二輪徒歩
「おっはよ!」
隣で声を上げたのは芽衣さんだった。
俺も続けて頭を下げる。
教科書を持って俺たちは彩姫さんのそばに立っている。
次の授業は移動のためだ。
クラスも面々も次々と教室を後にしていた。
「あ、芽衣ちゃん、色くん。おはよぉ」
なんとも気の抜けた声だった。
彩姫さんの手に少し赤く腫れたような部位が見える。
「大丈夫ですか?」
「ん、なにが?」
「その……」
自分の手を使ってその場所を示す。
間をおいて彼女は自分の腕を見る。
気が付いたらしく驚いた様子だ。
「あれ、怪我してる?」
芽衣さんは笑いながらいう。
「まぁあれだけハデに転べばね」
「気をつけないとね」
彼女も笑いながら答える。
突然後ろから肩をたたかれる。
驚いて振り向いた。
「よっ」
そこには笑った栄太の顔があった。
「おはよう」
「あ、おはようございます」
「……カタイな」
栄太は上げた手を力なく下げた。
「こういうときは、なんかもっと気の利いたこと言えよ?」
「あ、えっと……セーフでよかったですね」
「――あぁ、そうだな」
淡々とした口調、呆れたような顔をして栄太は言う。
そこへ芽衣さんが話へと入ってきた。
「栄太、今日のは遅刻だろ?」
意地悪な笑みを浮かべて芽衣さんは言う。
「いや、今日のはまぁセーフだろ?」
「彩姫のボケのおかげでね」
えっ、と自分の名前に驚いたように彩姫さんは顔を上げた。
「ち、違うよ。助かったのは引っ張ってもらった私のほう」
両手をぶんぶんと振りながら彩姫さんは答えた。
「そういえば一緒に来てたよな?」
「あぁ、遅れそうなのにたらたら歩いてたからついでに引っ張ってきた」
あははと申し訳なさそうに笑いながら彩姫さんは下を向いて、芽衣さんは栄太になにか文句を言っていた。
「はい、これ」
その日のお昼の休憩時間、俺はそれを思い出して彩姫さんに手渡す。
「あっ!」
彩姫さんはうれしそうにそのキーホルダーを見上げる。
「ありがとう」
「いいえ」
昨日に引き続いて、屋上の一角を陣取っての食事。
「ん、どしたの?」
芽衣さんは気になったのか話しかけてくる。
「……ってコレ」
見知っているのか、トラのキーホルダーをのぞきこむ。
「自転車の鍵じゃない」
……はい? 自転車の鍵?
「うん、日曜日になくしちゃってね」
「それで遅刻?」
「ちゃんといつもより早く家を出たんだけどね」
不意に彩姫はトラのキーホルダーを裏返す。
手に取ったときは気が付かなかったが背中にはジッパーがあった。
それをおろすと中から鎖とともに鍵が出てくる。
ホント、変わったキーホルダーだ。
「でもよかったよ、ちゃんと見つかって」
満面の笑みを見せる彩姫さん
「じゃあ今日は歩き?」
気になって聞いてみる。
「うん、昨日も今日も歩きだったよ」
その答えに芽衣さんはイヤそうな顔をした。
「うわ、そりゃメンドくさいな」
彼女の家がどこにあるのかは知らないが通学時間がぜんぜん違うはずだ。
確かに面倒だろうと思う。
「ううん、そんなことないよ」
だが、彼女はジュースを片手にそう答える。
「歩くのは歩くので結構楽しいよ」
「そう……かな?」
その理由が分からず芽衣さんはあいづちのタイミングで問い直す。
「うん、面白いものいろいろあったし」
「例えば?」
それまで黙って聞いていた南口さんも話へと入ってくる。
「そうだなぁ……」
彩姫さんはあさっての方向を向いて黙る。
ふと思い立ったように近くに持ち歩いていたスケッチブックを開いた。
「これ!」
「……なに、この黒いイラスト」
そこに描かれていたのは黒いイラスト
「何って、アリだよ」
「アリ?」
「今朝描いた」
……そんなの描いてるから
「だから遅刻するんだよ!」
芽衣さんが続きをいってくれた。
「でもなんでこんな絵? アリって」
「道を歩いてたらね、真っ黒い線があって、アリが行列作ってた」
「アリが行列?」
「うん、こうズラッと道を横切っててね。自分よりも何倍も大きなクッキー、のかけらみたいなの運んでるの」
手振りをくわえて言う。
「凄いでしょ!」
「へぇ……で、それが?」
「うん、えっと、そんだけ」
……沈黙が周囲を包む。
暖かい日差しの中、突如周囲の温度が下がるような違和感に包まれる。
「――あれ? どうしたの?」
「……いや、やっぱ彩姫だなぁって思って」
芽衣さんは苦笑を浮かべながら言う。
「えっと、どうかしたの?」
「どうかしてるのは彩姫でしょう?」
……ズバっと言うなぁ……
「そんなの私なら気づかず踏み潰すね」
続けてそう言った。
「そうかなぁ……? あ、でもね、自転車に乗ってたらそんなの気が付かなかったと思うんだ」
少し沈んだかと思うとすぐにはねるように顔を上げる。
ころころと表情を変えながら彩姫さんは話す。
「だから、今日は歩きでよかったって思うよ」
そして、そう言いきると満面の笑みを見せた。
「………………………………」
自分を含めてその場に居た人はしばし言葉を失った。
少なくとも自分にはよく分からない感覚だったし。
「……まぁいいんじゃない?」
一番に口を開いたのは南口さんだった。
「そういうとこ、彩姫さんっぽいし」
「うん、そうだね、彩姫っぽい」
そう言って芽衣さんも笑っていた。
「……変わった人ですね」
いうつもりはなかった。
でも、口からそんな言葉が出ていた。
ビックリしたのは、自分自身。
それにすぐさま彩姫さんが反応した。
「へえぇぇ? どういうこと?」
不可思議とも不満とも取れる声。
その様子に芽衣さんが苦笑しながらいった。
「――まぁ言葉の通りだろ?」
「変わった人って、……全然普通だよ?」
彩姫さんは少し不満そうだった。