第五話:問いと答え
犬の姿のまま、その何かはもう一度身体を丸めた。
けれど、目だけはじっとこちらを見ている。
その視線に導かれるように、智紀は思わず口を開いた。
「……ねえ、君って、結局――何者なの?」
わずかに尻尾が止まる。
ゆっくりと首をもたげ、口の端をゆるく持ち上げた。
「俺か? まあ、肩書きで言えば――“悪魔”ってやつだな」
「……悪魔……」
「そうそう。よく言うだろ? 願いを叶える代わりに、代償を求める存在。俺はその実行者さ。
お前の“人間になりたい”って願いを通した時点で、正式に契約は成立してる」
それは空気のように軽い口調だった。
けれど、その言葉の奥には、逃れられない現実の重みが確かにあった。
「だから――強いて言えば、今の俺は“観察者”ってところか」
「観察者……?」
「契約が済んだ以上、お前がこの一年をどう生きて、どう終えるか。
その結末をきっちり見届ける。それが悪魔としての“筋”ってもんだ」
からかうような笑みを浮かべながらも、その目の奥には一切の冗談がなかった。
「……じゃあ、ずっとここに? 一緒に暮らすってこと?」
「ま、最低限“犬”としての役目は果たしてやるよ。吠えるとか、餌を食うとか。」
アズライルはひとつあくびをして、ひらりと前足を振った。
「名前は、あるの…?」
「んなもん、どーだっていいだろ」
「で、でも、これから一緒に居るなら、名前がないと不便だよ…なんて話しかければいいかわからないし…」
智紀の言葉に、悪魔はしばらく無言になった。
やがて、しぶしぶと答える。
「……アズライルだ」
「アズライル……」
復唱しようとしたその声を遮るように、彼は話を続けた。
「それより――お前、気づいてるか? この家の奴ら、お前のことを“最初からここにいた”みたいな顔してるだろ」
その言葉に、智紀の背筋にひやりとしたものが走る。
(……たしかに。結月ちゃんも、驚きはしてたけど、“誰?”とは言わなかった)
「どうして……? 僕は昨日まで、犬だったはずなのに」
「それが“契約”ってもんだ。
人間になるには、それに見合った“存在証明”が必要だからな。
白津智紀という“人間”は、この街の誰にとっても“最初からいた”ことになってる。学校も、住民票も、家族もな」
「……全部、君が?」
「ああ。まあ、正確には“世界のほうを少しだけ書き換えた”ってとこか。
他人の記憶や証明書類なんか、いじるのは慣れてる」
まるでカーテンを替えるみたいにあっさりと言い切るその様子に、智紀は言葉を失った。
「……じゃあ、どうして今ここに? “次の春に会おう”って言ってたのに……」
アズライルは少しだけ視線を逸らす。
答えを探すというより、自分の中にある言葉を、口にすべきかどうか測っているようだった。
「……ああ、たしかに“春に”って、そう決めてたはずなんだけどな」
ぼそりと漏らされたそれは、どこか自分に向けた独白のようだった。
それは決して軽口ではなく、何かが彼の中で引っかかっているように、智紀には感じられた。
けれど、すぐにその雰囲気は切り替わる。
「まあ……放っとくには惜しい舞台だと思ってな。
お前が“人間としてどう終わるか”、ちゃんと目の前で見ておきたくなった」
「……」
「理由なんて、それだけだよ。たぶん」
そう言ってアズライルは再び丸くなり、ベッドの端に顎を乗せた。
その横顔に、どこか遠い記憶を見ているような影が差していたが、
智紀が何かを言うより早く、彼はもう目を閉じていた。
一瞬、静寂が部屋を満たす。
ベッドの端に丸くなったアズライルの横で、智紀はそっと息をついた。
まだすべてが夢のようだった。けれど――確かに、朝は始まっている。
ここまで読んで下さりありがとうございます。
次回はいよいよシロの人間世界での生活がスタートします。
頑張って続きを書いていきますのでついて来てもらえると嬉しいです