第六話:人間になった日常のはじまり」
ベッドに腰を下ろした智紀は、まだ少し震える手で自分の腕を確かめていた。
骨格、体温、肌の感覚――どれもが、本物の「人間」のものだった。
「……ねえ。僕、ちゃんと“話せてる”……」
そう言って、また自分の声を確かめるように口を動かす。
その響きが、自分の胸の奥にまでちゃんと届いているのを感じて――思わず、笑みがこぼれそうになった。
喜びというより、不思議な温かさだった。
この“声”で、あの子と話せるかもしれない。それだけで、胸の奥が少しだけ熱を帯びていく。
「昨日までの僕は、声を出しても、ただ吠えるだけだったのに……」
「それも契約の一部だ」
アズライルは面倒くさそうに尻尾をひとつ振った。
「人間になるってのは、ただの見た目じゃない。“言語”も“記憶”も、“社会的立場”も含めて、ちゃんと揃えなきゃバレるだろ」
「……記憶?」
「教科書の内容も、日本語も、最低限は入れてある。あとは、お前が勝手に学べ」
「勝手に……って」
智紀が苦笑を浮かべると、アズライルはわずかに片耳を揺らした。
「ただし、“中身”までは保証しない。
たとえば他人との距離感とか、人間らしい気遣いとか――
そういうもんは、自分で学ぶしかないからな」
その言葉に、少しだけ含みを感じた。
それが忠告なのか、警告なのかは分からない。
人間として“何かを学ぶ”という感覚も、初めてだった。
これから目にするすべての景色が、きっと“最初の一歩”になる。
怖くないと言えば嘘になる。けれど、それ以上に――今はただ、知りたいと思った。
結月の隣にいるこの一年を、自分はどう生きて、何を残せるのか。
「……で、僕はこれから、どうなるの?」
「白津智紀。十六歳。今日からこの家で暮らして、この街の高校に通う。
結月の母親の知り合いの、友人の息子――ってことになってる」
「いつから?」
「数日前から、だ。全部整えてある。
お前の部屋も、制服も、履歴書も、転入届もな」
アズライルは鼻を鳴らす。
「一応、名前を覚えてる奴も数人くらいは設定しておいた。
人間ってのは、“見たことある気がする”ってだけで簡単に納得するからな」
「……全部、君が?」
「全部、俺が」
あっさりと言いながらも、どこか楽しんでいるようにさえ見える。
この悪魔にとって、世界を“編み直す”ことはただの遊戯なのかもしれない。
「……一年、だよね。僕が人間として生きられるのは」
「そう。ぴったり一年」
アズライルの声が、そこでわずかに落ち着いた音を帯びる。
「一年が過ぎれば、お前はこの世界から消える。存在も、記憶も、な」
「……それでも」
智紀は、自分でも驚くほど静かな声で呟いた。
「それでも……僕は、ここにいたい。今、結月ちゃんの隣にいたいと思ってる」
アズライルは何も言わなかった。
ただ、ひとつあくびをして、それから冷めた口調で言う。
「なら、とっとと制服に着替えろ。転入初日、遅刻すると印象悪いぞ」
そう言って、尻尾をふわりと振った。
「えっ、もうそんな時間……?」
「あぁ。早くしないと“女”が迎えにくるぞ――って、もう階段の方から音がしてるな」
――コツ、コツ。
規則的な足音が、静かな廊下をのぼってくる。
智紀は息を呑み、ハンガーにかかった制服に視線を向けた。
ほんの数日前まで、自分には無縁だった“人間の服”。
それが、いま目の前に「当たり前」のように存在している。
手を伸ばせば、未来が始まる。
だが同時に、カウントダウンも始まる。
残された時間は、きっかり一年――それでも、踏み出すしかない。
人間としての一日目が、いま始まろうとしている。
みなさん、こんにちは紗倉です。
まずはここまでお読みいただきありがとうございます。
ついにシロが智紀という人間になりました!物語が始まったって感じがします。
次回はシロの転入編となります。
もう少し詳細に智紀はどういう人物なのか、描写していけたらなと思っていますので
次回もどうぞお付き合いください!