017.アムという仲間、その頃ゴア帝国では
アムの確信めいた表情を見て、私は悟った。誤魔化すのは難しい。いや、不可能だ。彼女は既に答えを知っている。あとは私がそれを認めるかどうかだけの問題なのだ。
私は深く息を吸い、覚悟を決めた。この話は長くなる。ここで立ち話をするわけにはいかない。騎士団の入口で、他の騎士に聞かれる可能性もある。仮に騎士団の中で話が広がってしまった場合、面倒事は避けられないだろう。私は意を決して口を開いた。
「...アム先輩、長い話になります。私の家でお話致しましょう」
アムは少し驚いたような表情を見せた。きっと私が素直に認めるとは思っていなかったのだろう。しかし、すぐに納得したような顔になった。
「こんなところで話す内容じゃないってことね」
私たちは無言で街を歩き始めた。石畳の道を進みながら、今はいない"彼"に想いを馳せる。彼女にどう伝えるべきだろうか。やましいことは何もないが幾分複雑な話だ。ふと、アムとの会話を思い出した。彼女は確かに言っていたのだ。「なんで呪われた槍をわざわざ使っているの?」と。その時の私は、彼女の言葉の意味を理解していなかった。いや、理解しようとしなかった。しかし今思えば、あの時から彼女は気づいていたのかもしれない。私の槍に宿っていた"彼"の存在に。
街を歩く人々の視線は相変わらず冷たかったが、今夜は特に気にならなかった。アムと並んで歩いていると、なぜか心が落ち着いた。彼女の存在が、私の緊張を和らげてくれているのかもしれない。それとも、秘密を打ち明けられるというある種の安堵感なのか。
「あんたの家ってさ、どんなところなの?」
アムが突然口を開いた。彼女の声は少し高く、照れたような響きがあった。
「街外れの質素な小屋ですよ。期待しない方がいいと思います」
私の答えに、アムは小さく笑った。その笑顔にいつもの彼女らしい明るさがあるのと同時に、複雑な感情が隠されているのことも分かった。あちらもまた、この状況に戸惑っているのだろう。得体のしれない何かと会話しているというのに、いつも通り振る舞えるはずはない。それでもどこかで私のことを信じてくれている。心の強い人だ。
---
私たちは街の外れにある私の家に到着した。石造りの簡素な建物は、夜の闇の中でひっそりと佇んでいる。私は扉を開け、アムを中に招き入れた。室内は薄暗く、月明かりだけが頼りだった。私はテーブルの上の蝋燭に火をつけ、小さいながらも暖かい光が部屋を照らした。
「その椅子に座ってください」
彼女は少し緊張した様子で腰を下ろした。私も向かいの椅子に座り、彼女の目をまっすぐ見つめた。後戻りは出来ない。では、長い話を始めよう。
私は深呼吸をして、口を開いた。バッケンとの戦いのこと、意識を失った時に起こった出来事、そして"彼"との融合について。千の魂を背負うことになった経緯、魂が呪いとなってしまったこと、それでも私がセラであり続けていること。一つ一つ丁寧に、隠すことなく全てを語った。アムは黙って聞いていた。時折眉をひそめたり、驚いたような表情を見せたりしたが、最後まで口を挟むことはなかった。私の話が終わると、しばらくの間静寂が部屋を支配した。蝋燭の炎が微かに揺れ、私たちの影が壁の上を踊る。
「...結局、今のあんたはセラなのね?」
アムがようやく口を開いた。その声は静かで、しかし確信に満ちていた。
「魂は呪いとなってしまいましたが、私はセラです。それだけは変わりません」
私は真っ直ぐ彼女を見つめて答えた。
嘘偽りのない、私の本心。
アムはしばらく私を見つめていたが、やがて表情が明るくなった。
「ならいっか」
彼女はあっけらかんとした笑顔を見せた。その表情を見て、私の胸に安堵が広がっていく。彼女は私を受け入れてくれたのだ。仲間として、セラとして。
「アム先輩、なんで分かったんですか?私がその...変わったって」
「あたしさ、呪いが見えるの。生まれつきね。騎士団に来た頃はあんたの槍の穂先が黒く光ってるのが見えた。でもルクセン平原の戦いの後、あんたの胸あたりにその黒い光が移ってたの」
そこからはいつも通りのアムだった。彼女からは様々な話を聞けた。
本来の呪いとは、動物の姿をして本人の身体に憑りついているそうだ。ヘビやカエル、ネズミが多いらしいが、私の場合は黒い光で、なんと形作っていたのは動物ではなく人の表情であり、異端であるのは一目見て分かっていた。言ってくれれば良かったじゃないか。
部屋の雰囲気は柔らかくなったころ、アムはふと窓の外を見る。来た時よりもさらに夜は深く、月ですら姿を隠してしまった。
「もう夜も遅いね。泊っていくわ」
「ええ、気をつけて帰ってくだ...なんて?」
「今から帰るの面倒だから、今夜はここに泊まるって言ってるの」
これは想定外だ。男女が一つ屋根の下で夜を過ごすなど、考えたこともなかった。しかし、アムは私の反対を聞く気はないようだ。下心があるわけではない。しかし...。
「お腹空いたわね。何か食べるものある?」
アムの言葉で、私は我に返った。そういえば、まだ夕食を取っていなかった。私は食料庫から保存食を取り出した。硬いパンと干し肉、それに塩漬けの野菜。騎士団が支給してくれる質素な食事だった。
「これくらいしかありませんが...」
私がテーブルに食事を並べると、アムは驚いたような表情を見せた。
「これだけ?毎日こんなもの食べてるの?」
「...?ええ。十分事足りると思いますが?」
私の答えに、アムは眉をひそめた。彼女は女性騎士として、もっと良い待遇を受けているのだろう。この現実を目の当たりにして、改めて男女の格差を実感したのかもしれない。
「セラ、あたし湯浴みしたいからお湯を沸かして。あと、このパン硬すぎ!ミルクある?」
ここは宿屋ではない。そう言い放ってやりたかったが、私はしぶしぶ釜に火を起こした。ミルクは無いので汲んでおいた井戸水を木製のカップに入れて渡す。その水で硬いパンを柔らかくして食べた。このようにしてパンを食べたのは初めてだったが、悪くない。
しばらくして湯が沸くと、アムは別の部屋で湯浴みをした。
その後、問題が起きた。湯浴みを終えて出て来たアムに、そろそろ就寝する旨を伝えようと振り返った時、目を疑った。アムは何も着ていなかった。白く柔らかな肌が露わになっている。
「おい!何してるんだ!服を着ろ!」
私は敬語も忘れて叫んだ。しかし、アムは振り返ると、何でもないことのように答えた。
「はあ?夜は裸じゃないと寝れないから無理。」
彼女の尊大な態度に呆れて口が塞がらない。これが人族の文化なのか。カルラやラビを始め、獣人族は全裸になることなど、まず見た事はない。幼い頃、共に水浴びをしたときくらいだろう。
しかしアムは実に自然体だった。女性の方が大胆で、男性の方が恥じらいを持つのが普通なのかもしれない。しかし、私にはその光景が衝撃的すぎた。
「せめて何か着てくれ!」
「ヤダ。見たくないなら目つぶってればいいじゃん」
「なああんでオレのベッドに入るんだ!」
「床硬いし。詰めれば寝れるって」
女性を家に招くのはもうやめよう。こうなると分かっていたなら絶対に呼ばなかった。
教訓だ。教訓にしなければならない。ここから学んで二度と繰り返さないと誓った。
---
結局、私たちは小さなベッドに一緒に寝ることになった。私は端の方で丸くなり、出来るだけアムから離れようとした。しかし、この狭さではどうしても彼女の温もりを感じてしまう。心臓の音がうるさい。このまま一睡も出来なかったら、私にフォウやビューラのことをとやかく言う資格は無くなってしまう。困ったな...。
「セラ、起きてる?」
「寝てます」
「起きてんじゃねえかよ」
「あんたのこと、大切な仲間って思ってるから。...おやすみ」
我ながら、単純な性格だ。端的で飾り気のない彼女の言葉は私の胸を熱くした。
仲間に受け入れられ、信頼してもらえる。私は上手く答えることは出来なかった。込み上げる何かが瞳から零れ落ちそうになるのを堪えるのに必死だった。アムには感謝してもしきれない。フレデリックが父親のようなものなら、彼女はさしずめ姉にあたるのだろうか。なんて下らないことを考えていると、アムの寝息が聞こえ始めた。
長い一日が終わろうとしていた。明日からまた新しい日々が始まる。小隊の訓練、仲間との絆を深めること、そして自分自身と向き合うこと。やるべきことは山積みだった。しかし、今夜アムと過ごした時間は私にとって大きな意味を持っていた。秘密を打ち明けることで、私は一歩前に進むことができた。そして、真の仲間を得ることができた。
アムの温もりを感じながら、私もようやく眠気に身を任せて瞼を下ろした。蝋燭の炎が最後の光を放ち、部屋は完全な暗闇に包まれても、胸の内には温かい灯が存在した。友情という名の、決して消えることのない明りが。
彼には知る由もなかったが――
この夜、遥か東方のゴア帝国でも、戦争の行方を左右する重要な決断が下されようとしていた。
---
同じ夜、フェナンブルクから遥か東方――
ゴア帝国の王宮は、夕日に照らされて荘厳な輝きを放っていた。黒い石材で築かれた巨大な建造物は、帝国の威厳を象徴するかのように天高くそびえる。その最上階にある玉座の間では、長期化する戦争への対応を巡って重要な会議が行われていた。その場にいる人間は全て女性で構成され、男女格差を如実に物語っている。
玉座に座る妙齢の女性が一人。聡明にして慈悲深く、民を想う希代の君主。髪を優雅に結い上げ、金の装飾が施された深紅のドレスに身を包んでいる彼女こそ、ユークリッド・フェアリーロック・ゴア。ゴア帝国の現皇帝である。華やかな服装とは裏腹に、その顔には深い憂いの色が浮かんでいた。彼女は眉間を押さえ、重いため息をついていた。
「もう三年になるのか...」
皇帝の呟きは玉座の間に静かに響いた。フェナンブルク王国との戦争が始まってから、既に三年の歳月が流れていた。当初は短期決戦で決着がつくと予想されていたが、王国の必死の抵抗に戦況は膠着。戦争の長期化により、帝国の民は疲弊し、経済も圧迫されていた。皇帝として、この状況を看過することはできなかった。
ゴア帝国とフェナンブルク王国とでは魔術の技術水準、資源、兵士の練度に於いても大きく上回っていた。滅ぼすだけなら容易かったが、ユークリッドの想いが、敵国の民をも戦火から守ろうとする傲慢さが、長期化の原因だと糾弾する者もいた。しかし事実はそうではない。
戦争が始まった当初、想定通りに戦況は動いていた。しかしある頃から王国の騎士団が劇的に強くなったのだ。間者の報告を聞く限り、シンシア・ルーヴェンという人間が新たに団長の席についた直後、兵士の士気は高くなり、戦略的な判断も的確。戦場に於いても頭角を現し始めた者達がいた。"女男"や"雷神"など、ゴア帝国にも無視できない被害が出ている。
玉座の前には、帝国の重臣たちが居並んでいた。軍事顧問、財政官、外交官。皆華奢な体格をしている中、山のような巨躯でその場に居座る者がいる。四天将の中で唯一この会議に参加を許されたインペリエ・アルバスト・ゴアの姿があった。彼女は皇帝の実妹であり、帝国軍の中で最も信頼される将軍の一人だった。
インペリエは姉である女王を見上げながら、慎重に言葉を選んでいた。筋骨隆々とした体躯に茶色のウェーブがかった髪、そして鋭い眼光。戦場で数多の敵を葬ってきた歴戦の勇士でありながら、同時に深い知性を備えた人物でもあった。
「陛下」
インペリエは一歩前に出て重たい口を開いた。ユークリッドは首肯で返す。
「この戦争の長期化により、我が帝国の民は疲弊しております。このまま戦いを続けることが果たして帝国の利益になるのか、臣として疑問に思うところでございます」
重臣たちの間にざわめきが起こった。四天将という立場にありながら、戦争の継続に疑問を呈するとは予想外だった。軍事顧問の一人が前に出た。
「インペリエ様、何を仰るのですか。戦況は優勢!今こそフェナンブルクを完全に屈服させる好機です」
しかし、インペリエは首を振った。
「私は申し上げているのは戦術面ではなく、戦略。如何なる決断が帝国を真に繁栄させるのかとうい話です。長期化すればするほど、我が帝国の国力は削られていく。民の生活は困窮し、経済は停滞する。これが果たして勝利と言えるでしょうか」
インペリエの言葉に、財政官が苦悶の表情で頷いた。
「...忸怩たる想いで、申し上げます。戦費の増大により、帝国の財政は逼迫しております。このままでは、戦争に勝ったとしても国が破綻しかねません」
しかし、軍事顧問たちは猛反発した。自らの利権を脅かされた者達は揃って金切り声を上げ始める。
「弱腰になってどうするのです!今こそ攻勢に出て、一気に決着をつけるべきです!」
「早期決着こそが最も帝国に利益をもたらすと何故分からんのだ!」
会議室は激しい議論に包まれた。戦争継続派と和平派が真っ向から対立し、どちらも譲ろうとしない。ユークリッドは深い溜息をつく。
「喧々諤々とするのは構わんが、己が未熟さをひけらかす場所ではないぞ。まだインペリエの話は終わっていないであろう」
玉座から発せられた声が響くと、議論が止まった。彼女の威厳ある態度に重臣たちも静まり、ひと時の静寂が訪れる。インペリエは話の続きを紡ぎ始めた。
「私が申し上げたいのは、ゴア帝国の懐の深さを示すべき時が来たということです。我が国から和平を申し入れるべきかと。帝国の寛容さと大国としての風格を示しましょう、陛下」
インペリエの提案に、重臣たちは再び騒然となった。帝国から和平を申し出るなど、屈辱以外の何物でもないと考える者が多かったのだ。特に、戦争の長期化により利益を得ている軍需商人や一部の貴族たちは、烈火の如く反対した。
「馬鹿なっ!それこそフェナンブルクの鼠がつけあがりますぞ!」
「そのような弱腰では舐められます!」
「帝国の威信に関わる問題です!」
しかし、玉座に座る皇帝は静かに手を上げ、場を鎮める。再びの沈黙に、肩唾を飲む者、歯を食いしばる者。それぞれの思惑が交錯する中、ユークリッドは静かに、しかしはっきりとその場の全員に聞こえるように言い放った。
「インペリエの提案は一理ある。戦争とは手段であって、目的ではない。我々の目的は帝国の繁栄であり、民の幸福であると心得よ。尊厳を守っても民が守れなければ、帝国の旗が泣くというものだ」
女王の言葉には、深い知恵と慈愛が込められていた。彼女は単なる征服者ではなく、真の意味での指導者だった。
「しかし、陛下。相手が和平に応じる保証はありません。むしろ、我々の弱さと受け取られる可能性もあります」
軍事顧問の意見に、女王は頷いた。
「然り。それでも試みる価値はあろう。我々が真摯に和平を求めていることを示せば、少なくとも民心に一時なりとも希望を与えることは出来るだろう」
インペリエは姉の判断に深く感謝した。民を想う心が無ければ、玉座に座る資格はない。同時に、民を想うだけでは資格足りえない。実姉が真の君主であることに疑いはなく、心から揺るがぬ忠誠を誓う者が多いのはさもありなんと言ったところだ。
---
「では、使者は誰が良いでしょうか」
外交官の一人が質問した。これは重要な問題だった。和平交渉という重責を担うには、相応の人物でなければならない。皇帝の言葉を捻じ曲げることなく、理知に富み、そして相手に威圧感を与えない者。インペリエはその条件に当てはまる人物に心当たりがあった。
「有事の際に脱出できるよう、魔術に長けた者が望ましいでしょう。...ヴァルキリー隊の総隊長、アリア・ヴェルディスは如何でしょうか。彼女の魔術の腕前は帝国随一です。また、知性と品格も兼ね備えており、外交官としても申し分ありません」
この提案に、重臣たちも頷いた。アリア・ヴェルディスの名は、帝国内で知らぬ者はいない。王国に"雷神"あれど、帝国に"風神"あり。過去に例を見ない卓越した風属性魔法の使い手として、いつしかそう呼ばれるようになった。つい先日、北部戦線で彼女が発動した重戦術級魔法。その一撃で戦況が一変したことは、この場にいる全員が知っている。
「アリア・ヴェルディスなら確かに適任だが、代わりにヴァルキリー達の指揮を誰が執るか...いや、些末な問題かもしれん。この悩みは同じ天秤に掛けるべきものではないな」
当然アリアは現在前線で戦っていた。彼女を呼び戻すには時間がかかるが、この重要な任務には彼女以外に適任者はいないことも同時に揺るぐことのない事実だったのだ。
「アリア・ヴェルディスを前線から呼び戻せ。和平の使者として派遣する」
皇帝の決定により、帝国の方針が定まった。三年間続いた戦争に、ついに転換点が訪れようとしていた。
---
三ヶ月後、前線から戻ったアリアは、謁見の間に膝をついて玉座の前に頭を垂れた。長い銀髪は戦場の埃を洗い流され、美しく輝いている。しかし、その華奢な体には戦いの疲労が刻まれていた。実年齢よりもかなり幼く見える彼女だったが、その瞳には深い知性と経験が垣間見える。
「アリア・ヴェルディス、参上致しました」
「急な呼び出しですまなかったなアリア。健勝で何よりだ。面を上げよ」
皇帝の声は威厳を持ちながらも温かく、深い愛情を感じるものだった。
「前線での活躍、大儀である。貴公の働きによって帝国の被害も最小限に抑えられている。感謝しているぞ」
「恐れ入ります、陛下。我が身、心、全ては帝国のためにあります。私はただ臣の務めを果たしたに過ぎません」
アリアの謙遜に、女王は微笑んだ。この魔術師の謙虚さと実力を、女王は高く評価していた。そしてこれから口にすることにも、必ずや成功に導いてくれるという確信があった。それほどにこのアリア・ヴェルディスという人物は帝国内に於いて重要なのだ。
「アリア、フェナンブルク王国への和平の使者として、貴公に赴いてもらいたい」
アリアは驚きを隠せなかった。和平の使者とは予想もしていなかった任務だった。しかし、すぐに表情を整え、深く頭を下げた。
「謹んで拝命いたします、陛下。御身のご英断に応えられるよう、尽力致します」
女王は満足そうに頷いた。このようなゴアの民こそが国の宝だった。
「貴公のような忠臣を持てたことを心から誇りに思う。しかし、無理はしないでくれ。身の安全を最優先に行動せよ」
「...陛下のお心遣い、身に余る光栄でございます。必ずや任務を成功させ、帝国に平和をもたらして参ります」
---
それから数日後、アリアは自宅で旅装を確認していた。使者としての正装、護身用の魔法道具、そして大切な書類の数々。準備はすでに終わっている。今はとある来客を待っているところだった。
普段の品位ある振舞とは裏腹に、アリアの部屋は様々なものが散乱して足場もない程だった。研究者としての側面を持つ彼女の部屋には様々な書類や、得体のしれない魔物が液体に浸かった瓶、使い物にならない低位のアーティファクトなど、傍から見ればゴミの山に暮らす仙人である。
その時、扉を叩く音が響いた。アリアが扉を開けると、そこには艶のある黒い髪をショートカットにした美しい女性が立っていた。
特筆すべきは頭には巻き角が生えており、腰からはすらりと細い尾が伸びていること。魔族と人族のハーフである彼女は、ヴァルキリー隊の一員でアリアの部下であるリズベット・アーヴァンノルドだった。
「アリアちゃん来たよー!...相変わらず汚いなあ。臭いし。」
「よく来てくれましたリズ。さあどうぞ、入って下さい」
「やだなあ...」
階級的にはアリアが上官だったが、戦場で肩を並べた長年の友情で結ばれていた。そしてリズベットがそういった上下関係に疎いことも関係していた。育ちは魔族の住む地域であり、強さでしか上下を決めない文化で育った彼女には、階級など自分が気にすべきことではないと考えていたからだ。フランクな口調もアリアは特に気にしていなかった。
「リズ、折り入って貴方に頼みたいことがあります。私が留守の間、"研究室"の管理をお願いしたいのです」
「ああ...確かにやばいもんね。オッケーわかった。任せといてよ」
リズベットは軽い口調で答えたが、その目は真剣だった。彼女もまた、アリアの研究を知る数少ない人物の一人だった。リズベットは椅子代わりに書類の山に腰掛けた。少し険しい顔つきになった彼女は、アリアに対して質問をぶつけた。
「でもさ、アリアちゃん。今回の和平交渉、本当に上手くいくと思ってる?ユークリッド陛下の考えは甘いと思うんだよね。フェナンブルクが素直に和平に応じるとは思えない。むしろ、帝国の弱さと受け取って、更に攻勢に出てくる可能性もある」
リズベットの分析は鋭かった。彼女は戦場での経験を通じて、政治と戦争の複雑な関係を理解していた。
「...リズの言う通りです。陛下のお考えが甘いということは、私も感じております。しかし、それでも試してみる価値はあると思います。少なくとも、我が帝国の善意を示すことはできるでしょう」
アリアの言葉には、複雑な感情が込められていた。彼女もまた、この任務の困難さを理解していた。しかし、皇帝の命令である以上は全身全霊で尽力するつもりだ。アリアにそう思わせる人格者であるいうことは忘れてはならない。
「分かってるのに言うこと聞くなんて、意味わかんなーい」
二人の会話は、長年の友情に裏打ちされた信頼関係を物語っていた。政治的な見解は違っても、互いを理解し合っている。それこそが、真の友情だった。
「リズ、もし何かあれば研究室は全て貴女の炎で燃やし尽くして下さい。あれは未来永劫、日の目を浴びてはならないものですから」
「真面目だなあ。別に気にしなきゃいいのに。そんなだからまだ処女なんじゃないの?」
「...うるさい」




