第二話:届かない声、かたちのない願い
夕暮れに染まる部屋の窓から、鈍い橙色の光が差し込んでいる。
雨は止んでいた。けれど、空にはまだ重たい雲が残り、街の音がどこか湿って聞こえていた。
まるで、何かが起きる直前の静けさのように――。
「……ただいま」
その声は、今日も響かなかった。
玄関のドアが閉まる音、鞄が床に落ちる音――どれもが硬く、重い。まるで、彼女の中から感情だけが抜け落ちてしまったみたいだった。
制服のままベッドの傍に座り込み、スマホを手に取る。薄暗い画面を、じっと見つめる瞳に光はない。細い指先が、ほんのわずかに震えていた。
何を見ているのかはわからない。でも、また“あの匂い”がする。
甘くて、鈍く濁った匂い。心を蝕むようなそれは、僕の鼻に嫌というほど馴染んだ匂いだった。
(……今日も、なにかあったんだ)
声にならない問いが、胸の奥に滲む。
やがて彼女はスマホを伏せて抱きしめるように胸に当て、ぎゅっと目を閉じた。
何も言わない。泣きもしない。ただ、息を潜めるようにそこにいる。
見ているだけで、胸が締め付けられた。
(僕には……何もできない)
足元に静かに座り、そっと鼻先で彼女の手に触れてみる。
でもその手は、僕を撫でるでもなく、ただ自分の感情を押し殺すように固く握られていた。
「……聞いたら、終わっちゃうもんね」
ぽつりとこぼれた言葉は、ひどく遠くて、かすれていた。
誰に向けた言葉なのかもわからない。ただ、その声が、表情が、僕の心を深くえぐった。
この人は、今、どれほど孤独なんだろう。
どれほど、泣きたくても泣けない想いを抱えているんだろう。
なのに、僕は。
彼女の隣にいながら、支えることも、触れることも、何ひとつできない。
(僕の声は……ただの鳴き声でしかない)
どれだけ想っても、それが“言葉”にならなければ、届かない。
彼女の悲しみがどれだけ深くても、その痛みに手を伸ばせない。
触れる距離にいるのに、遠い。
“犬”であることの残酷さを、これほどまでに痛感した日はなかった。
ただ静かに、彼女を見つめながら、僕は心の中で叫び続けていた。
(言葉がほしい)
(手がほしい)
(……彼女に、触れたい)
僕の中に、かつてないほど強い感情が立ち上がっていた。
それは「守りたい」なんて言葉では片付けられない。
「一緒にいたい」でもない。
もっと、生々しく、切実で――
(彼女と、同じ痛みを分かち合える存在になりたい)
そう願った。
あの雨の日、初めて感じた“ぬくもり”に惹かれた僕は、彼女のそばにいることを望んだ。
でも今は違う。
今の僕は、「そばにいたい」だけじゃ足りない。
彼女と同じ目線で、同じ痛みを感じ、同じ言葉を交わせる“何か”になりたい。
(……人間になりたい)
初めて、自分の意思として、その願いを強く思った。
恩返しでも、感謝でもない。ただ、“彼女の隣に立ちたい”という衝動だった。
◇ ◇ ◇
その夜。
僕は眠れなかった。
隣で静かに寝息を立てる彼女の呼吸を確かめるように、そっと寄り添う。
夢の中の彼女が、小さく僕の毛に触れる。温かくて、どこか切ない仕草だった。
(こんな風にしか触れ合えないなんて)
このぬくもりを、どうか失いたくない。
でも、このままでは、きっと――彼女の孤独を埋めることはできない。
静かな夜の底で、確かに“なにか”が芽吹いていく音がした。
感情が、衝動へと変わる音。
その音に、誰も気づかない。
でも、それこそが確かな“始まり”だった。
◇ ◇ ◇
――遥か彼方の虚空にて。
黒衣の影が、ただ一人、ゆっくりと目を開く。
「……またひとつ、願いが生まれたか」
白い女神とは異なる、冷えた声。
けれどその奥には、どこか懐かしさのようなものが滲んでいた。
やがてその姿は、静かに闇へと溶けていく。
まるで、これから訪れる“契約”を――
歓迎するように。
そして、その夜の静けさは、ほんのわずかに――歪んでいた。