019.炎の集落、アリアの願い
私、アリア・ヴェルディスは、ゴア帝国の特使として和平交渉の重責を担い、フェナンブルク王国へと向かう旅路についていた。本来であれば帝国の威信を示すため、豪華な馬車に帝国旗を掲げ、護衛騎士団を従えて堂々と街道を進むべきところだろう。金糸で刺繍された帝国の紋章を掲げ、武装した騎士たちが整然と隊列を組み、威風堂々と王国の首都へ向かう――本来ならば、そうあるべきだった。けれど、そんな理想は戦場の現実の前には、あまりに儚い。
しかし現実は、そう甘くない。両国間に横たわる戦場を通過するのは、外交使節といえども不可能に近い。戦闘に巻き込まれれば、和平交渉どころではなくなってしまう。魔法による攻撃の残滓が大地を焼き、死体の山が築かれた戦場を、どうすれば安全に通過することが出来るというのか。敵味方の区別もつかない混戦状態で、帝国の旗を掲げていようとも、容赦なく攻撃を受けるに違いない。
更に深刻な問題として、フェナンブルク王国側の強硬派による妨害工作の可能性もある。王国内に於いても派閥はあるが、間者の情報では和平を望む勢力は確認されていない。つまり、コンタクト次第ではその場で戦闘になる。帝国の兵士も、特使も、何ら関係はないからだ。暗殺や拉致といった手段で交渉を阻止しようとする者達の存在も報告されている。正規のルートを通れば、そうした危険に晒される可能性が極めて高い。
熟慮の結果、私は危険を承知で山岳地帯を迂回せず、山を越えるルートを選んだ。リズには散々反対されたが、決してこの判断を無謀だとは考えていなかった。私の魔法技能と戦闘経験を客観的視点で分析した結果、単独での山越えは十分可能だと判断したのだ。ゴア帝国でも指折りの風属性魔法使い...自分で口にするのは恥ずかしいが、"風神"アリアなら対処出来る。これまで数々の困難を乗り越えてきた自負がある。
山岳地帯の危険な魔物たちと遭遇しても、十分対処可能な戦闘力を有している。食料や水の確保についても、魔法による狩猟技術と、山の恵みを見分ける知識を身につけている。サバイバルに関する知識なら、十分に蓄積されている。
天候の変化など恐れるに足らない。風属性魔法使いなら誰もが、気象の変化を敏感に察知出来る。突然の嵐や霧に遭遇しても適切に対処出来るし、風の流れから天候を予測し、危険な気象現象を事前に回避出来るだろう。実践経験に乏しいのが、些か不安ではあるが。
しかしながら、この任務の重要性を考えれば多少のリスクは受け入れざるを得ない。両国の戦争を終結させ、無意味な殺戮を止めるためには、確実に王国に到達する必要がある。正規ルートでの移動が不可能である以上、この山岳ルートが唯一の選択肢だ。帝国の未来、そして両国の民衆の命がかかっている以上、個人的な安全を優先するわけにはいかない。客観的な実力評価に基づく合理的判断だった。
本当は軍人になんてなりたくなかったとは、誰にも言えなかった。
決して裕福ではない家庭だったにも関わらず、父と母は体を壊してまで私に全てを注いでくれた。そんな両親の期待に応えてあげたかった。二人の背中を見て育った私には、勉強は苦にならなかった。幼少期から魔法の英才教育を受け、帝国魔法学院では首席で卒業した私は、実戦経験を積み重ねながら、魔法の可能性について常に研究を続けてきた。街や、人々の暮らしを良くするためにずっと学んできた。体からマナが無くなっても生命力を変換して実験を続けた私は、いつしか実年齢と外見年齢にズレが生じていた。我が身を切って世に出した研究成果は悉く戦争に使われ、名も知らない誰かの命を奪っていく。そして私はいつしか考えるのを止め、人形のように無機質で、色の無い日々を送っていた。
ユークリッド陛下から呼び出された私に言い渡された指令は、無意味な殺し合いに終止符を打つことだった。これこそが、命を掛けるに値する任務なのだ。帝国の明るい未来を築くべく、私は意気揚々と馬車に乗り込んだ。
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帝国を発ってから二か月、実際に深い森に足を踏み入れ険しい山道を登り始めると、想像を遥かに超える過酷な現実が待ち受けていた。魔物の生息密度が異常に高く、一日に何度も戦闘を強いられる。普通なら人が近づかない奥地であるため、強力な魔物たちが縄張りを築いていたのだ。疲労が蓄積し、魔力の消耗も激しい。それでも私は歯を食いしばって前進を続けた。
ようやく適当な野営地を見つけられたのは、自然を相手にし始めてから三日が経った頃だった。私は、疲れ切った体を休めるため簡易テントの設営に取り掛かった。風魔法を応用して一帯の気配を探り、危険な魔物の気配がないことを確認してからのことだった。それでも尚、私の認識は足りていなかったと言わざるを得ない。まさか遥か頭上の崖から、脅威が降ってくるとは想像もしていなかったのだ。
テントを張り終えようとした矢先、背後から音もなく風が吹いた。身もよだつ殺気を感じた私は、反射的に身を翻した。そこにいたのは、狼の姿をした巨大な魔物、フェンリルだった。体長は優に三メートルを超え、鋼鉄のような毛皮に覆われた筋肉質な体躯、そして圧倒的な威圧感。その黄金の瞳に映る私は、酷く怯えて見えたことだろう。
「出来れば、ノックをして欲しかったですね...」
我ながらなんとも間抜けた一言から、戦闘は始まった。フェンリルは魔物の中でも特に危険な部類に属する。熟練の騎士でも単独では対処困難とされている。私は即座に詠唱を開始し、風の塊を生成した。しかしフェンリルの動きは私の予想を遥かに上回り、瞬きをしたと同時に巨大な爪が私の左肩を深く裂いた。激痛が走り、温かい血液が衣服を染めていく。
「汝、見えざる刃の洗礼を受けよ!烈風刃<ゲイルブレイド>!」
生成した風刃がいくつかは命中したが、フェンリルの分厚い毛皮を貫くには至らない。逆に、傷を負わせたことで更に凶暴性を増したフェンリルが、牙を剥き出しにして襲いかかってきた。走馬灯が見えたその時だった。
突然、森の奥から二つの影が飛び出してきた。一つは背中に何かを背負った獣人族の女性、もう一つは槍を構えた小柄な獣人族の女性だった。背負い物をした女性は大きな弓を素早く引き絞り、フェンリルの両目を同時に潰し、槍を持つ小さな女性が側面から鋭い突きを繰り出す。槍は毛皮を突き抜け、あばら骨の隙間を通り、深々と心の蔵を貫いた。急所を正確に狙った一撃によって、狼は力なくその場に倒れこんだ。
「ありゃ?獣人族じゃないや。大丈夫?人族のおねーちゃん!」
私の命を救ってくれたのは、白銀の髪に垂れ下がった大きな耳をもつ獣人族だったのだ。心配そうに声を掛け、駆け寄ってきた小さな獣人族は子供のように見えたが、先ほどの見事な槍術を目の当たりにしてそのようには思えなかった。既に立派な戦士なのだ。もう一人の獣人は成人しており、なんと背負っていたのは赤子だったのだ。きっと二人の母親に違いない。このような激しい戦いがあってもぐっすり寝ている。
「私はカルラ。そっちのは娘のラビ。背中にいるのはリリス。人族の娘さん、酷い怪我だね。傷がかなり深い」
カルラと名乗った女性は、背中の赤子を気遣いながらも、私の傷を確認していた。彼女らが何も言わずに助けてくれたのは、私の髪色のせいだろう。同じ白銀の髪に、これほど感謝したことはなかった。
「アリア・ヴェルディスと申します。お二人のおかげで命拾いしました。本当にありがとう」
私は深々と頭を下げた。彼女たちがいなければ、今ごろ冷たい死体となっていた。
「その傷では歩くのも大変でしょう。私達の集落においでなさい」
カルラの提案に、私は頷くしかなかった。しかし、内心では不安もあった。獣人族と人族の関係は複雑で、必ずしも友好的とは言えない。それでも、怪我を治療しないまま一人で山を越えるのは不可能な状態だった。傷は深く、流血も少なくない。少しずつ意識が遠のいていくのが分かる。
「お母さん、この人本当に大丈夫なの?人族だし...」
「ラビ、救いの手を差し伸べるのに種族は関係ないでしょう。それに、貴女が一番好きな人は人族じゃない」
「もー!すぐそういうこと言う!さいあく!」
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ラビに担がれて来訪した獣人族の集落は、深い森の奥にひっそりと存在していた。木造の簡素な家屋が点在し、中央には共同で使用する広場がある。住民たちは私を見ると、明らかに警戒の色を浮かべた。人族を集落に連れてくることに対して、良い感情を抱いていないのは明らかだった。まるで汚物でも見るかのようなその目は、直視するにはあまりにも暗く、深すぎた。
「カルラ、"また"人族を...」
「ジャクロじいさん、怪我人を見捨てるわけにはいかない。それが誰であろうと、私は助けるよ」
カルラは毅然とした態度で答えた。背中の赤子、リリスが小さく泣き声を上げる。
「やっと静かな生活が戻ってきたと思ったのに。貴様が長でなければ...この裏切り者めがっ!!」
ジャクロと呼ばれた老人は、姿が見えなくなるまで悪態をつき続けた。カルラはこの集落を取りまとめる立場であるらしい。その彼女が決めたことには従うしかないのだろうが、獣人族の上下関係は純粋な力でのみ決められると聞く。集落を守る立場の者が余所者を連れ込んだとあっては、さぞ忸怩たる想いであったに違いない。
家屋の数や気配から察するに、集落に住む獣人は百から二百人程度かと思われる。しかしカルラとラビ以外から好意的な目を向けられることは、残念なことに一度もなかった。この二人、いや三人というべきか。彼女らはこの土地に於いて、異端中の異端なのだ。当然救われた身である以上、私から言及することは何もない。
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住人達との"素晴らしい"邂逅とは裏腹に、集落での生活は、想像以上に穏やかなものだった。カルラとラビは献身的に私の看病をしてくれ、傷の回復も順調に進んだ。特にカルラの第二子であるリリスは本当に愛らしく、その無邪気な笑顔に何度も心を癒された。生後間もないにも関わらず、既に獣人族特有の鋭い感覚を持っているようで、私の魔力に敏感に反応することもあった。
「アリアお姉ちゃん、今日も槍の鍛錬見る?」
ラビの槍術の腕前は十歳とは思えぬ程に素晴らしく、見学させてもらうたびに感心させられた。もう並の大人では太刀打ちできないレベルだろう。ルゥ・ミリオン四天将に指導させれば、いずれ至達と呼ばれる存在になる。
どうやら一年ほど前、この集落には人族の少年が住んでいたようだ。戦場で人族の赤子を見つけたカルラが連れ帰って育てたらしい。ラビも兄のように慕っていたそうだが、私と同じく集落の住人からは良く思われておらず、長であるカルラの庇護下でなければ酷い迫害を受けていたに違いない。
「ラビ。あまり我儘を言っちゃダメでしょう」
「えー、でもアリアお姉ちゃんも見たいって言ってくれたもん」
日々の喧騒から離れ、ラビの子供らしい反応を見ていると思わず頬が緩んでしまう。彼女がリリスの世話を手伝う姿は、本当に微笑ましかった。姉としての責任感と、子供らしい愛情が混在している。カルラが褒めると、ラビは嬉しそうに笑顔を見せた。このような平和な日常が、いつまでも続けば良いのにと思わずにはいられなかった。
その間、私は三人から多くのことを学んだ。獣人族の文化、彼らの価値観、そして何より、種族を超えた絆の大切さを。カルラは単なる戦士ではなく、深い知恵と慈愛に満ちた女性だった。ラビもまた、純粋で優しい心を持った少女で、私を実の姉のように慕ってくれた。年齢ではカルラより年上だがこの容姿ではさもありなん。
しかし、集落の他の住民たちの視線は、日を追うごとに厳しくなっていった。人族である私への不信と敵意は根深く、表面的には平穏を装っていても、内心では私の存在を快く思っていないのは明白だった。
それでも、私は半年という長期間を集落で過ごし、傷も完全に癒えた私は、そろそろフェナンブルク王国への旅を再開すべき時期だと判断していた。この双肩に乗るものが何なのか。それを想えば、これ以上の滞在は許されない。
でも、いつもそうだ。
重大な岐路に立った時、上手くいった試しがない。
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夕食を終え、カルラはリリスを膝の上に抱き上げ静かに授乳を始めた。生後半年を迎えたリリスは、以前よりもふっくらとし、健康そのものといった様子だった。母親の温かい胸に抱かれ、安らかに乳を飲む姿は、見ているだけで心が和む。
「リリスも随分大きくなりましたね。赤子の成長は本当に早いものです」
私が微笑みながら呟くと、カルラも嬉しそうに頷いた。
「心配になるくらい手のかからない子だけど、こうして健やかに育っていく様子を見ると、疲れも吹き飛ぶわね。」
「このままアリアお姉ちゃんも、一緒にいればいいのに。ねえ、お母さんもそう思うでしょ?」
子供ながらに、何かを察したのかもしれない。彼女の顔つきには、別れを惜しむ気持ちが明確に表れている。彼女らには本当に良くしてもらった。人族の私を助け、集落の迫害から守り、献身的に看病してくれた。この恩はいつか必ず返そう。
しかし今、私にはやらねばならないことがある。
「明日には王国への旅を再開しようと思います。長い間、本当にお世話になりました」
「...そっか。アリアお姉ちゃんも行っちゃうんだ」
ラビが母親に助けを求めるような目を向けたが、カルラは優しく首を振った。
「ラビ、アリアには大切な仕事があるんだよ。元気になってよかったじゃない。笑顔で見送ってあげよう」
そんな一幕を切り裂くように事件は起こった。
集落の向こうから凄まじい悲鳴が上がったのだ。
それは人の声とも、獣の声とも言えない歪んだ声。
そして何かが激しくぶつかり合う音、怒号、そして更なる悲鳴。
ただならぬ事態が発生していることは明らかだった。とても、嫌な予感がした。
「ラビ、槍を。」
カルラが立ち上がりながら呟いた。リリスを抱きしめる腕に、自然と力が入る。普段垂れた長い耳は、いつしかピンと立っていた。
「お母さん、何かな...」
カルラの指示で素早く槍を手に持ったラビも、この異常な状況には不安を隠せない。
「私が様子を見てきます。お二人は何かあればすぐに逃げられるよう準備をしていてください」
私は立ち上がりながら二人に指示した。この集落で半年を過ごし、住民達を観察する時間は十分あった。互いの上下を決める際、決闘という形をとる事はあるが、これほどの騒ぎになるとは考えにくい。何か異常な事態が発生しているのは間違いない。伝染病などの可能性もある。せめてリリスはこの一帯から離れさせたほうがいいだろう。
「集落を捨てて逃げるなんて、絶対にヤダよ!」
ラビが涙声で反論するも、カルラは素早く判断を下した。
「ラビ、最低限の荷物をまとめて。アリアの言う通りよ。あの声は絶対に普通じゃない。何が起きているか分からない以上、最悪の事態に備える必要がある。」
「でも!!待っていればお兄ちゃんもいつか帰ってくるかもしれないじゃん!!」
「ラビ!!!」
一喝されたラビは歯を食いしばりながら身支度を始めた。あんなに純粋な彼女にこんな思いをさせるのは慙愧に堪えないが、今は仕方ない。
私は家を出て、音の聞こえる方向へと向かった。集落の中央にある広場に近づくにつれ、異様な光景が目に飛び込んできた。そこでは行われていたのは、獣人族同士の激しい殺し合いだった。単なる喧嘩や争いではなく、双方とも金切声をを上げながら唾液をまき散らし、猛獣のような様相で相手に襲いかかっている。
「これは...何が起こっているというの...」
仮に、地獄というものが本当にあったとしたなら、今目に映るものが"それ"なのだと思った。腕が不自然な方向に曲がっているにも関わらず、その腕を振り回して相手を殴りつけている者もいる。痛みを感じていないかのように、ただひたすら相手を攻撃し続ける異常な光景だった。理性を完全に失い、本能のままに殺し合う姿は、正視に耐えないものがあった。一刻も早くカルラ達を脱出させなければ。
私は急いでカルラたちのもとに戻った。
「すぐに集落から出て下さい。何らかの伝染病の可能性があります」
伝染病かどうかは定かではないが、この異常な状況が伝播する危険性を考慮すれば、一刻も早く距離を置く必要があった。カルラは迅速に行動し、眠っているリリスを毛布に包んで抱き上げた。ラビも最低限の荷物を背負い、準備を完了している。
「本当に...行かなきゃダメなの?」
ラビが最後の抵抗を見せたが、カルラが優しく頭を撫でた。
「集落より、ラビとリリスが生きている方が大事。いくわよラビ」
三人は裏口から静かに家を出て、集落の外へと向かった。
「私はもう少し様子を見てきます。お二人は先に安全な場所まで避難していてください」
「何を馬鹿なことを言っているの!アリアも一緒に来るのよ!」
私は首を横に振った。
「何が原因でこのような事態になったのか、調べておく必要があります。ご心配は無用です。自分の命を最優先に行動します。」
実際のところ、住民たちを助けるためではない。魔法研究者としての興味と、今後の対策を考える上で、この現象の原因を把握しておきたかったのだ。好奇心とはかくも恐ろしいものである。
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二人が安全な距離まで離れたことを確認してから、私は再び広場の様子を遠くから観察した。相変わらず獣人族たちは狂ったように殺し合いを続けている。しかし、注意深く見ていると、ある違和感に気づいた。
広場の端に、深いフードを被った不審な人物が立っている。その人物は体の倍ほどもある巨大な荷物を背負っているのか、背中が異様なほど膨らんでいる。性別も年齢も種族も判別できないが、獣人族の争いをただ静かに観察している姿は明らかに異常だった。
そして私はこの半年、一度もあのような風体の住人を見ていない。まず間違いなく、この悍ましい光景の原因だと断言出来る。
「魔法を行使している気配はない...何等かの呪術?」
家屋の陰から静かに観察していると、背後からけたたましい金切声。振り返ると血走った目をした獣人族の男性が私に向かって走ってくるところだった。
「風よ、吹き荒れよ!風弾術<ウィンドブラスト>!」
咄嗟に詠唱した風魔法により、高密度の風弾が男性の首から上を吹き飛ばした。宙に浮いた頭部が地面に落下する音が不自然なほど響くと、広場で争っていた獣人族たちが一斉に動きを止め、全員の視線が私に集中する。そして、子供も老人も関係なく、集落"そのもの"が襲いかかってきたのだ。
「くっ...やむをえませんか」
そこからは私も、地獄の一部となって踊った。心は凍てつき、感情が音もなく剥がれ落ち、かつての冷たい人形が戻ってくる。そう、私はこうして生きてきたのだ。何も感じず、ただ命じられたことを遂行する――それが、私の役割だった。詠唱と共に、圧縮された風の塊が老人の頭部を、少年の腕を、赤子の顎を次々と砕いていく。この半年が泡沫の夢となり遠くなっていく。いつしか私は完全に、以前の人形に戻っていた。風の弾は次々と集落の住民を粉砕し、血と脳漿が四方に飛び散る。
何故、こうなってしまうのだろうか。
襲ってくる獣人達は直線の単純な動きだったのが、私の感情を凍らせていった。まるで畑の雑草を毟る作業のように命を散らしていく。
複数の風弾が六人の獣人族の頭部が立て続けに破裂し、血の雨が降り注ぐ。しかし、彼らは仲間の死を見ても怯むことなく、ただひたすら私に向かってくる。
年老いた女性が、折れた腕をぶらぶらと揺らしながら私に飛びかかってきた。その顔は既に挽肉のようになっており、最早魔物と遜色無かった。風の塊が老女の顔面を直撃し、頭部が粉砕される。しかし、その直後に幼い子供が私の足に噛みついてきた。小さな牙が肉に食い込み、激痛が走る。
「...感染症になったら困るじゃないですか」
風の刃を生成して、子供の首を刎ねた。懺悔も、躊躇も、もうなかった。すでに沈み切った私の心は、酷く濁った灰色に違いない。彼らは人ではなく、何かに操られた傀儡と化していたが、皮肉なことに私もまた感情を失った人形に過ぎないのだ。
彼らは痛みを感じることなく、四肢が千切れようとも攻撃の手を緩めない。私は次々と風弾術を放ち、襲いかかる者たちを迎撃した。広場は血の海と化し、破裂した頭部の破片が散乱している。
そして最後の一人、悪態で私を出迎えてくれた獣人族の頭部が破裂し、ようやく静寂が戻った。私は息を切らしながら、血まみれの広場を見渡した。
...扨て、始めよう。
まず、この異常な現象の発生原因について考察する必要がある。獣人族たちが突然理性を失い、野獣と化したのは自然現象ではない。何らかの外的要因、おそらく呪術的な干渉があったと考えるのが妥当だ。人族が利用する魔法は自然現象の人為操作から逸脱することはない。自我を奪い、狂わせるなど絶対に出来ないハズだ。であれば、人族の枠外の可能性はどうか。ゴブリンソーサラーなどの一部の魔物は特殊な魔法、いや呪術体系をもつと聞くが。想像の域を出ない。
次に、なぜこの集落が標的となったのか。地理的に孤立しており、実験場として適していたのかもしれない。あるいは、この集落に何か特別な要素があったのか。しかし、カルラとラビ、そしてリリスには、事前に何の前兆も見られなかった。あまり考えたくはないが、今頃逃げた彼女らも同じようになっているかもしれない。
最も興味深いのは、一人の獣人族を殺害した途端、周囲の意識が一斉に私に向かってきたことだ。これは明らかに個別の意識ではなく、何らかの集団意識が存在していたことを示唆している。まるで蜂の巣のような集合体として機能していたのかもしれない。あの瞬間、全員が私のみを敵として認識"させられた"のだ。
そうなると、戦闘中に確認していたあのフードの人影の正体を暴く必要がある。しかし気づけば姿を消していた。広場を見渡しても、その不審な人物の姿はどこにもない。あの者こそが、この異常事態の元凶である可能性が高い。いずれにせよ、この現象を引き起こした者の目的は不明だが、その技術力は相当なものだと推測される。
いけない。このままではいけない。
この場で解剖を始めてしまいそうだ。
まずは私の手で葬った獣人族の皆を悼むのが先だろう。
...人間なら、そうすると思った。
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私は一人一人の死体を広場の中央に運んだ。家屋や岩などにこびりついたものは無理でも、飛び散った頭や腕は全て集めた。重労働だったが、半年間も異端者を集落に置いてくれた恩を思えば、これくらいはしなければならない。民家から薪を拝借し、小さな赤い魔石のはめられたアーティファクトで火を起こした。
煌々と燃え上がる炎は、恐ろしい勢いで空を染めた。そして強烈な悪臭。きっと何も知らない人間が見れば、私は大層恐ろしく見えるだろう。しかしそれでも、先ほどの地獄と比べたら幾分か美しく見える。
カルラ達は無事だろうか。獣人族の血がついたこの軍服で和平交渉に行くのか。今から出発したら、フェナンブルク王国に到着するのはいつ頃だろうか。
死体の山の中で、頭部だけになった獣人族と目が合った。頭髪が燃え、眼球や肌が溶け落ちていく。それをただ茫然と眺めた。もう考えるのは疲れた。少し、休みたい。
「お前!何した!」
...大きな声を出さないでほしいものだ。突然、背後から乱暴に声を掛けられた。振り返ると、そこには人族の少年が立っていた。私と同じ白髪だが、年齢はラビと同じくらいだろうか。庶民的な服装だが、瞳の奥に宿る殺意が、彼がただの少年ではないことを物語っている。布に包んだ長物は武器の可能性が高い。
まだ幼い人族の男の子をこれから手にかける。ああ、やはり躊躇いはない。
もう私は、人形だから。
獣人族の次は、人族か。
また命を奪う"作業"が始まる。
ゆっくりと右手にマナを集中させる。
私の道に敷かれるのは、憎悪と怨念で編まれたカーペットなのだろう。
辿ってきた道には、骸しか残っていない。
誰か、私を、
ここから連れ出して欲しい。




