021.やっぱり、上手くいかない
母さんたちが無事だと聞いて安堵したものの、この女がどこまで信用できるのかは分からない。そもそも、本当かどうかも怪しい。逃げるための嘘かもしれない。...だとしても、この凄惨な中で一縷の望みがあるのなら、その糸を掴みたい。
「母さんとラビが無事だというのは本当なのか?」
私の問いかけに、その女は静かに頷いた。白銀の長い髪は、どこか集落の生活を思い出させる。先ほどまでの人形のような表情ではなく、瞳に人間味が宿っている気がした。服装は獣人族の血と思われる液体で黒く汚れており、私の蹴りを、そして渾身の殴打を顔面に受けている。手ごたえはあった。間違いなく、効いているはずだ。戦闘を再開しても、倒す自信はある。
それでも警戒を解くつもりはなかった。
「本当です。私がこの集落から彼女達を逃がしました。二人は命の恩人ですから。」
「命の...」
ありありと浮かぶ、母さんの言葉が、仕草が、行動が、私の心を緩ませていく。
「じゃあ...なんで集落の住人を...っ!」
女は少し困ったような表情を見せた。その時、何故かハイネとの模擬戦のことを思い出していた。あの時、衝動に駆られる突っ込んで、あっさりと足払いで敗北した。今の状況も、もしかしたら同じかもしれない。感情的になって、大切なことを見逃しているかもしれない。
深呼吸をして、心を落ち着かせた。ハイネが教えてくれたことを思い出す。戦いは感情ではなく、冷静な判断で行うものだ。今は戦いではないが、同じことが言えるだろう。
「...分かった。話を聞かせてくれ」
構えた拳を下ろすと女は安堵したような表情を見せた。聞かなければ。もし、逃がしたというのが本当なら今は母さんとラビ、そして生まれているであろう赤ん坊を守りながらということになる。それならすぐに追いかけたい。焦りだけが募っていく。
「ありがとうございます。私は...実は......」
女が説明を始めようとした時、不自然な沈黙が続いたあと目の前の華奢な体が大きく傾いた。次の瞬間、舞い落ちる雪片のように音もなく倒れ込んだ。
「おい!大丈夫か!」
慌てて女に駆け寄った。呼吸が浅い。恐らく何か所か骨折して、いや"させて"いる。
焦燥と混乱が私の胸中で膨らんでいく。本来なら、すぐにでも母さんを追いかけたかった。しかし、目の前にはカルラ達を救ってくれたかもしれない人物が倒れている。この女を見捨てて行くことは、幼い頃から大事にしてきた母の教えに反することだった。困っている人がいたら、手を差し伸べよ、と。
「くそ...母さん達は無事なんだろう?なら、きっと大丈夫だ。きっと...っ!」
私は自分に言い聞かせながら、気絶したその女を抱え上げた。彼女は思っていたよりも軽く、まるで羽根のようだった。普段の訓練で鍛えた筋力のおかげで、それほど苦労することなく背負うことが出来た。血煙と怨嗟に包まれた集落を後にして、私は帰郷叶わず王国に戻ることとなった。
きっと、母さんなら大丈夫だろう。きっと...
ハイドラの背中に揺られて家に戻る道中。女は時々うわ言を口にしていた。悪夢にうなされているようだった。何か事情があるのかもしれない。内容は聞き取れなかった。ただ、何度も懺悔の言葉を紡ぐ彼女は、惨劇の時とは別人のように弱く、儚く映った。
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ハイドラを限界まで走らせ、二日で家に戻ったころには、もうハイドラは私と目を合わせてくれなかった。本当にすまないと思う。移動の間、彼女は一度も目を覚まさなかった。質素なベッドに寝かせ、傷を確認すると想像以上に酷い状態だった。このままでは命に関わるかもしれない。
街の医者を呼びに行ったが、玄関先で顔を合わせるなり男の分際で医者を呼びつけるなと一蹴された。本当にこの下らない女尊男卑は反吐が出るが、今は一刻を争う。仕方なく、自分で応急処置をすることにした。カルラから教わった簡単な治療法を思い出しながら、アリアの傷を清拭し、包帯を巻いた。服を脱がせると絹のような白い肌が見え、流石に顔が熱くなったが、命に関わることなので我慢した。良く分からないが、何故か下半身がむずむずした。
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一週間、私は看病を続けた。水分を少しずつ飲ませ、熱が上がらないように体を冷やした。騎士団への報告も行かなければならなかったが、この状況では仕方がない。フレデリックには後で説明しよう。
そして休暇が終わる前日の朝、ようやく女が目を覚ました。
窓から差し込む朝日が、まだ幼く見える女の頬を照らしていた。私は椅子に座って彼女の様子を見守っていたが、ようやく目を開けたのを確認して安堵した。女はゆっくりと辺りを見回している。見慣れない天井、質素な家具。きっと混乱しているのだろう。
「ここは...どこでしょうか?」
女の声は掠れていて、まだ本調子ではないようだった。ずっと眠り続けていたのだから当然か。
「やっと、目が覚めたみたいだな。ここはオレの家だ。あんたが倒れたから、運んできた」
女は起き上がろうとしたが、体が思うように動かないようだった。それまでぼんやりとしていた顔には、徐々に苦痛の色が広がっていく。
「体が...動きません。拘束されているのでしょうか?」
警戒心を露わにした女の表情を見て、私は慌てて説明した。
「いや、違う。あんた、骨を何本も折ってるんだ。それに疲労も酷い。しばらくは安静にしてないと」
説明を聞いて、女は自分の体を見下ろした。そして、自分が包帯を巻かれていることに気づき、顔を真っ赤にした。私も同じように顔が熱くなるのを感じる。
「わ、私の服は...?」
「あ、ああ!変なことはしてないから!治療の為に脱がせただけだ!」
慌てて説明すると余計に怪しく聞こえてしまっただろうか。本当に治療の為だったが、やはり恥ずかしかった。あの時は必死だったとはいえ、今思い返すと顔から火が出そうだ。女は少し安心したような表情を見せたが、まだ顔は赤いままだった。
「あ、ありがとうございます。ご迷惑をおかけして...申し訳ありません」
「いや、いいさ。回復したら、あの日何があったか教えてくれ。朝食を用意する。少し待ってくれ」
私は台所に向かい、硬いパンをお湯でふやかした。体を動かせない女を手伝い、ゆっくり上半身を起こす。スプーンでパンをほぐしながら、適度な温度になるまで待つ。
「口を開けてくれ」
私がスプーンを差し出すと、女は少し恥ずかしそうに口を開けた――その時だった。
「ぁーん...」
予想外の仕草に、一瞬手が止まった。あの地獄で殺し合った女が見せる、あまりにも無防備な姿。思わず口元が緩む。
「はは、意外と可愛らしいところもあるんだな」
「ぁ...ごめんなさい...」
女の慌てぶりを見ていると、なんだか心が温かくなった。明日、騎士団にいくまでに全快することはないが、こうして意識が戻ったのなら一歩ずつ快方に向かっている。私は床に寝るのに慣れている。このまま看病を続けよう。ああ、そういえばまだ名前も聞いていなかったな。
「オレは獣人族カルラの子、セラ・ドゥルパだ。あんたは?」
「私はアリア。アリア・ヴェルディスと申します。」
アリアは食事を済ませると、またすぐに眠ってしまった。まだ話は出来そうにない。気長に待つとしよう。
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そして翌日、休暇が終わり騎士団に戻る朝。慌ただしく、目の回るような二週間だった。まだ心の蟠りは残ったままだが、今は母さん達を信じよう。私は軍服に着替えて彼女に話しかけた。そういえば、彼女もどこかの国の軍服のようなものを着ていた。洗濯も済んでいるし、返さなければな。
何故か、着替えた私を見るアリアの目はとても驚いているようだった。軍服が珍しいのだろうか。
「今日から騎士団に戻らなきゃいけないんだ。何もない家だけど、治るまでゆっくりしていってくれ」
視線を感じながら、壁に立てかけていた槍を手に取った。布で包まれていたそれを取り除くと、黒曜石の美しい刃が朝日を反射して輝く。その瞬間、空気がざわついた気がした。振り返ったときに目に映った彼女の表情は、とても、悲しそうだった。
「セラ君、その槍...」
「ああ、これは母さんから受け継いだんだよ。どうかしたか?」
私の問いかけに、女は酷く震え声で答えた。
「ここは...ここはどこですか?聞かせてください」
「フェナンブルク王国のスマゴラって町の外れだ。どうして?」
更に沈んでいく彼女の双肩に、何が乗っているのか私には想像出来なかった。
その理由はいずれ聞くことにしよう。




