彩姫世界
「……まったく、毎朝毎朝バカじゃない?」
その日も彼女は一人朝の教室にいた。
「おはようございます、安部さん」
「……おはよ、物好きね」
それはあなたの方だとちょっと思ったが黙っていることにした。
ジョウロを手に水遣りの手伝いをしていると安部さんが話しかけてきた。
「ねぇ、前の学園でのクセなんでしょ、早起き」
「そう、ですね。そうだと思います。この時間には来ていましたし」
「前の学園ではこんな早朝から何してたの? まさか水遣りってわけじゃないでしょうに」
少し嫌味っぽくそんなことを聞いてきた。
「前の学園だと、ホームルームの前に0時間目があったんです」
「――はい? 0時間目?」
「簡単に言うと全員参加の補習みたいなものです」
そういうと目を丸くして、そして苦笑いを浮かべた。
「凄いのね。キミの前の学園のコトうわさには聞いたことあるけど、そんなことするんだ」
「大体数学の計算問題とか、基礎を固める感じでしたね」
「ふーん、なんか塾みたい」
「塾、ですか」
「学園って感じじゃなくない、それ?」
彼女の中にある学園の定義が分からないのでなんともいえない。
まぁ少なくともココとは違うのだろう。
「頭はすっごくよくなりそう、ってのは分かるけどね」
水遣りを止めて、こちらへと向き直る。
「渡良瀬君は、何で転校してきたの? 勉強が嫌になったとか、そういうこと?」
「……」
――少し黙り込んでしまった。
決して勉強が嫌になったわけじゃない。
ただ……
「あっ、ごめっ……そんなのどうでもいいわよね」
「いえ、別に」
なんというか、少し次の言葉に詰まってしまっていた。
週の最後金曜日、今日初めて入った授業が美術だった。
といっても自分が選択したからで、例えば安部さんは音楽らしい。
本人から聞いたわけではなく、芽衣さんがそう言っていた。
少し大きな黒塗りの箱を取り出す。
美術道具だった。
「おっ、新品?」
横で芽衣さんが問いかける。
「いえ、前の学園で使っていたものです」
「えっ、あっ、そう」
予想外だったのか、少し彼女の言葉がまごつく。
「にしてはキレイだよね」
「あまり使ってないですから」
「へっ?」
「美術って科目はあるんですけど名ばかりで実際は……」
それ以上はいわなくてもいいかな
「ふーん、そっか」
――芽衣さんはなかなかいい性格をしていると思う。
ソコについてそれ以上は聞いてこない。
変わりに南口さん別のことを聞いてきた。
「美術得意?」
「えっ、あまり」
「ふふっ、私も絵とかお世辞にもうまいとはいえないかな? 一応美術部なんだけどね」
前に言われて気にはなっていたんだが、どうして芽衣さんと南口さんは、"一応"美術部なんだろうか?
「――そうですか」
「まぁ好きだけどね、絵を描いたり、陶器作ったり、おもしろいとは思うんだけど」
そういいながら道具を持って移動を始めた。
美術教室は離れの旧校舎の一角にあった。
教室の前半分に二人で一つ使うらしい長机が並べられ、教室の後方は美術用品であふれている。
床や、机のところどころに絵の具の後があり、油絵の具なのか、独特のにおいがする。
当たり前のように自分の隣に芽衣さんが陣取り、その前の机に南口さんとそして彩姫さんが陣取った。
不意に芽衣さんが俺の方へひそひそと小さな声で話しかけてきた。
「あのさ、この時間は彩姫と一緒に行動してみたら?」
「えっ?」
「そうしなよ」
ニヤリと歯を見せるとそれ以上は何も言ってこなかった。
授業は、はじめに簡単な話があった後に、外で好きなものを鉛筆でスケッチしてこいというものだった。
皆スケッチブックを手に、仲のよい友達同士で出かけていく。
自分たちも立ち上がった。
「じゃあウチらは中庭に行こうかな、ねっ、留美」
芽衣さんが南口さんへと話しかける。
「そう、ね。彩姫は?」
「私?」
筆入れとスケッチブックを手にとって彼女は立ち上がる。
「そうだなー。私は、えっと……そだ! 川に降りてみようかな」
「あ、そう。じゃあ別行動ね」
当たり前のように南口さんはそう言った。
芽衣さんも了解したといった具合だ。
「じゃあ、色くんは彩姫と一緒にいきなよ」
――えっ?
なんだろういきなり。
すると口に出すことなく芽衣さんはウィンクを一つ飛ばした。
――いや、意味が分からない。
何故か、なりゆきで彩姫さんと一緒に歩いている。
彼女はスケッチブックを片手にどこかへと歩いていく。
校門のほうへと行き、そして当たり前のように校門を出る。
「えっ、学外へ行くんですか?」
「ん? そうだよ」
「いいんですか? 一応授業中……」
「どうしてダメなの?」
――ダメ、な理由は……あれ? 特になさそうだ。
だが、授業時間内に学外へいくなんて考えたこともなかった
自分たち以外は学校内、中庭であったりでスケッチを行っていた。
「ちょっと川に下りてみようよ」
そう言って川べりへと続く階段へと向かった。
それは引越し初日、彼女を見かけたその場所だった。
「……さすがにもうかれちゃってるなぁ」
そう言って寂しそうに草むらを眺めていた。
「――さて、じゃあ他に何かないかなぁ」
だがすぐに明るい表情へと戻るとその周囲をくるくると舞うように歩き始めた。
その姿からウキウキしている感じが見ているこちらにまで伝わる。
「楽しそうですね」
「うん、楽しい」
彼女の表情はそれまで見たことがないほどの笑顔だった。
「ほら、色くんも何か面白いもの探さないと!」
その声に促されるように周囲を見渡す。
……と、いっても彼女の言う面白いものというのが分からない。
絵の題材になるといえばなんでもなるわけだが、絵を描くなんて自分の記憶にないはるか昔だと思う。
「――あっ!」
ひときわ大きな声が聞こえる。
しゃがみこんだ彼女が立ち上がりながら言う。
「あった!」
言われるがままに近寄る。
「これは、えっと……つくし?」
「うん、つくし」
川沿いからは少し外れた斜面のほんのわずかなスペースに数本のつくしが生えていた。
「めずらしいよね」
「はい、生で見たのは初めてです」
「――へっ? 初めて? それはそれで驚きだけど、違うそうじゃなくて時期だよ」
「……時期?」
「だってもう4月末でしょ? このあたりだと3月から4月上旬までだから普通はもう生えてないよ」
そんなことを言われても、そもそもつくしが生えている姿を見たこと自体が初めてだった。
それが存在する時期のことなんて知るわけもなかった。
「こんな時期につくしが見れるなんて、なんかツイてる!」
そう言って笑うとそのまま地面へとスッと座り込む。
そのままスケッチブックをめくり始めた。
様々な絵がパラパラと流れ、真新しいページが開かれた。
その近くへと座ろうとする。
「あ、一緒にこれにするの?」
「そうですね、そうします」
「そっか」
「迷惑でしたか?」
「ん、そういうことじゃないよ。ただこういうのは自分が心惹かれたものの方がいいとは思うんだ」
「そうですか」
「まぁ、気にしないで」
自分は特にこだわりもないし、どれを題材にしたところでたいした絵はかけないと思う。
自分は被写体を中心に彼女の対角に座ってスケッチブックを開いた。
彼女と違い、まだ一ページも使っていない。
新品の一ページ目に鉛筆をのせる。
……なんとなく、だけどまっさらなそれに自分なんかが線を描くのは、ためらわれた。
――ふと目の前を見ると、彩姫さんが物凄い勢いで鉛筆をはしらせていた。
その表情は今まで見たことがないほどに真剣、その瞳は鋭さを増している。
なんとなくボーっとした印象のある普段の彼女と同一人物なのかと疑うほどに。
授業時間のこともあるし、自分もためらってなどいられない。
線を何本も重ねて、それらしいスケッチをとりはじめた。
――あ、もう時間だな
ふと気が付くと授業終了の数分前だった。
とりあえず形にはなったかな、と思う。
……無論、絵心のない自分の絵など、とても褒められたものではないが。
彩姫さんを見る。
真剣な表情を一切崩すことなく彼女は絵を描き続けている。
声をかけるのもためらわれたが、時間も時間だ。
「あの、彩姫さん?」
……反応がない。
もう一度
「彩姫さん!」
「……ん、へっ? なぁに?」
その声に顔を上げた彼女はいつもどおりの彼女だった。
「もうそろそろ時間ですよ」
言われて彼女に時計を見せた。
「わっ、いけない。戻らなきゃね」
そういうとそさくさと道具を片付けて立ち上がる。
二、三度服をはたいて砂埃を落とした。
走らなきゃいけないほどの時間ではない。
教室への帰り道、歩きながら彼女は話しかけてきた。
「色くんってどんな絵を描くの?」
「えっ?」
「スケブ、ちょっと見せて!」
人に絵を見せるのはなんとなく嫌だが、断りづらくてスケッチブックを渡してしまった。
「……」
その沈黙が、ちょっと怖い。
「……ふーん、そっか」
納得した、といった表情を見せる。
「えっと……なにか、わかるんですか?」
彼女の反応が少し気になって聞いてみた。
「なんていうかね、似せる必要はないんだよ」
「えっ?」
「絵っていうのはね、別にムリに似せなくてもいいんだよ。もっと自由に描いちゃえばいいのにな」
「自由?」
「うん、こう……ぐわぁって感じで」
身振り手振りを交えて言う。
「ちょっとくらい、それと違ってたって気にしなくたっていいんだから」
「お疲れ!」
「あ、お疲れ様です」
「――彩姫、凄かったでしょ?」
美術の授業が終わった後、芽衣さんが聞いてきた。
「そう、ですね。集中力というか、目つきが違いました」
「でしょでしょ、いっつもポーっとしてるのにね。あの子、絵を描くときだけは別人みたいになるの。面白いでしょ」
面白い、という表現は適切なのだろうか、よく分からないが確かに少しビックリはした。
南口さんもうんうんとうなづく
「そうなんだよね。絵を描いている時だけ攻めになるんだよね、彩姫って」
「攻め?」
「えっ、あぁ、うん。なんか攻撃的でしょ?」
――なるほど、攻撃的ということか。
「でも、どうして一緒に行かなかったんですか?」
「ん、どういうこと? 絵を描くのってコト?」
「はい。えっと、友達なんでしょう? てっきり一緒に行動するのかと思ってました」
少し間をおいて話し始めた。
「なんていうかさ、絵を描いてるときの彩姫って真剣すぎて近寄りがたいと言うか……邪魔したくないって言うか、そんな感じ」
そうそう、と南口さんもそれに同意した。
「それにね……」
芽衣さんは続けて言う。
「別に友達ってさ、一緒に行動するとか、そういうことじゃないじゃん?」