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継承のセラ  作者: 山久 駿太郎
第二章 -立志編-
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018.帰郷、そして邂逅

新暦269年、春。私は十二歳になり、小隊長となってから一年が経とうとしていた。季節が一巡し、王国の空にも穏やかな日差しが戻っている。戦争は膠着状態に入り、大きな動きはない。そんな平穏な午後、私は騎士団本部の食堂で小隊の仲間たちと昼食を共にしていた。


食堂は無骨な石造りの壁に囲まれ、天井が高く、長いテーブルが整然と並んでいる。窓から差し込む春の陽光が、埃の舞う空間を温かく照らしていた。未だ男性騎士達への陰湿な嫌がらせは水面下でも存在しているようだが、少なくとも私はそういったことを感じなくなっていた。以前は無理やり半分に千切られたパンが載っていたトレーには、街のパン屋から卸されたままの状態で二つも載せてくれる。

シンシア団長の方針が徹底されたのか、それとも中級騎士、小隊長という肩書によって周囲が変わったのかは定かではない。そうではなく、皆が同じ仲間として認識を改めてくれたなら嬉しいのだが。厳しい訓練を続けてきた一年だったが、少なくともこの小隊の中に於いて、性別による差別は見られなかった。


「隊長、午後は連携訓練でしたよね?私はまだまだ走れますが、ビューラさんがもう限界だと...」

「ウィルさんちょっと!いや隊長違うんです!」


ウィルの告げ口にビューラは食い気味に反応した。力を込めたせいか、手に持ったパンを握りつぶしてしまっている。


彼は三十三歳になったが、この一年で見違えるほど逞しくなった。以前の泥臭い戦い方は健在だが、筋肉も一回り大きくなり、よく自信に満ちた表情を見せてくれるようになった。息子の為に戦うという信念が、彼をここまで成長させたのだろうか。


十七歳になったビューラは、この一年で最も大きな変化を遂げた一人だ。弱音を吐きながらも逃げることなく訓練に向かい続けた結果、今ではウィルよりも体力があるのだから驚きだ。

以前の気弱な性格は変わっていないが、それこそが彼女の索敵能力を裏付けるものだろう。風魔法の応用によって、周囲の僅かな風の動きから敵の位置を正確に割り出せるのはとても頼りになる。


「連携か...」


フォウは二十九歳になった。彼女は基礎体力訓練の他に、戦術眼を磨くことを重視してきた。土属性の魔法も格段に上達し、戦場での陣地構築能力は騎士団内でも屈指のレベルに達している。濃紺の髪を短くまとめた凛々しい姿は、まさに歴戦の戦士といった風格だ。

変わらず寡黙なようで、酒を飲むと随分饒舌になることも分かった。以前私も同席したときは、同一人物とは思えない程よく笑っていた。そのまま寝てしまったフォウを置いて帰った翌日は、鋭い目つきが更に細くなっていた。


「オレも魔法を自由自在に使えるようになるまで、ひたすら訓練しないとな」

「いやいやセラくん何を言うてるの。もう十分やと思うよ?ウチも勝てへんくなってしもたし、あの頃の可愛い隊長殿が懐かしいわあ」


ハイネには多くのことを教わった。数千人規模での白兵戦に於ける立ち回りや、受け流しに特化した槍術、魔法の技術指導、頼んではいないがモテる男の秘訣。学んだことは数え切れない。何度か手合わせをしていくうちに、いつの間にかハイネに勝ち越せるようになっていた。初めて勝ったときは思わず勝鬨を上げてしまったものだ。その日は口を聞いてくれなかったが。

彼女は今年で二十一歳なった。その間王国からは何度も"星付き"騎士になる話を貰っているらしいが、相変わらずのらりくらりと躱しているいるらしい。


---


「そういえば隊長、里帰りとかしないんですか?」


ビューラの何気ないその質問に、私は手を止めた。里帰り。確かに、この一年間はあまりにも目まぐるしく、そんなことを考える余裕もなかった。人族の文化を学ぶこと、呪い、騎士団での訓練、そして小隊長としての責務。故郷のことを思い出す暇もなかった。


「里帰り...か。考えたこともなかったな」


私の答えに、ウィルが驚いたような表情を見せた。


「隊長はまだ十二歳じゃないですか。ご家族もきっと会いたがっていると思いますよ?」


ウィルの言葉には、不思議と説得力があった。彼自身、息子のことを常に気にかけており、家族の絆の大切さを誰よりも理解しているからだろう。そう言われると途端に郷愁にかられるのだから、本当に私は単純だ。


「母さんとラビ...元気かな」

「行きはったらええやん」


ハイネが軽い調子で言った。


「帝国との前線もからっきし動いてへんし、今なら一ヶ月くらい休暇取れるんとちゃう?シンシアちゃんも許してくれると思うよ」

「ハイネさん、"団長"ですよ!」


ウィルの指摘にハイネは煩わしい顔で返すが、ハイネ以外の三人も意見としては賛成のようだ。


「確かに、今は比較的平穏だ。前線の様子を聞く限りでもそうそう場面転換は起こらないだろう。隊長、私もいい機会だと思うぞ」


「でも、お前たちの訓練は...」


私が心配を口にすると、ビューラが慌てたように手を振った。


「大丈夫です!私たち、もうそんなに子供じゃありませんから!」

「そうそう。なーんも心配せんでええよ!」

「ご心配には及びません隊長!自らを律し、訓練に励みますので!」

「ああ、その通りだ!我々なら問題ない」


普段の訓練でも見せた事のない連携に思わず疑念を持ってしまったが、確かに今の彼女達なら、付きっきりで指導する必要はないかもしれない。

仲間たちの温かい言葉に、私の心は動いた。実際母さんとラビに会いたい気持ちは強くなっている。

あの時、家を出る時の約束を思い出す。「人族と獣人族が、もっと仲良く出来るようになったら帰る」と言ったが、少なくとも現状に不満は抱いていない。訪ねても長居はせず、元気な顔を見て帰ろう。二人にも余計な心労を掛けたくない。


「分かったよ。フレデリック副団長に相談してみる。ただし、訓練メニューは預けておくからな。毎日欠かさずやるように」


私がそう言った瞬間、全員の顔が一斉に曇った。ウィルは苦笑い、フォウは深いため息、ビューラは露骨に嫌そうな顔をしている。そして普段は何事にも動じないハイネが一番しょぼくれていた。


「冗談だ。お前たちなら、もう自分で考えて訓練できるだろう」


私の言葉に、全員がほっと安堵の表情を見せた。この一年間で、彼らは確実に成長している。技術的な面だけでなく、精神的にも大きく成長した。きっと大丈夫だろう。


---


昼食を終えた後、私たちは午後の訓練に向かった。第三訓練場では、他の小隊も訓練を行っており、活気に満ちていた。最近は体力を有り余らせている騎士が多い。実地に行けない血気盛んな者はこうして訓練に励むこともあるが、そうではない一部の人間は日々下らないことでいざこざを起こすようになっている。難儀なことだ。

私たちが到着すると、既にアムと数人の騎士が魔法訓練を行っていた。


「セラ!丁度良いところに来た!」


私を見つけるや否や、訓練場に響き渡るやかましい声が耳をついた。


「アム。調子はどうだ」

「ぼちぼち。でも、小隊を持つってのは思っていたより大変なんだね。セラの苦労がよく分かる」


アムとの関係もこの一年で大きく変わった。今では対等な戦友として互いに敬語を使わずに話している。

三ヶ月ほど前、彼女は私と同じく中級騎士に昇格し、自身の小隊を持つに至った。なんでも、騎士団内に潜む間者を見つけ出した功績なんだとか。本来入団には"真実球"を用いて邪な考えを持つものはその場で発見できるハズなのだが、どうやら間者は入団試験を受けることなく、さも騎士団に従事しているかのような顔で王国内を跋扈していたらしい。随分と物騒な話だと思いながら聞いていたが、戦時中である以上当然のことなのかもしれない。

挙動を不審に思ったアムの調査により査問された間者はその場で自死を選んだそうだ。やるせない話である。


「やっぱり実戦を想定した訓練をしたくてさ!セラの隊がよかったら合同で訓練しない?」

「ええやん!やろやろセラくん!」


こういう時、ハイネはいつでも楽しい方に流れる。まあ里帰りの前に皆の実力を見ておくのも悪くない。お互いに何か得られるものがあるだろう。実際、私の黒雷のせいで訓練の相手がいないのは悩みの種だった。アムのように向かってきてくれるなら是非もない。アムの背後にいる四人がずっと首を横に振っているが、気のせいだろうな。きっとそうに違いない。


「分かった。手加減は出来ないからな。救護室のベッドは予約してあるか?」

「...言ってくれるねえ。絶対泣かしてやるからな。ハイネ先輩も、よろしくお願いします!」

「おう。よろしくなあ」


こうして、私たちは急遽合同訓練を行うことになった。アムの小隊と私の小隊が向かい合い、実戦を想定した模擬戦を開始する。互いの距離は100mほど。小隊に素早く指揮を出す。


「皆、聞いていたな。敵の小隊と遮蔽物の無い状況下で接敵した想定の訓練を行う。相手はアム・グリエが指揮する小隊だ。負けるつもりは無いが、油断はするな。」


私の指示に、全員が緊張した面持ちに変わる。


「敵の使用する魔法は特定できない。フォウは全体指揮、状況に応じて臨機応変に指示を出せ。ビューラ、ハイネ、中距離から牽制魔法。ウィルはオレと突撃する。すぐに水魔法で防御する体制を整えておけ。以上、最後まで着いてこい!」

「「「「応っ!」」」」


「巨人の腕は彼方より出る。岩岳壁<プロテアムド>!」

訓練が始まると、フォウが即座に土属性魔法で防壁を構築した。訓練によって培われた彼女の魔法は芸術的なほど迅速で照準がぶれない。ビューラとハイネは即座に身を隠し、次の詠唱を始める。

その間に敵小隊の中距離炎魔法が着弾した。魔法の消失を待ってウィルとオレは打って出る。


「隊長!右翼に"渦"出します!」

「了解。ウィル、左翼から出るぞ」


「天を舞う風の槍よ、螺旋を描き敵を舞い上げよ。雲を裂き、空を割れ。竜巻<トルネード>!」


ビューラの風魔法による牽制が入ると同時に、ウィルと同時に防壁から外に出る。

敵小隊視認、三名。ウィルは再度放たれた敵の炎魔法を水魔法で相殺しながら突き進む。この頑丈さこそ彼最強の武器なのだ。敵の一名に低い体勢からタックルをお見舞いし、頭を打った相手は失神した。


「稲妻、駆けよ。電撃術<サンダーショック>!」

黒雷を纏わせた槍で鳩尾を射抜く。石突が深々と突き刺さった二名も戦闘不能となった。しかしアムの姿が見えない。どういうことだ。


その時後方から険しい表情のビューラが駆けてきた。

「報告!視認できない敵の攻撃により、ハイネ、フォウ二名戦闘不能!」

「...ビューラ、風魔法で索敵。ウィル、ビューラを守れ。アムのやつ、光の屈折で姿を隠してるな」


一帯をビューラの風魔法が静かに満たしていく。何故か彼女の起こす風は花の香りがするのだ。

索敵開始から数秒、ビューラが小声でオレに伝える。

「四時の方向、距離13m、二名、歩は遅し、三十秒後に接敵」

「任せろ」


ハイネと共に練り上げてきた雷魔法。槍を杖代わりとして、精密に、正確に、敵だけに直撃させる訓練を積んできた。何度も、何度も。すでに射程圏内なら、遠慮なくいかせてもらおう。穂先を四時の方向に突き立て、照準を定める。


「振り下ろされし天雷は...」

空間を切り裂くような漆黒の稲妻が、黒曜石の切っ先に宿る


「番犬となりて簒奪者の腸を食い破らん。」

アム、救護室には連れて行ってやるから安心しろ。大丈夫だ、死なない程度にしてやる。


「雷鳴斧<サンダーアクス>!」


槍から放たれた凄まじい黒雷は地を這いながら突き進み、その場にいる"何者か"を暴き出した。当然アムともう一人の小隊員だ。二人からは黒い煙が上がり、その場にへたり込んだ。


「あ...あうぅ...セラ、覚えとけえ...」

「ああ。しっかり覚えておくよアム。この光景をな」


ウィルと共にアムの小隊全員を救護室に運びこんだ。少なくともあの威力なら、三日は起き上がれないだろう。ウィルには何度も実験台になってもらった。彼の献身的な協力のおかげで黒雷の制御が上手くいくようになったのだ。本当に感謝している。実験台を買って出てくれたこともそうだが、何度倒れてもめげずに付き合ってくれた。頭が上がらない。

さて、私にはまだやらなければいけないことがあった。訓練場に戻ると、背筋を正して待つ騎士が二人。ビューラはそれを嬉しそうに眺めていた。


まずは...

「ハイネ、フォウ。」

「ちゃうねん」「違うんだ隊長」

この二人に灸を据えなくては。


---


訓練を終えた後、私はフレデリックの執務室を訪れた。相変わらず書類に埋もれている彼に、故郷への里帰りの為一ヶ月程度の休暇をお願いしたところ、現在の戦況を考慮して快く承認してくれた。手続きは思っていたよりもスムーズに進んだ。なんとハイドラも貸し出してくれるらしい。

発つ前にデミも挨拶をしたかったが、あれから彼、いや彼女か?ずっと研究室の奥から出てこない。何度か尋ねたこともあったが、他の研究員からあしらわれてしまった。まあ戻ってくるころにも状況に変化はないだろうから、デミにはあまり関係のないことかもしれない。


出発の日、城門で仲間たちが見送ってくれた。ハイネからは旅路の安全を祈る小さなお守りを、ビューラは貸与されたハイドラの手綱を引いて、フォウは地図と保存食を用意してくた。地図は貴重だ。街中で売られるものは精度が非常に低いが、渡された地図は緻密で、恐らく騎士団本部が利用しているものと同等の精度で書き込みがされている。彼女の自作ということだそうだ。頼りになる。

そしてウィルは息子を連れて見送りに来てくれた。年は十一、私のひとつ下にあたる少年は、自分の父親が子供に頭を下げているのをよく思っていないのだろう。ウィルの影に隠れて一瞥した程度で、会話をすることは出来なかった。

しかしウィルの息子を見る優しい目が、何故かとても印象に残っていた。


一年ぶりに会うカルラとラビ。どんな顔で迎えてくれるだろうか。

ハイドラに跨った私は、フェナンブルクを後にした。


---


王国を発ってから四日が経過していた。一人と一匹で野営を繰り返しながら進んでいる。持久力と機動力に優れている。二足歩行する大型のトカゲのような外見だが、性格は温厚で扱いやすい草食動物だ。この四日間、彼は文句一つ言わずに私を背に乗せて走り続けてくれていた。


西に位置するフェナンブルク王国と、東に位置するゴア帝国の間には、広大な森が広がり、厳しい山岳地帯が東西を隔てている。この森は魔物が多く生息しており、一般人が立ち入ることはまずない。戦争が始まる以前、商人や旅人が両国を行き来する際は遥か北の街道を迂回するのが常識だった。


フェナンブルク王国の周辺は一帯が荒野となっている。乾燥した大地に所々草が生え、岩が点在する殺風景な景色が続く。しかし、荒野の中には一本の大きな川が流れており、これが生命線となって周辺に緑をもたらしている。そのまま川上に向かうと渓谷が構えていて、深い森の中に通じている。川は山の雪解け水が源流となっているそうだ。


私の育った獣人族の集落は、その山の麓にあると思われた。カルラから聞いた話と、この一年間で学んだ地理の知識を照らし合わせると、おおよその位置は把握出来ているが、実際は現地に赴き、幼い頃の微かな記憶と景色を重ねて探索する必要があるだろう。

フェナンブルク王国からはハイドラの足で一週間程かかる距離だった。川沿いに山岳地帯へ向かうと、徐々に景色が変わってきた。荒野の乾いた大地から、緑豊かな森の入り口へと変化していく。空気も湿り気を帯び、鳥の鳴き声が聞こえるようになった。ハイドラも疲れているようで、時々立ち止まって休息を求めてくる。


「渓谷に入ったら休もう。もう少し頑張ってくれ」


私はハイドラの首を撫でながら励ました。彼は低く鳴いて応え、再び歩み始める。渓谷には彼の食事となる草木も生えているはずだ。そこで今日は野営しよう。

やがて目的の場所が見えてきた。澄んだ川の周辺には大小様々な岩が点在し、木々がそれを静かに見守っている。水音が岩を打ち、涼やかな風が頬を撫でた。水の音が大きく響き、涼しい風が吹き抜ける。この渓谷から森に入りそのまま進めば、山岳地帯になっていく。


渓谷には様々な魔物が水を飲みに来ていた。スライムが岩陰で震え、ゴブリンの小さな群れが警戒しながら水辺に近づいている。私とハイドラが近づくと、蜘蛛の子を散らすように去っていった。私の殺気を感じ取ったのだろう。少なくとも追跡して討伐する必要はない。彼らもまた、この生態系を支える者に違いないのだ。

川べりで休息を取りながら、革でできた水筒に水を汲む。冷たく清らかな水は、旅の疲れを癒してくれる。地図を確認していると、川の流れに揺れる何かが視界に映った。流木だろう。





しかし、

何故か、

目が離せない。





水の勢いに押し出され、"それ"は私の方にゆっくりと向かってきた。

鼓動が早くなっていく。認めたくない自分と、すでに気づいている自分との狭間で、私はただ時間が過ぎるのを傍観していた。

森の向こうに姿を隠そうとする夕日が去る間際に照らしたもの。

銀色の髪と特徴的な長い耳、体は膨張しているが、間違いない。

それは、獣人族の死体だったのだ。


騒がしい心臓を抑えながら、観察する。...母さんとラビではないようだ。

死体の状態から判断すると、刺し傷、切り傷が無数に確認出来る。間違いなく自然死ではない。何等かの暴力によって命を奪われたのだ。布に落としたインクのように、私の心に不安が広がっていく。

風に乗って僅かに鼻を突く何かを焼いた匂いが、その不安をより大きなものにした。


食事中のハイドラに跨り、先を急いだ。早急に集落に向かい、すぐにでも私は母さんとラビの安否を確認したかった。


渓谷を抜け、山道に入り、懐かしい景色が次々と現れる。しかし、その景色には何かが欠けていた。鳥の声は途絶え、虫の音も消えている。森は息を止めたように静まり返り、その沈黙は死そのものだった。

山道を進むにつれて、異様な臭いが漂い始めた。それは腐敗臭に似ているが、もっと強烈で吐き気を催すようなものだった。風向きによって臭いは強くなったり弱くなったりしたが、確実に集落の方角から流れてきている。


何故こうも不安が大きくなっていくのか。

川で見つけた死体、

森の異様な静寂、

そしてこの臭い。

全てが最悪の事態を示唆している。しかし、真実を確かめるまでは、希望を捨てるわけにはいかない。


私はハイドラを全力で走らせ続けた。暗く静かな森を、月明かりだけを頼り進んだ。ついに見覚えのある場所に到達した。あの日、母さんとラビと分かれた集落の入り口。その”ハズ"なのだ。

しかし、その光景は私の記憶とは大きく異なっていた。


集落を囲んでいた木製の柵は破壊され、所々に焼け跡が残っている。門は完全に破壊され、木片が散乱していた。家々も多くが倒壊しており、かつての平穏な村の面影はどこにもなかった。そして何より恐ろしいのは、血の臭いが充満していることだった。ハイドラから降り、道中の倍の速さで走らせ疲労の限界で倒れそうになっている彼を気遣った。


「悪かった。ここで休んでいてくれ」


ハイドラは疲れ切った様子で地面に横たわった。本来はもう少し労ってやりたいが、今はそれどころではない。


足を踏み入れた瞬間、心が絶望に支配されてしまった。集落の広場に続く道には大量の血が続いており、所々に獣人族のものと思われる四肢や体の一部が乱雑に散らばっている。気づけば布に包んだ槍を握る手に力が入っている。

足音を殺し、周囲に注意を払いながら、集落の奥へと向かう。カルラの家があった方角に向かおうとしたが、そこには家はなく、破壊されて焼け焦げた木材だけが残っている。まだ...まだだ。ここには死体が見当たらない。まだは希望ある。そう自分に言い聞かせている自分を、どこか他人事に俯瞰しているもう一人の自分がいた。私は向きを変え、集落の中央広場に向かった。巨大な炎が立ち上がっているのが遠目からでも分かる。

きっとそこに、答えがある。


---


広場で燃え盛る炎は、まるで地獄の門が開いたかのように禍々しく揺らめいていた。夜空は血のように赤く染まり、煙は悪臭を孕んで天へと昇る。遠目から、その炎の中にある何か。くべられた薪の隙間から、"向こう側"から、こちらを見ている。広場の中央で燃えていたのは、山のように積み上げられた獣人族の死体だったのだ。

老人、大人、子供。性別も年齢も関係なく、全ての獣人族が無慈悲に殺され、燃やされている。炎は死体の油脂を燃料として激しく燃え上がり、その光景はまさに地獄そのものだった。


防波堤を失った感情の波は、形を成せぬまま体を内から食い破る。私は嘔吐を堪えることが出来なかった。口の中に広がる酸味と、喉を焼く痛み。膝が震え、立っていることさえ困難だった。それでも、炎から目を逸らすことができなかった。きっとこの中に、燃え盛る火の中に、母さんとラビが...


もう何も考えられない。


ふと、炎を眺める人影があることに気づいた。背中を向けているため顔は見えないが、長い白銀の髪が風に揺れ、幼い体格の女性のようだった。しかし、獣人族の耳はない。軍服を着用しており、胸元には多くの勲章が付けられている。炎の光を受けて、それらの勲章が煌々と光っていた。


瞳は、どこか遠くを見ていた。時折、風が吹いて髪が舞い上がり、その度に勲章が光を反射する。ゴア帝国の軍人であることは間違いないが、止まった脳でも分かるほどの異様さが際立つ。死体を焼き尽くす業火の中で、彼女の心には何も響いていない。まるで人形のようだ。そして、その瞬間、時が止まったかのような静寂が訪れた。


何かきっかけがあったわけではない。


気配を気取られたわけでもない。


しかし彼女は、ふとこちらを振り返り、私と目線がぶつかった。


そして、その瞬間、時が止まったかのような静寂が訪れた。炎の音、風の音、全てが遠くに感じられる。ただ、互いを見つめ合う二つの瞳だけが、この世界に存在しているかのようだった。


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