栄太考察
買ったばかりの自転車を走らせる。
比較対象がないのでなんともいえないが、いい自転車……のような気がする。
軽快に進むことが出来るし、地面からの衝撃もあまり強くない。
変則も三段あり、非常に便利だ。
昨日より少し遅く家を出たが、昨日より早く学校に着いた。
やはり早すぎるのか、人の影はまばらだ。
教室のほうへと足をすすめる。
安部さんとの昨日のやりとりを思い出す。
こんな朝早く、部活動以外の誰かが居るとは思わなかった。
彼女は一体なんで朝早く居たのか?
でもまさか今日は居ないだろう。
「……物好きね。やることがあるわけでもないでしょうに」
呆れたといった具合に苦笑を浮かべてその少女はドアの前に立つ俺に向けて言い放った。
朝日が差し込むだけの殺風景な教室の中で一人たたずむその少女は絵画と見紛う美しさだ。
「おはようございます、安部さん」
「……おはよ」
少し間をおいて、でも普通に返してくれる。
「……にしても早いわね、クセ?」
「まぁ、そんなところです」
ふーん、とあいづちを入れながら彼女はうなずく。
「別にこんなこと他人が言う必要なんてないんだけどさ、明日からはもっとゆっくりきたら?」
「えっ?」
「だってバカバカしいでしょ、やることないのにこんな時間に」
「安部さんは?」
「えっ?」
「どうしてこんな朝早くから学校に?」
「私? うーん、強いて言えば私は学級委員だからかな」
……そうだったのか?
「……知らなかったって顔ね」
「すみません」
「――ふふっ、まぁ名前も知らなかったんだから係なんて知らなくて当然でしょ」
指を口元に添えて上品に笑う。
「私と、あと田中 竜太がうちの学級委員、一応覚えておいたほうがいいわ」
竜太、確か初めての日に先生が弄っていたうるさそうな男子だよな……?
「その、田中くんは……」
「竜太でいいわよ」
「えっ?」
安部さんは本人でもないのに不思議なことを言う。
「アイツ、田中って名前が他のクラスの田中と被ってイヤらしいわ。みんな竜太って言うし」
「そうなんですか?」
「私にベッキーって言うようなものよ」
少し意地悪げに腕を組んで言う。
「その、竜太さんは居ませんよね?」
「ん、そうね」
「どうして安部さんだけ……」
「朝っぱらからこんなところに?」
「はい」
そうねぇ……と、少し間をおいて安部さんは窓側へと歩く。
「私が世話してるのよ、この教室」
「……はい?」
「見て」
透き通るような白い指で教室の周囲を指し示す。
見ると鉢植えに入った複数の植物、そして金魚の入った水槽があった。
「こんなにいろいろあるのに動植物の係ってないのよ。そしてなぜか私の仕事になってるの」
「そう、なんですか……大変ですね」
大変、という言葉に彼女は少し苦笑した。
「まぁ別にやらなくてもいいんだけどさ……」
言いながら金魚のほうへと歩み寄る。
「なんかイヤじゃない。枯れちゃうのも、水槽汚いのも」
その瞬間、彼女が少しだけ寂しげな表情を見せたような気がした。
「誰かに言われたわけじゃないんですか?」
「ん? そうね。別に……」
……そっか、そうなのか。
「じゃあどうして?」
「えっ?」
「水やりしなくても誰にも文句言われるわけじゃ」
「そうねぇ……別に」
淡々と答える
「ただ……」
少し暗い顔をして、彼女はこちらを見た。
「可哀想だし」
「……えっ?」
その冷たく悲しい言葉に射抜かれる。
「そういうことよ。さっさと水替えなきゃいけないからおしゃべりはココまでね」
「……手伝います」
その言葉を聞いた本人も、そしてそれを言った俺自身も驚いていた。
「えっ?」
「水を替えるんですよね、どこまで運べばいいんですか?」
「いいわよ別に」
「俺、特にやることがあるわけじゃないですから」
そう言って、水槽へと手をかけた。
「……あっ、そう。好きにすれば」
彼女はそっけなく返す。
両腕に力を入れる。
「――っ!? 重っ!」
水を入れたままの水槽は重たかった。
「……渡良瀬くん、力ないわね」
確かに体力に自信はない。
「すみません……」
しかし彼女はこれを運んでいるのだろうか?
だとすればものすごい力の持ち主
「はい、これ」
不意に彼女は口の付近が大きく切り取られた空のペットボトルを差し出した。
「そんなに水が入ってたら運べるわけないでしょ? 一旦水を半分くらいにしてから流しへ運ぶの。バケツに変える水もとってあるから入れる時も半分だけ入れて運んだ後で残りを入れるの。ったくバカね」
――なるほど。
俺は彼女が持っているペットボトルの一つを受け取った。
特に重要事項もなくホームルームが終わる。
ひとつ前の席では大きな背中が寝息を立てていた。
さすがに今日は五分前には到着していた。
昨日のお礼を言おうと思ったのだが、軽く挨拶をしたかと思うと栄太はすぐに寝息を立てた。
……それにしても、ずっと寝てるな。
まだ三日目ではあるが、栄太に関しては寝ているところしか見たことがない気がする。
「あぁ、うん。ずっと寝てるよね、栄太」
芽衣さんもそう言っている。
「寝るって事に関して言えば栄太は最強ね。次点で彩姫かな?」
「それで授業は大丈夫なんですか?」
「いやぁ、まぁダメでしょう」
バカにしたように言う。
「でもね、栄太は不思議と悪い点とらないんだよね。平均少し割り込むくらいかな?」
「そうなんですか?」
「そうなんですよー。なんか、あれかな? 睡眠学習とかいうやつ?」
「睡眠学習?」
「知らない? 雑誌の裏に載ってたりするじゃん、秘術だよな」
「……すごいんですね」
「いや、すごいというか、なんというか……」
倒れこんだ背中を見ながら芽衣さんは少し複雑そうな顔をする。
「バイト漬けって感じらしいからさ、しょうがないんだけどね」
「……バイト漬け?」
……それは知らなかった。
複雑な家庭事情でもあるのだろうか?
「……あれ? もしかして知らなかった?」
「はい」
「あれ、まずかったかな? なんか栄太からお隣だって聞いてたし珍しく気に入ってるみたいだったからもういろいろ知ってるかと思った」
「気に入ってる?」
「あ、いや。昔から栄太、あんまり同級生と話さないのに色くんには自分から話しかけるじゃない?」
――ゆうねぇも似たようなことを言ってたな。
芽衣さんは机の上にあった消しクズを丸めて栄太の方へと投げつけた。
その日は特に何かあったわけでもなく、いつの間にか学校は終わっていた。
自転車に乗って自分の部屋へと戻る。
復習を一通り終えたら明日の時間割を眺めて必要な部分を予習する。
「……って必要ないな」
今日とったノートを眺める。
明日あるであろう科目の教科書を眺める。
そのどれもがすでに習ったことのある範囲だった。
前の学校での授業スピードはどうやら速かったらしいことは知っていたが初めてちゃんと理解した。
この様子だと当分はとりたてて勉強への努力など必要ないのかもしれない。
ガチャっと玄関のほうから音がした。
パタパタと足音が近づく。
「あら色、ただいま」
「おかえりなさいゆうねぇ」
買い物袋を持ったゆうねぇが帰ってきていた。
気が付けばそんな時間なのか。
「なぁに、予習とか?」
ダイニングテーブルに広がる教科書を見つけたのか、そんな事を聞く。
「マジメねぇ」
「すぐ片付けます」
テーブルをキレイに片付ける。
変わりに買い物袋から惣菜類がいろいろと出てきた。
「今日は、どうだった?」
「えっ?」
「学校とか」
「いえ、特には」
「放課後は? すぐ帰ったの?」
「はい」
それを聞いたゆうねぇの顔が少しだけ曇る。
「……ふーん、そうなんだ」
だがそれだけいうと何事もなかったかのように夕食の準備を始めた。