第三話:悪魔が現れた夜
その変化は、最初、とても静かだった。
風の音が止まり、時計の秒針が動かなくなる。
窓の外の世界が、ふっと“息をひそめた”ように、すべての音が消えていった。
ベッドの上で眠る彼女の寝息だけが、変わらず静かに響いていた。
異変に気づいたのは、その沈黙の中だった。
空気の密度が変わった。
夜の闇が、部屋の隅からじわりと染み出すように濃くなっていく。
目には見えない“何か”が、すぐ近くに立っている――そんな錯覚。
「……ずいぶん切実だな。犬のくせに」
聞いたことのない男の声だった。
どこか飄々としていて、けれどその奥に、温度のない冷たさが宿っていた。
感情を装っているようで、どこにも心が通っていない。
そんな声だった。
驚いて顔を上げると、そこに“それ”はいた。
人間のような姿だった。だが、違う。
その存在は、影から切り取られたように、そこに浮かび上がっていた。
黒い髪、鋭く整った輪郭、深く揺らぐ黒曜石の瞳。
なにもかもが美しく、そしてどこか“正しくなかった”。
「お前の願い、聞こえたよ。“人間になりたい”んだろ?」
こちらの思考を読んだように、男は口角だけで笑う。
その笑みもまた、表情という“仮面”を貼りつけただけのようだった。
「言葉がほしい。触れられる手がほしい。伝えたいことがある。……まあ、動機としては、ありがちだな」
こちらは身を硬くしたまま、ただ彼を見ていた。
言葉は返せない。けれど、心がざわついていた。
本能が、この存在がただの“人”ではないと告げていた。
「望むなら、叶えてやろう。人間として生きる力を、お前に与える」
「――ただし、代償はある」
彼の背後に、黒く歪んだ紙のようなものがふわりと現れる。
それは空中に漂う“契約”だった。
文字も印もないはずなのに、不思議とその内容が、脳に直接染み込んでくる。
「お前が手に入れるのは、“一年間の人間としての存在”」
「その一年が終われば――お前はこの世界から完全に消える」
その声は変わらず軽く、冗談のように響いていた。
けれど、そこに“撤回”の余地はなかった。
「存在そのものがなかったことになる。記録も記憶も、すべて消去される」
「――彼女の中からも、だ。お前の名前も、顔も、思い出せなくなる」
その瞬間、胸がぎゅっと痛んだ。
何かが引き裂かれるような感覚だった。
頭の奥で誰かが叫んでいた。「やめろ」と、「考え直せ」と。
けれど同時に、別の何かが囁いていた。
「それでも、彼女のためなら」と。
「それでもいいなら、“契約成立”だ」
男は一歩こちらに近づいた。
その歩みは音もなく、まるで影のようだった。
「もちろん、手続きはこちらで整えておく。お前は“白津智紀”という存在になる。戸籍も、通学記録も、周囲の記憶も――すべて“そうだった”ことになる」
「だが、それらは仮初めの因果。契約が終われば、世界は修正される」
(……全部、消えるのか)
でも、それでも――
(今、そばにいたい)
言葉が欲しかった。
触れられる手が欲しかった。
彼女の涙に、もう黙っているしかない自分でいたくなかった。
恐怖も、迷いも、あった。
でも、そのすべてを超えて――願いはもう止まらなかった。
――願う。この手で、守れるのなら。
静かに、鼻先で黒い紙に触れる。
わずかな風が生まれた。
空間が揺れる。光が沈み、音が吸い込まれる。
すべてが、霧のように霧散していく。
それは、祈りではなかった。
命令でも、義務でもなかった。
自ら選び取った、初めての“決断”だった。
男は満足げに目を細め、ひとつだけ言った。
「では――また、次の春に会おう」
次の瞬間、その存在は跡形もなく消えていた。
時が動き出す。
時計の秒針が、ゆっくりと進み始める。
風の音が戻り、ベッドの上で眠る彼女の呼吸が静かに続いていた。
けれど、それまでの世界は、もうなかった。
この夜を境に、自分は――もう、元の自分には戻れなくなった。




