第四話:朝の混乱ともう一匹の“シロ”
まぶしい光が、まぶたを貫いた。
反射的に瞬きをし、ゆっくりと目を開ける。
視界に映ったのは、白い天井。
どこか見慣れない――けれど、なぜかほんの少しだけ懐かしい気がした。
それよりも――視線が、いつもより高い。
ゆっくりと身体を起こす。
肌に触れる空気が、どこか違っていた。
手足の感覚、耳に届く音、視界の奥行き。
すべてが“犬だった頃”より、あまりにも繊細で、あまりにも騒がしい。
シーツを押したのは、毛むくじゃらではない腕。
その先には、五本の指。
人間の、それが確かに動いている。
(……これ……が、“人間”?)
実感が湧かない。
呼吸は乱れ、鼓動は妙に早い。
身体全体が、自分のものじゃないような不思議な感覚に包まれていた。
まだ整理のつかない頭を抱えたそのとき――
――バンッ!
扉が乱暴に開かれる音が響いた。
「……ちょっと、なんでアンタが私の部屋にいんの? アンタの部屋、左隣でしょ?」
制服姿の少女――篠原結月が、ドアの前に立ち、無表情のままこちらを見下ろしていた。
その瞳に宿った冷たい怒気が、肌を刺すようだった。
(……えっ?)
驚きで固まる。
昨日まで、自分を撫でてくれていたあの人。
そばにいると安心できて、笑ってくれたあの人。
けれど今――彼女はまるで、“初対面の侵入者”を見るような目で、こちらを見ていた。
声を出そうとしてもうまく出せず、喉の奥がひゅっと詰まる。
頭の中は混乱でぐちゃぐちゃだった。
結月は小さくため息をつくと、すたすたと近づいてきて、容赦なく肩を押した。
「ったく……とりあえずさっさと出てって」
そのまま、ドアの外に追い出される。
パタンという冷たい音とともに、世界から遮断された。
しばらく、ただ立ち尽くしていた。
目の前の扉を見ながら、さっきの感触を思い返す。
体温。手のひらの硬さ。怒気混じりの吐息。
そして――もう一度、手を見る。
確かに、自分のものじゃないはずの、でも今は自分としか思えないその手を。
(……夢、じゃなかった)
あの夜。
闇の中に現れた“男”。
人間になりたいと願った、自分の声。
一年という期限と、存在の消滅。
脳裏に浮かぶ記憶の破片が、現実と重なっていく。
言われたとおり、隣の部屋の扉に手をかける。
鍵はかかっていない。
ゆっくりと開けた先に広がっていたのは、まるで“前から自分が使っていた”かのような、違和感のない部屋だった。
ベッド、机、本棚。
カーテンの色も、家具の配置も、すべてが「自分の部屋」として当然のようにそこにある。
(本当に……あるんだ)
困惑と戸惑いの中、ふと気配を感じて視線を向けた。
ベッドの上に、白い何かが丸くなっていた。
――犬だった。
白くて、少し毛足が長くて、どこかとぼけた顔の。
まさに、昨日まで自分がなっていた“あの姿”。
その犬が、ゆっくりと目を開けて、こちらを見た。
黒く深い瞳。
まるで、その奥に“人間ではない何か”が潜んでいるような光があった。
口は動いていないのに、確かに“声”が聞こえた。
「おはよう。……どうだ、人間の朝は?」
それは空気を震わせる音ではなく、意識の内側に直接届くような、不思議な感覚だった。
「……まさか、昨日の……あの人?」
智紀は半ば確信しながらも、信じきれないような声でそうつぶやいた。
犬の姿をした“それ”は、しれっとした顔であくびをひとつ。
「まあ、少しばかり事情があってな」
意味ありげに目を細めながらも、飄々とした口ぶりは変わらない。
「お前が“白津智紀”として人間になる舞台が始まるなら――
ついでに俺も、そばで観ておこうかと思ってな」
その言葉を聞いて、智紀はほんの一瞬だけ息を止めた。
視線が合う。
まっすぐ見つめ返しながら、今度は疑問ではなく、確信の響きを持って問いかけた。
「……やっぱり、君が……昨日の」
犬の姿をした何かは、何も言わずにしっぽを一度だけ揺らした。
それだけなのに、心の奥がわずかにざわめく。
何かが、始まった――
そんな予感がした。