第三話幕間:「取引」
世界が沈黙したとき、彼はそこに現れた。
音も、色も、匂いも、すべてが一瞬にして凍りついたような空間。
人間たちには知覚すらできない“境界”の中で、ただ一匹――犬だけが、こちらを見上げていた。
アズライルは、いつもと同じように微笑んだ。
それは表情というより“手続き”に近い。
この顔を向けると、大抵の者は安堵し、そして怯える。
「……ずいぶん切実だな。犬のくせに」
驚いてこちらを見たその目を見て、アズライルはふと眉を寄せそうになる。
(――またか)
どこかで見たような光。名前も、経緯も思い出せないのに、どうしようもなく“知っている気がする”。
だが、それが何かはわからない。
彼はもう、記憶を持たない。
それでも――
時折こうして、無性に“胸の奥がざらつく”ことがある。
「お前の願い、聞こえたよ。“人間になりたい”んだろ?」
いつものように契約を提示する。
条件、代償、世界の修正。
淡々と進めるだけの仕事。そう、これはただの仕事だ。あの傲慢で、気まぐれな女から命じられただけーー。
なのに、犬の目を見つめながら、アズライルはどこか落ち着かなかった。
拒絶されるわけでもないのに、奇妙な苛立ちが喉元に引っかかる。
なぜだ。こいつは誰だ? なぜこんなにも“気に障る”のか。
「――彼女の中からも、だ。お前の名前も、顔も、思い出せなくなる」
静かに告げたその一言で、犬の目が大きく揺れた。
けれど、引かなかった。
それが決意というものだと、アズライルは知っていた。
(そうか――お前は、本気なんだな)
理由も経緯も不明なまま、どこかで何かが重なるような感覚。
それが“懐かしさ”なのか、それとも“警告”なのか、彼にはわからなかった。
「では――また、次の春に会おう」
アズライルは一歩引き、静かにその場を後にする。
世界が音を取り戻し、時間が動き出す直前、彼は一度だけ振り返った。
犬だった少年が、この先どんな選択をするのか。
それは興味ではない。
ただ――
どこかで、ほんの少しだけ“目を離してはいけない気がした”だけだった。