雛苺防人
家に帰ろうと、自転車置き場へと向かう。
その自転車のサドルのスプリング部分になにやら紙がはせてあった。
――なんだこれ?
手にとって見る。
色へ
今日は帰りが遅くなるので店屋物など自分で夕食を準備してください
優
姉からだった。
とりあえず、帰ってから考えよう。
紙をポケットに入れて、自転車の鍵を開けた。
アパート下の駐輪スペースへと自転車を止める。
階段をのぼり、家に……
――えっ?
いつものその場所に、今日は人の影があった。
ドアの前に女の子が座り込んでいる。
ドア、といっても自分の家の前ではない。
それは隣の家、栄太の家の前だった。
座り込みうつむいたまま動かない。
「くぅーん」
――?
なんだこの子、犬みたいな声をあげて。
「わんっ!」
「――っ!?」
いや、これはこの子じゃない。
「わんっ!」
座り込んだ彼女の背後から小さな犬が顔を出した。
こちらを警戒しているのか、震えながら声をあげる。
彼女の前を通過しないと家には入れない。
スッと彼女の前を通過して、自分の家の前に立つ。
その間、その女の子は少しだけ顔を上げるものの、動きはしなかった。
――よくは分からないけど。
無視、はできない。
「あの……」
声をかけたことに驚いたのか、ビクッと肩を震わせるとゆっくりとこちらを見上げる。
ショートボブの髪が揺れる。
パッチリとした大きな目がこちらを見上げる。
その不安そうに揺らめく瞳、まだ顔のつくり少し幼い印象を受けた。
「どうか、しましたか?」
「あ、え……?」
驚いた顔を見せて、少し視線がそれる。
「わんっ!」
背後の犬がやはり警戒するようにこちらを威嚇する。
「えっと……」
座り込んでいた女の子はおしりのほこりをたたきながら立ち上がった。
「鍵、鍵をどこかで落としてしまって」
「鍵?」
「この子の散歩をしてる途中で落としちゃった、のかなぁ?」
頭をかきながら苦笑する。
Tシャツに少し大きめの綿パン、少し古びたスニーカーとアクティブな印象を受ける。
「まぁお兄ちゃんが帰ってきてくれればいいんですけど、ね。いつ帰ってくるのかわかんなくて……」
「お兄ちゃん、ってもしかして栄太のこと?」
「――! お兄ちゃんを知ってるんですか?」
「クラスメイトです」
「……あ、あれ? もしかして、色、さん?」
「はい」
納得した、といった顔を見せて深々とお辞儀した
「そっか、あなたが色さんですか。お兄ちゃんがお世話になっています」
「あ、いえ、何も」
「私は妹の苺といいます。こっちはルーン」
犬の名前まで丁寧に語る。
苺、さん。栄太に妹がいるのか。
というか、このアパートってペット可だったんだ。
しかし、彼女を、それと犬もか。
このままにしておくのは気が引ける。
とりあえず鍵を開けて家にドアを開ける。
「ちょっと、待っていてもらえます?」
「えっ?」
一旦家に入る。
荷物を自分の部屋において、ゆうねぇが部屋を散らかしていないか確認する。
再び表に出た。
「もしよかったらどうぞ」
「えっ? でも……」
少し戸惑うような表情を見せる。
「そんなところで待たせるわけにはいかないです」
「……で、でも……」
そこまで言ったところで先に走り出したのは犬だった
「あっ、ルーン!」
止めるまもなく家の中へと入る。
「ご、ごめんなさい」
「別に大丈夫ですから」
それだけ言うと彼女はようやく家の中へと足を進めた。
リビングのソファーへと一人と一匹を誘導する。
「何もないですが」
「あ、いえ! 全然かまいません! ありがとうございますっ!」
深々と頭を下げる。
「今日栄太はどのくらいに戻るんですか?」
「お兄ちゃんは遅くても9時までには……」
時計を見る。
まだ5時過ぎ、そんなに待つ気だったのか?
「ゆうねぇ、今日は遅くなるみたいで……」
「ゆうねぇ?」
「あっ……」
クセでゆうねぇといってしまうのはよくないな。
「優先生のことですか?」
「あ、はい」
「そうですか、ゆうねぇって言われるんですね」
少し嬉しそうに笑う。
「あ、私、優先生の化学って面白くて好きだから」
「学園の生徒なんですか?」
「えっ、はい。第1学年です」
――もっと年下かと思ったけど、一つ下か。
「お兄ちゃんから色さんのことは聞いていたので……ってすみません、色さんだなんて」
「……?」
どうしたんだろう、突然謝って。
――あぁ、下の名前か。
「別に呼び方気にしなくていいですよ」
「えっ、あ、はい。ありがとうございます。じゃあ、えっと……色先輩」
先輩、間違ってはないけど呼ばれたことがない。
「お兄ちゃんが学園の人の話するのって珍しいんですよ。先週末からよく先輩の話をするのでビックリしてたんです」
――そう、なのか?
「とにかくバカみたいにマジメで機械的で、一見凄くいい人のようだった、って」
――それは、どうなんだ?
なんだ、それはほめられてはいない気がする。
「友達、いないって思ってたからちょっと嬉しかったです」
「友達が、いない?」
「……お兄ちゃん、少し人を遠ざけるところあるから」
背中を丸めてうつむきながらつぶやくように言葉をこぼした。
「あ、そうだ。あの、なにかいらない紙とペン、貸してもらってもいいですか?」
「ちょっと待っててください」
紙とペン、確か電話機の横にメモセットが置いてあった。
それを渡すと何かを書き始めた。
「ちょっとドアに馳せてきますね」
それはココにいる、と書いたメモ。
「貼り付けるならテープありますよ?」
そう言って電話台の引き出しからテープを取り出して渡した。
「これで帰ってきたらこっちに迎えに来てくれると思います」
そう言ってソファーに戻る。
「あ、すみません。勝手に……」
勝手に座り込んだことに対して気が引けたのだろうか。
「別にそんな気を使ってもらわなくて大丈夫ですから。ちょっと待ってください、今なにか飲み物出しますね」
そう言って立ち上がる。
「――」
彼女は少し驚いたようにこちらを見ていた。
まぁよく分からないけど、何か飲み物を。
だが冷蔵庫を開けると、恐ろしいことに酒ばかり。
――これはさすがになぁ。
サイドにおいてあった紙パックの野菜ジュースを取り出した。
「あの、野菜ジュースでも?」
「全然! 大好きです!」
よかった、そう思い手渡す。
「ありがとう、ございます」
笑顔でそれを受け取ってくれた。
「先輩、やさしいんですね」
「えっ?」
「お兄ちゃんが言ってた通り」
そう言って笑う。
そばで座っていたはずの犬はいつの間にか寝ている。
「ありゃ、ルーン散歩でつかれちゃったのか」
そう言って足を少し離すようにして距離をとった。
ルーンというその犬はぴくりとも動かずそのまま床で寝ている。
…………
…………
…………沈黙
「…………あ、あの!」
沈黙を破るように彼女が声をかけてくれた
「先輩って勉強、出来るんですよね?」
「えっ?」
「お兄ちゃんが言ってました」
「えっ、いや、その…………」
「よかったら少し勉強の仕方、教えてください!」
…………と、いきなり言われても、どうしていいのか分からない。
「私、数学が本当に苦手で、あの、こまってて……」
「数学、ですか?」
「先輩はどうやって勉強するんですか?」
……数学か、勉強の方法は基本的には前にいた学園や塾の教え方そのままだけど。
「ちょっと、まっててください」
そう言って一旦自分の部屋へと戻る。
部屋の本棚には以前に使っていた勉強用の参考書がたくさんある。
そこから最もメジャーだと思うブルーマップ第1章という参考書を取り出した。
どの本屋でも売られているだろう伝統的な参考書。
「――はい、コレを」
「えっ、これって。ブルーマップですよね?」
「そうです」
差し出されたそれをパラパラとめくる。
「これを勉強すればいいんですか?」
「数学ならこれで十分だと思います」
そこまで言うと、彼女の表情が曇った。
「えっと、あの……私、普通に数学が出来るようになりたいんじゃなくて、すっごくできるようになりたいんです」
――?
すっごく?
「もっと高レベルっていうか、その……」
彼女の事情は、よく分からないけど。
「いわゆる、難しい問題なんて必要ないですよ」
「えっ?」
「そのマップは問題なく解けますか?」
「――いえ、全部は……できないかも……」
やっぱり、そうだと思う。
レベル的にはもっと上のものもたくさんあると思うけど。
「数学は、パズルだと思うんです」
「――パズル?」
不思議そうな顔をして聞き返してくる。
「解法はほんの数種類しかないんです。結局難しい問題はそれを当てはめるまでが難しいだけで、最後の解法へ持っていくまでが難しいというか……だから基本が大事というか」
……ダメだ、うまく言葉にできない。
いままで勉強に関して一人でやってきたし、だれかからその方法について聞かれたりもしなかった。
自分の頭の中にある方法を誰かに伝えるのがこんなに難しいなんて……
「――なんとなく、わかりました」
あれ?
「あれですよね、どんなことでも基礎の反復練習ってことですよね!」
「……えっと、あ、うん。多分そういうこと、かな?」
「ありがとうございます先輩! 私頑張ります」
何故かよく分からないけど明るい笑顔でお礼を言われた。
ちゃんと言いたいこと全部を伝えられなかったのに。
「うん、どんなことでもそうですよね。さっそくマップ明日にでも買ってこようと思います」
「あ、いいですよそれ」
「えっ?」
「もう俺は使わないものだから、あげるよ」
「えぇぇぇ! で、でも……」
――自分にはもう必要ない。
だって、もうどのページに何が書いてあるかまでちゃんと覚えている。
「あ、ありがとうございます!」
また深々と頭を下げた。
「ホント、ありがとうございます先輩」
顔を上げたと思ったらまた下げた。
その後、少し勉強の仕方などを教えながら数ページ進める。
そろそろ疲れてきたのか、一旦勉強を切り上げる。
「――なにか、お礼をしなきゃいけませんね!」
――えっ? いや別に。
「……うーん、と」
すっと立ち上がると目の前まで歩いてきた。
「先輩、何か食べられますか?」
「えっ?」
「夕飯の時間かなって思って」
時計を見ると7時前になっていた。
「そうですね、今日は店屋物を取るように言われているので……」
するとその言葉を聞いた苺さんが笑う。
「私にまかせてください!」
「はい?」
「冷蔵庫、見せてもらってもいいですか?」
――えっ、いやしかし。
こちらの言葉を待たずに歩き出すと、冷蔵を開けた。
「……あれ、お酒ばっかり」
「――ゆうねぇ料理できないから」
「フフッ、そうなんだぁ」
笑いながら少し奥の方を探る。
「でも、少しくらい野菜とかあるみたいですね」
サラダ用のものだろう、それくらいはある。
「お米は、ないみたいからパンでいいですかね?」
――そんなこんなで、彼女はキッチンを占領した。
「はい、どうぞ!」
気が付くとリビングの前には普通に料理が並んでいる。
「……すごい」
これが、あの酒とつまみしかない冷蔵庫から作られる料理だろうか?
豚キムチ、に見えるハムを使ったハムキムチをメインにサラダや味噌汁まである。
「本当はご飯のほうがよかったんだけど」
「いえ、凄いですよ」
「ありがとうございます、先輩」
嬉しそうに笑うと最後にお茶を二つ持ってきた。
ルーンも料理のにおいにつられて机の周りをくるくる回っている。
でもしつけがいいのだろう、それに飛びつくといったことはしない。
「じゃあ私もいただきますね」
そんなの了解なんて必要ない。
「いただきます!」
「――いただきます」
彼女の料理は、とても家庭的、というか、とにかくおいしかった。
「どうですか?」
「おいしいですよ」
「やった、ありがとうございます!」
「いつも料理を?」
「はい、お兄ちゃんと二人暮しなので、私がそういう家事は大抵……」
二人暮し、なんだ。
少し複雑な家庭事情でもあるのだろうか?
――いや、それを言ったら自分だって。
「……にしても料理上手なんですね」
「食べるのは生活の基本ですからね、大事にしたいんです」
そう言ってパクパクと豪快に食べる。
少し幼くまたおとなしいのかなと思っていたがその様子はとても元気でかわいらしかった。
「――ん、どうかしました先輩?」
「いや、おいしそうに食べるなって思って」
そういうと突然顔を真っ赤にした。
「えっ、あ、あはは。すみません人の家で」
「いや、そういうことじゃなくて……」
そういうことじゃない、ただ……
「食事、こんなに楽しい食事、随分久しぶりだから」
「えっ……?」
――と、突然チャイムが鳴る。
「あれ、誰だろう」
立ち上がろうとすると先に苺さんが立ち上がった。
「私が行きますから」
「えっ? でも……」
こちらの言葉の前にすでに彼女は動いていた。
しかしここは自分の家だし
立ち上がって後を追う。
廊下に出たときにはドアが開く瞬間だった。
「――あ、お兄ちゃん」
嬉しそうな声が響く。
栄太が帰ってきたのか。
――と、突然栄太が血相を変えてこちらへ向かってくる。
……なんだ?
「てめぇ! うちの妹に何してんだ!」
――えっ?
そのまま胸倉をつかまれる。
「ぐっ!」
首が痛くてくるしい。
そのまま壁に乱暴に押し付けられた。
「うちの妹にハンパに手を出しやがったら、誰であろうとなぁ……」
「まってお兄ちゃん!」
叫ぶ声に注意がそれた。
「ガウッ!」
同時にルーンは栄太のズボンのすそを引っ張った。
「悪かった!」
深々と頭を下げる栄太。
「別に気にしてないから大丈夫」
少し痛みはある、赤くはなっていたりするが実害はなかったので別にいい。
「もう、お兄ちゃん何考えてるの?」
この中で一番怒ってるのは苺さんだった。
「すまん」
「言葉より先に手が出るなんて最低だよ」
「――最低、だな」
苺さんの罵声に栄太はうなだれる。
「とにかく謝っても謝りきれないが、とにかくすまん」
もう言葉もめちゃくちゃだけど心から謝ってるのは分かった。
「だから、気にしてないですから」
「――そうか……すまん」
一度頭を上げたと思ったら、また頭を下げた。
苺さんのお礼する姿と重なる。
「大体私だって人を見る目くらいあるんだから! 先輩が悪い人じゃないことくらいお兄ちゃんは知ってるでしょ?」
「その、通りだ」
「はいっ、もう一度謝る!」
「すまん」
命令されるがままにまた頭を下げた。
そんなやりとりが十数分続いた後、二人は隣へ帰るといった。
「あ、そうだ」
帰り際、栄太を呼び止める。
「なんだ?」
勉強会の話を少しだけする。
「……という話があって、だからよかったら……」
「いいのか?」
「えっ?」
「さっきオマエに……」
「別に、気にしてないですから」
「……そうか」
少しうつむいてぽつりと言う。
「考えておく、今日はすまなかった」
それだけ言うとドアの向こうへと消える。
自然にしまりかけたドア、それが突然再び開いた。
顔を出したのは苺さんだった。
「今日はありがとうございました先輩!」
「いえ」
「……また、よかったら勉強、教えてくださいね」
笑顔で手を振り、そして今度こそドアは閉まった。
山名 苺、ね。
とても出来た妹さんのようだ。
――と、リビングに戻った足元が突然ひんやりと冷たい。
じゅうたんの一角がぬれている?
なんで?
――って、もしかして……
数時間ここにいたんだ。
犬のトイレ、考えなかったこっちが悪いな。
キッチンペーパーをじゅうたんの上に積み重ねた。