようとしたが、もう言葉を話す力は残っていなかった。ただ、その瞳には何かを伝えようとする意志が残っている。しかし、声にならない。
(――やめろ)
『心配するな、言葉は要らん。貴様の魂、そしてその記憶。この私が継承し、未来に連れて行ってやろう』
(――やめてくれ)
彼女の首に手を添える――この瞬間理解した。
いや、思い出したという方が正しいのだろう。
次の瞬間、女魔術師の胸から美しいエメラルドの光が立ち上がった。彼女の魂は私の手に引き寄せられるように浮上し、ゆっくりと私の中に入っていく。
温かい――――――これが、人の魂。
女はすぐに動かなくなった。しかし、その表情はとても安らかで、まるで長い苦悩から解放されたかのようだった。最期の想いが、彼女の記憶が、私の中に溶け込んでくる――魔法の真理も。
ゴア帝国ヴァルキリー隊所属、ローレル・パルミ。それが彼女の名だった。
『なるほど...彼女が死の狭間で得た理。素晴らしい!』
風のマナが宿るのを感じる。熱い血となって身体を巡る。
ありがとうローレル。これからは"私"と共に歩もう――
「隊長!ハイネさん!ご無事ですか!?」
仲間の声が私を呼び戻した。一瞬何が起きたのか、何をしていたのか理解出来なかった。私が今、この女魔術師にしたことは、戦士として正しい行為だったのか。幼い頃から学んだ教えに反するものではなかったか。母さんの悲しい顔が浮かんだが、振り払うように私は首を振った。
要塞の門付近から聞こえたウィルの声に言葉を返す。
「ウィルか!?待たせてすまない!内側は終わっているが、ハイネが負傷して身動きが取れない!門を開けるのに人手が欲しい!」
「了解です!」
少し待つと、岩が隆起し大地が動く音。
外側から地形を操作し、フォウが門の上から顔を出した。
「隊長!無事でなによりだ!」
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先行して入り込んだ王国軍を束ね、フォウは手早く開門した。
「隊長、今ですよ!坂上るの大変だったんですから!王国軍に檄を飛ばしてあげてください!」
ビューラの言う通りだ。約千人の戦士達は、昨日まで戦いなどしたことのない者であり、望んで参加したわけではない。私という人間を知っているわけでもない。
それでも信じて上って来てくれた。男性であり子供である私を。
「門は開いた!要塞陥落まであと僅かだ!皆の力があれば、必ず為せる!」
槍を高く掲げ、私は叫ぶ。
「進めええええええええええええええええ!!!」
地鳴りのような王国軍の歓声が要塞内を震わせ、雪崩のように入り込んでいった。
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内部には敵勢力も残っていたが、すでにインペリエが撤退したからか士気は低く、また人数も非常に少なかった。数刻後、要塞の旗は帝国のそれではなく王国の旗が立っていた。
シグヴァルド要塞はこの日、落ちたのだ。
ハイドラに乗ったスカルドホルムが私の元に来たが、心底面白くなさそうな顔をしている。こいつが何故不機嫌なのかまったく分からない。勝利したのだからもっと喜べばいいものを。
「...ふん、感謝するぞ小僧。だがな、多くの犠牲の上にある勝利だということを忘れるな!」
「ええ、仰る通りです。最初からこうすればよかったと、心底悔いております。愚策によって散っていった者達には顔向けできませんね」
分からない。理由は分からないが、その後小隊の仲間達に死ぬほど怒られた。言い方が、とか配慮が、とかなんとか。人族の文化は本当に面倒だ。
ハイネは大きな怪我もなく救出されたが、黒雷の巻き添えになって戦闘不能になってしまった。しかし彼女は、助けられてからずっと私を賞賛していた。流石はウチの大将や!この言葉をすでに十回は聞いている。
「あ...セラ隊長!やりましたね!あの舟が上手くいってよかったです!」
「君はあの時の...この勝利は君のお陰だ。本当にありがとう。名前を聞かせてもらえるか?」
女兵士は明らかに躊躇している。似合わない鎧に、華奢な体。農民ではなく商人だろう。別に名前くらい知ったところでどうということはないだろうに。意を決したようにその女兵士は兜を脱ぎ――自らの名を口にした。
「私は――ヘンリエッタ。ヘンリエッタ・イクスピアリ・フェナンブルクです。一応その...第一王女です」




