025.シグヴァルド要塞攻略戦(3)
シグヴァルド要塞の堅牢な石壁が、朝日を受けて威圧的な影を落とす中、王国軍五千の兵士たちは坂の下で苦戦を強いられていた。要塞へと続く急峻な坂道は、まるで天然の要害として立ちはだかり続けていた。遠目から、坂道は確かに厳しい傾斜であることは理解していたが、接近するころには何らかの魔法によって完全に凍りついており、一歩足を踏み出すだけで滑り落ちてしまうほどの状態となっていた。氷の表面は鏡のように滑らかで、上ろうとする王国軍の兵士達を嘲り笑うかのように、足を滑らせる。
「また来るぞ!散れ!」
誰かの叫び声と共に、要塞の上から巨大な岩石が転がり落ちてきた。直径三メートルはあろうかという大岩が、凍った坂道を勢いよく滑り降りてくる。王国の兵士たちは慌てて左右に散らばったが、逃げ遅れた数名が岩石に押し潰された。鈍い音と共に、人の形をしていたものが肉塊に変わる瞬間を、私は何度も目の当たりにしていた。血が氷の上に広がり、赤い筋を描いて流れていく。
「貴様らはそれでも女かっ!情けないぞ!」
スカルドホルムの部下だろうか。ハイドラに乗った老体の女性が、掠れた怒号で檄を飛ばす。彼女の声は甲高く、ヒステリックな響きを含んでいる。当然その言葉に兵士たちの士気が上がることはなかった。むしろ、徴兵された女性たちの表情はさらに暗くなっていく。人を導くとは難しい。暗がりの中に光を見据え、背中を押すことのどれだけ難しいことか。
「次は第七中隊!百名で突撃せよ!何としても坂を駆け上がり、門まで到達するのだ!」
我らが大将の作戦は単純明快だった。百人程度の中隊で突撃を繰り返し、何とか坂の上まで到達するというもの。敵の魔法部隊のマナが尽きるまで波状攻撃を続け、その隙に一気に攻め上がる算段らしい。しかし、その作戦には致命的な欠陥があった。敵の規模も戦力も正確に把握できていない状況で、ただ兵士を消耗させているだけなのだ。
私の隣に立つフォウは、呆れたような表情で首を振っていた。
「隊長、この作戦で我々が得られるのは、馬鹿に指揮をとらせてはいけないという教訓のみだ。敵の戦力を把握せずに突撃を繰り返すなど、愚策以外の何物でもない」
フォウの分析は的確だった。すでに三回の突撃が行われていたが、すべて失敗に終わっている。坂の途中で滑り落ちる者、大岩に押し潰される者、要塞からの魔法攻撃で焼かれる者。坂道は王国兵士たちの血と肉片で赤く染まり、まるで地獄の光景を呈していた。すでにルクセン平原の戦い以上の戦死者が出ていながら、未だ坂の中腹まで辿り着いていないのだ。
「隊長、どうしますか?」
ウィルが心配そうに私に問いかけた。彼の表情には、仲間たちを案じる気持ちが色濃く表れている。何度も戦場を経験した彼でも、この惨状を前にすると不安を隠せないようだった。
私は坂道を見上げながら考えていた。あの凍った坂を正面から攻略するのは、まず不可能だろう。広範囲かつ強力な火属性魔法ならそれも可能だが、王国内にそれほどの魔力適正がある人間はいなかった。
それに、王国軍が到着してからここまで準備を整えるのが異常に早すぎる。まるで私たちの到着を予期していたかのような完璧な迎撃体制だった。
「敵の手の内がまだ見えていない。これ以上無駄な消耗はさせられないな。ハイネ!」
私は決断した。スカルドホルムと直接話をして、この愚かな作戦を止めさせる必要がある。呼ばれたハイネが人込みをかき分け現れた。
「ハイネ、悪いが一緒に来てくれるか。スカルドホルムと話をしにいく」
私の要請に、ハイネは少し首をかしげながら話す。
「別にええけど、ウチがいてもあんまり意味あらへんよ?」
「オレの意見が通りにくいのは十分分かってる。だからハイネの名前を借りたいんだ」
私の正直な告白に、ハイネは目を細めてにやりと笑った。
「ウチの大将も悪い子になってもうたんやなあ。セラくんのお手並み、見せてくれはるんやろ?ええよええよ。付き合ったるわ」
私たちは前線を後にして、本陣に向かった。途中、第四回目の突撃が始まったらしく、背後から兵士たちの雄叫びと、それに続く悲鳴が耳を鳴らす。多くが男性を差別してきた連中だ。私を始め、フレデリックやウィルも何かしらの苦労を抱えている。家族や小隊の仲間、知り合いが無事ならあとはどうでもいいのだが、いつのまにか自分の胸の内に、篝火のような何かが生まれていた。その火のせいなのか、込み上げる想いが私の身体を突き動かす。
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前線から兵士たちの阿鼻叫喚が絶え間なく届く中、私とハイネは本陣の天幕に向かった。スカルドホルムの指揮所は、戦場から少し離れた丘の上に設営されており、周囲には護衛の兵士たちが配置されている。天幕の入口には、厳めしい顔をした女性兵士が二人立っていた。
「ご苦労様です。セラ・ドゥルパ中級騎士であります。スカルドホルム二星騎士に上申したいことがあり、参上致しました」
私が声をかけると、入口の兵士は怪訝な顔をした。男性の、それも中級騎士が作戦の最中に大将に直接面会を求めるなど、異例中の異例なのだろう。寧ろ、私を間者として捕える方がよほど理に適っている。そんな考えを理解してしまう自分をほんの少し恨めしく思った。
「男が何の用だ?戦場で遊んでいる暇があるなら、荷物の整理でもしていろ」
兵士が発した侮蔑の言葉に辟易したが、ハイネがその女性を肩ポンとを叩く。
「ケチくさいこと言わんで、ちょっとだけ時間もらえるかなあ。大事な話やから」
ハイネの一言で、兵士の態度が一変した。"雷神"ハイネ・フォン・ガリレイの名前は、騎士団内で知らぬ者はいない。兵士はしぶしぶといった様子で道を開けてくれた。連れて来て正解だったな。
天幕の中では、相変わらず煌びやかな装いの指揮官殿が大きな地図を広げながら、非常にイライラした様子で何かをぶつぶつと呟いていた。彼女の周りには副官らしき女性たちが数人控えているが、誰も口を開こうとしない。空気が張り詰めており、近寄りがたい雰囲気が漂っていた。しかし同調するつもりはない。一人の機嫌と兵士の命、天秤に掛けるまでもない。
「セラ・ドゥルパ中級騎士であります。スカルドホルム二星騎士殿、今後の戦術についてお考えを伺いたく参上致しました」
私は正式な軍礼を取って挨拶した。しかし、スカルドホルムはまったく聞く耳を持っておらず、地図から目を上げる様子はない。彼女の指先は地図の上を忙しなく動き回り、何度も同じ場所を指でなぞっている。その動作からは、明らかな焦燥感が読み取れた。前線からの報告が思わしくないのだろう。遠くから聞こえてくる兵士たちの悲鳴が、天幕の中にまで届いている。
「ああ。分かったから下がれ。忙しいのだ」
彼女の返答は素っ気なく、まるで虫を追い払うような仕草だった。私の存在など、彼女にとっては取るに足らないものでしかないのだろう。
さて、どうしたものか。目の前で無謀な作戦によって多くの兵士が命を散らしているというのに、この女は聞く耳すら持とうとしない。蝋燭の炎が微かに揺れ、影が壁の上で踊っている。その光景が、まるで戦場で散った兵士たちの魂のように感じられた。そんな重苦しい雰囲気の中、ハイネの軽やかな足音が響く。不思議とこの緊迫した空気を少しだけ和らげるような気がした。
「ハイネ・フォン・ガリレイ上級騎士であります。スカルドホルム二星騎士、少しだけでええからお時間いただけませんか?」
雰囲気が微妙に変わった。せわしなく地図の上を駆けまわっていた手の動きが止まり、沈黙の後ようやく彼女が顔を上げる。まだ帝国軍の衝突から一日と経っていないにも関わらず、すでに打つ手が尽きたような焦燥感。スカルドホルムの額には薄っすらと汗が浮かんでおり、この状況に対する苛立ちが隠しきれずに表れている。
両の瞳は明らかにこちらを警戒していた。"雷神"ハイネ・フォン・ガリレイが口をはさむことが嫌なのだろう。きっと前線の兵士はスカルドホルムより、私の仲間である上級騎士の話を聞いてしまう。顔を潰されるのを恐れているのだ。
「...それで、何の用だ?」
目の前の大将から発せられたの声色には、明らかな不機嫌さが込められていた。落ち着け。深呼吸をして、心を落ち着かせる。ここで感情的になっては、何も変わらない。冷静に、論理的に話すべきだ。
「このままでは兵士の士気が上がらぬまま犠牲だけが増え、勝利を掴むのは難しいと思われます。何か別の作戦をお考えでしょうか?」
私の質問に、スカルドホルムの表情が一瞬で険しくなった。彼女の目が細くなり、まるで獲物を狙う猛禽類のような鋭さを帯びる。天幕の中の温度が下がったような気がした。副官たちも一斉に身を硬くし、何かが起こることを予感している。言葉遣いが良くなかったのだろうか。彼女が機嫌を悪くする理由に心当たりがないまま、話は続く。
「セラ・ドゥルパ中級騎士、それは私が何も考えていないのか、と言っているのか?」
「そうです」
端的な私の返答は天幕の中を雷鳴のように貫いた。副官たちが息を呑む音が聞こえる。何故ハイネは目を隠しているんだ。沈黙が、揺れる蝋燭の火が、まるで嵐の前兆を告げているかのようだった。
スカルドホルムは固まっていたが、次の瞬間首から上が真っ赤に染まった。全身が怒りで震え始め、拳が小刻みに痙攣している。
「っ!!...ぶっ...ぶぶ無礼者!」
甲高い金切り声が発せられたが、何を怒ることがあるのか私には皆目見当もつかない。
「なん...なんだ貴様はっ!?崇高なる作戦を遂行しているにも関わらず、士気が上がらぬのは貴様のような男兵士がいるからだろう!我々の足を引っ張り、戦場の雰囲気を悪くしているのは明らかではないか!男の分際で、何を分かったような口を利いているのだ!」
彼女の言葉が矢継ぎ早に放たれる。出発時の態度はどこへ行ってしまったのか、今となってはただの感情的な女性でしかなかった。ああ、そうか。ハイネが言っていた意味が分かった。
「ならば貴様が皆を率いて坂を上ってこい!これは命令だぞ!男の分際で生意気な口を利くなら、その実力を見せてみろ!そうだ!それがいい!口だけではないということを証明してみせよ!」
スカルドホルムの指が私を指差し、その先端は小刻みに震えている。彼女の目には、明らかな悪意が宿っていた。私を死地に送り込むことで、この屈辱を晴らそうとしているのだろう。浅慮、ここに極まれり。しかし売られた喧嘩を買ってねじ伏せるのはいいものだと、母さんも言っていた。...ような気がする。
「ちょっ!?スカルドホルム二星騎士!それは無いんとちゃいます!?」
ハイネが食って掛かろうとしたが、私はそれを手で制した。もう覚悟は決まっていた。このまま無能な指揮官の下で兵士たちが無駄死にするくらいなら、
道は自ら切り拓く。
「分かりました。では私の小隊で門を開けましょう」
私の返答に、レイトッドは勝ち誇ったような表情を見せた。下卑た笑いだ。こいつ本当に二星騎士なのか。
「貴公の武運を――祈っているぞ」
「ありがとうございます」
皮肉は受け取らないでおいた。
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天幕から出て小隊の元に戻った私は、すぐに状況を三人に説明した。
「すまん、そういうことになった。至急、作戦を立てたい」
「えええ...なんでそんなことになっちゃうんですか...」
報告を聞いたビューラは、げんなりして膝を折って座り込んでしまった。
それを傍目に、フォウは土属性魔法で地図を広げられる程度の盛り土を作り上げた。
「仕方ない。隊長が言うならやるしかないだろう」
フォウは優秀だ。こういう時に状況を打破する道筋を見つけようとする胆力は、戦場では絶対に必要な場面がくる。陰鬱な雰囲気の中でも光を掴もうと藻掻く背中に、兵士達もきっと何かを感じ取ってくれるだろう。
「要塞の門に辿り着くこと、門を内側から開けること、王国軍の兵士を門まで先導すること、これらは別々の戦術を取った方がいい。」
私たちの会話を聞いて、徐々に周囲の徴兵された兵士たちも集まり始めた。彼女たちの表情には、希望と不安が入り混じっている。
「フォウ、要塞内の兵士はどの程度いると思う?」
私の質問に、フォウは少し考えてから答えた。
「もし今回の作戦が帝国に伝わっていなければ、要塞の面積からして恐らく五百人程度。しかし、私なら間違いなく絶対的な強者を配置する。一人で戦況を変えられるような将軍をな」
「...分かった。オレとハイネで何とか要塞内に入り込み、内部の兵士を倒して門を内側から開ける。ウィルは水属性魔法で凍った坂を水に戻しつつ、防御の要となって兵士を上まで先導しろ。周囲の兵士の中から、同属性魔法の使い手を募れ。」
「了解です、隊長!」ウィルの返事は力強かった。
「フォウは全体を見ながら適宜ウィルのフォロー。地形操作が必要になった時に迷うな。ビューラは兵士たちの後ろについて、少しでも坂を上りやすくするために追い風を吹かせてほしい。大岩の攻撃に耐える手段はない。オレとハイネが要塞内に侵入したら、迅速に動け」
私の指示に、小隊だけでなく周囲の皆が頷いた。しかし、ハイネがすぐに質問した。
「なあセラくん。ウチらでもあの坂を上りきるのは援護なしには難しいで。何か考えてはるの?」
「要塞の横の崖を上っていくしかないだろうな」
私の答えに、皆が険しい表情を見せた。崖登りは非常に危険で、しかも敵に発見される可能性も高い。
その時、話を聞いていた女性兵士の一人が、恐る恐る手を上げた。慣れない鎧で動き辛そうにしている様子を見るに、徴兵されたで農民か、商人だろう。
「あの、二人を素早く坂の上の方まで運べばいいんですよね?」
「何か、いい案があるか?遠慮なく教えてほしい」
崖を上らずに済むなら、それに越したことはない。女性は少し躊躇したが、意を決して口を開いた。
「じゃあ……準備してほしいものがあります」
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もたつく私たちの頭上で、要塞から転がされた大岩が唸りを上げて滑り落ちていく。坂の中腹より手前から、兵士達の血がゆっくりと下に向かって流れていった。あまり迷っている時間はない。
「鉄の盾を十。幅広の板を数枚。水と氷を扱える者、それから雷を扱える者を。そうですね...100mほど手前から坂の下まで配置してください。」
正気か――誰かが呟いた。だが、私たちが求めていたのは、この状況を打破できる手段であって、学術書に載っている知識ではない。数刻も経たぬうちに、坂の裾に銀色の舌のような斜面が現れた。土をならし、その上に氷の薄皮を引き、塩を混ぜた水で表面を濡らす。ところどころに青白い筋が走り、光が脈打つ。板を組み、縁を布で巻いた舟のような乗り物ができ、その腹に鉄の盾が幾枚も抱き込まれる。裏に刻まれた渦模様が前を向くように、と彼女は念を押した。
「なあ、風はいらへんの?」ハイネが問うと、
「最後のひと押しだけ。主な仕事は、雷が担ってくれます」と女性兵士が答えた。
整然と並んだ兵士たちに、追い越しはなし。常に半歩先で、と彼女は何度も話していた。ここまで来ても、私にはこれから何が起こるのか到底理解出来ていない。フォウですら怪訝な顔つきだ。
斜面の根元で、雷の使い手が空気を叩くと、ぱちりと乾いた光が走り、すぐに二つ目が、その先に三つ目が、次々と駆けた。
水の使い手が両手を掲げ、斜面に沿って薄い水の膜が滑った。熱が吸われ、白い霧が立つ。舟の底がわずかに浮いて、氷と舟の間に見えない指が差し込まれる。板は軋まず、鉄は低く唸る。左右には見えない手綱が張られ、舟はぴたりと真ん中に据えられた。
「えっと...セラ隊長?で、いいですかね。準備出来ました」
「え、何の準備?」
間抜けな声を上げてしまった。しかしまったくと言っていいほど、理解出来ない。そもそも、何故あの舟が浮いているんだ。彼女に促されるまま、私とハイネは舟に乗り込んだ。
「セラ隊長、これから空を飛びますので、しっかり掴まっていてくださいね。ご武運を」
「えっ」
底で稲光が咲いた。光は波のように、けれど波より速く逃げる。舟底の鉄がその尾を掴む。押されるのではない。見えない綱に、前へ誘われる。半歩先の光は、半歩先のまま、しかし確かに近い。舟は左右に揺れない。左右の見えない手綱が、ぴんと張られたまま、私たちを導く。
「今――」彼女の声が霧の向こうから届く。「放して!」
雷の尾がふっと途切れ、最後の一閃が背を蹴った。
舟は坂の縁で羽根を得たように軽くなり、地は解けた。胸の中の臓腑が背に引かれ、少し冷える風が顔を掌打のように打ち付ける。しかし目を開くと、目の前はすでに要塞の中を一望できる高さにいた。帝国兵の顔が驚愕に染まっていく。どうやら私達は、本当に空を飛んだらしい。
思っていたよりも柔らかく着地出来たのは僥倖だ。この刹那で、命運が分かれる。
「ハイネ!外壁の奴から片付けるぞ!」
「応っ!」




